第10話 ユリアン・フローゲの物語1
僕がアマミヤを初めて見たとき。
強い風が吹いて、美しい黒髪が舞うのを、僕はただ見ていた。
声をかけられず、僕は息をのんで見つめていた。漆黒の毛皮を持つ、生き物。
これは…
頭の上の耳の形を確認する。
ピンと立った耳は三角形で、尖っている。
短い服の裾から覗く、艶やかな長くて太い尾。
後ろ姿でも僕には分かる。間違いない。
それは、狼だった。
黒い狼なんて初めて見た。
黒い生き物は、カラスと猫類、それ以外には存在しないと言われているくらい珍しいのに。
狼は人食いで知られている、呪われた、忌み嫌われた動物だ。
僕の友人を食い殺した、憎むべき悪の種族。
危険だ、こんなに狼の近くにいるなんて…
そのとき、狼がこちらを振り向いた。
背筋が凍り、身がすくむ。
瞬間、僕は自分の死を予感した。
狼に襲われた友人の死体が思い浮かんでくる。全身を噛み千切られて貪り尽くされ、ただの肉塊になった彼の姿。
僕は、あんなふうに死ぬのか?
漆黒の闇色の瞳をきらめかせ、力強いまなざしが僕を射抜いた。
狼は女性…いや、少女だった。
僕は圧倒された。
先ほどの恐怖を忘れて、目を見張る。
…なんて、美しい生き物なんだろう。
流れる艶やかな黒い髪、対比するように、白く輝く陶器のような肌。
小さな体をして、堂々と、悠々と立っている。
何より、迷い無く僕を真っ直ぐに見つめてくる、黒い瞳。
黒い狼…彼女は、活き活きと輝いて美しく、圧倒されてしまうような力強さに溢れていた。
ふと僕は、
こんなに美しいものになら、殺されても良いかな。
少しだけ、そう思ったのだった。
「聞かせて」
「……わかった」
僕はアマミヤの迫力に気圧されるかたちで、重い口を開いた。
何故彼女は、そんなに僕の話を聞きたがるんだろうか。
自分が商品として、僕らに売り飛ばされるのだと知って、それなのにどうして、いまだに僕の話なんか聞きたがるんだ?
他に聞くべきことがあるんじゃないのか?
助かりたいとは思わないのだろうか?
僕に腹が立っているんじゃないのか?
恐ろしくはないのか?
まるで自分のことなんか、少しも気にしていないように。
彼女に話そう。話してしまおう。僕に起こったこと。
不思議な気持ちになっていた。
彼女に、全て話してしまいたい。
話を聞いて欲しい。そう思った。
彼女にはそう思わせる雰囲気がある。
僕は檻のガラス扉を開けて中に入り、アマミヤの隣に座った。
嘘をついても、さっき僕の態度が偽りだと気付いたように、彼女にはわかってしまう。
だから僕は偽り無く、自分に起こった本当のことを、語り始めた。
「僕は―」
僕は自分が、どこの誰なのか、どんな街で生まれたのか、何一つ知らなかった。
気付いたら、妹と二人で生きていた。
いちばん古い記憶は、貧民街の裏通りで、まだ生まれて間もない赤ん坊だった幼い妹を抱きかかえて、抱きしめて暖めていたこと。
妹のかじかんで冷えきった小さな小さな手に、熱い息を吹きかけてやっていた。
僕より二つか三つ年下の小さな妹は、僕と同じように茶色い毛皮のヴォルパーティンガーで、物心ついたころには二人で、家もなく路上で暮らしていた。
僕達兄妹は、僕が3歳くらいの時に揃って捨てられたのだ。
けれど不幸中の幸いで、僕達は同じように路上に生きる老人や、年上の少年達に助けられ、辛うじて生き延びた。僕も、まだ生まれたばかりだった妹も、彼等の助けがなかったなら、すぐに野垂れ死んでいただろう。
W・ライオット。それが僕等のいた国の名前だ。
世界一大きな国で、世界一発展していて、世界一不公平な国。
しかし、その国さえも手に負えず、政治が関与できない状態にある広大なスラム地区、ガレージランド。
それが僕達の育った街だった。
この21世紀の現代にあって、毎日戦争みたいな野蛮な街。商店の掃除用具入れには必ずライフルが置いてあり、レジの下には魔法で強化されたピストルが常備されている。
そんな腐った街。それがガレージランドだ。
この街で、仕事もできない小さな子供が、自分の力で生きていくためにできることは、盗むことだけだった。
僕は、仲間と一緒に、盗んで、逃げて、捕まって、殴られて、また逃げて…その繰り返しの毎日だった。
夢も希望も何にもない生活だったけれど、僕には、守るべき妹が居た。
妹だけが僕の光で、ただ一人、自分よりも大切な存在だった。妹がいたから僕は、こんな腐った街でも、生きてこられたのだ。
ガレージランドには時々、僕達のような路上暮らしの子供を施設に収容するために、政府の役人がやってくることがあった。しかし広すぎるガレージランドの中では、路上暮らしの子供の数は、施設に入れるには多すぎる。それでも、政府は役割を果たしていると思わせなきゃならない。だから役人達は、子供を選んで連れて行くのだ。健康そうで綺麗な顔の子供や、珍しい種族の子供、それと、魔法が使える子供なんかを。
僕と妹は、魔法が使える。
けれど、魔法の力を持つのは、基本的には人間だけだ。僕達みたいな、幻獣種族にはちょっと珍しい。
魔法は使えるだけで雇ってくれる所も増えるし、それだけで金になる。しかし、魔法が使えると知られてしまえば、こんな無法地帯では、捕まってすぐに売り飛ばされてしまう。だから僕達兄妹は、魔法の力を隠して暮らしていた。
もっと成長してからこの街を出て、魔法をちゃんと習いに行こうと、二人で決めていたから。
施設に送られるのは、一見路上暮らしよりは良いような気がするが、政府は捕まえた身寄りの無い子供を、商人に売り払ったり、国のために死ぬまで無理やり働かす、という話だった。
だからほとんどの子供は、政府の車が来ると逃げ出していた。
僕等も、政府の役人は毛嫌いしていた。
けれども僕の妹は現在、その政府に組している。
今から5年前、僕は魔法薬になる植物やドラッグなんかを栽培している、もちろん非合法な農場の仕事についていた。
僕達の面倒を見てくれていた年上の少年達の一人、ルーディ・シェンカーが飲食店を始めて、その商店の二階のボロい空き部屋を一つ、僕と妹にあてがってくれた。もちろん家賃は払うが、食うには困らない生活が送れていた。
貧しいが、悪くはない日々だった。
そんなある日のことだ。
「お兄ちゃん、さっき黒いスーツの人が、この家を覗いてたよ」
買い物から帰って来るなり、しかめつらで、僕の妹、アイリスは言った。
「お前そいつを見て、何にもせずに帰ってきたのか?」
アイリスには、護身用に自動拳銃を持たせていた。
「せっかくルーディに新しいヴァルサーもらったのに。使わなきゃ意味ないだろ」
「やだよ。怖いもん」
アイリスはむくれて言った。
まだ12才だが、大きな茶色い目、茶色い巻き毛、兄の欲目かもしれないが、悪くない容姿をしている。そのぶん、尚更心配なのだ。
「お前が死んだら、俺も死ぬ」
「やだ。お兄ちゃんが死ぬなんて」
「だったら、絶対死ぬなよ」
アイリスは笑う。
「死なないよ。この街で、毎日死ぬような目に合ってるのに、死んでないでしょ?」
毎日どこかの通りで銃声がする。
毎日どこかの通りで人が野垂れ死ぬ。
こんな街を、早く出て行こうと、
いつも思っていた。
それはアイリスも同じだった。いや、僕以上に、あの街、ガレージランドを、アイリスは憎んでいたのかもしれない。
その数日後。
アイリスは街を去った。
僕の仕事中に、ルーディが大慌てで知らせにきた。見ていた仲間が言うには、アイリスは、政府の役人と思しき車に、自分から乗り込んだと言うのだ。
僕は信じられなかった。
とにかく仕事を抜け出して、アイリスが乗り込んだというトラックを、僕はルーディのバイクの後ろに乗り込んで追いかけた。
猛スピードでトラックに並ぶと、僕は、ヴォルパーティンガー特有の脚力で、バイクの後部座席を蹴り上げ、トラックの屋根に飛び乗った。
「アイリスを返せ!」
そう叫んだ僕は、トラックの後ろの、格子のはまった窓から、アイリスの小さな顔が覗くのを見た。
「アイリス!」
僕は叫んだ。
「お兄ちゃん、来ちゃ駄目だよ!」
アイリスは青ざめた顔で言った。
「アイリス、大丈夫か?帰るよ」
僕がそう言うと、アイリスは首を振る。
「私は大丈夫。ごめん。お兄ちゃん、許してくれる…?」
「何を言ってるんだ?行こう、アイリス…」
窓の格子に手をかけ、力を込める。
けれど、窓の格子には魔法がかかっているようで、普通の鉄なら曲げる自信はあったのに、びくともしなかった。
僕は泣き出した。アイリスも泣いていた。
「お前が居なきゃ、生きていけないよ」
僕が言うと、アイリスは泣きながら笑った。
「お兄ちゃんが死んだら、私も死ぬ」
「だから、生きていて」
格子の隙間から指を出し、僕の手に触れ、アイリスはそう言った。
そして、魔法で出した自分の精霊に、いきなり僕の足元をすくわせた。
「うわっ」
僕はそんな叫び声をあげながら、道路に落下した。
…殺す気か!!
そう思いながらも、しっかりと道路に着地して、トラックに向かって僕は叫んだ。
「アイリス!!」
「この馬鹿―――!!」
それから数ヶ月、アイリスの行方を探し回ったが、全く掴むことができなかった。アイリスが何故自分からトラックに乗ったのか、何故僕の元を離れていってしまったのか、全くわからなかった。僕達は、今まで一度も離れたことがなかったのだ。だから僕にとっては、片腕をもがれたようなものだった。
この頃の僕は、政府の車を見ると片っ端から喧嘩を売った。
アイリスの居る場所に行けるかと思って、トラックや車を追いかけたことも幾度かあったが、銃で狙撃されて命からがら逃げ帰った。
ヤケになって暴れまわっていた僕は、政府相手に武器や違法商品を売っている、新参者のマフィアの一味アン・ディ・フロイデ、通称「フロイデ」に疎まれ、捕まって売り飛ばされた。
僕が売られた場所から逃げ延びて、生き倒れているところを、この一座、ベガーズ・バンケットのリングマスター、ヴァンに拾われたのだった。
ルーディ・シェンカーは、白いヴォルパーティンガーで、僕たち兄妹のほとんど親代わりみたいなものだった。
僕達を最初に見つけたのが自分だと言って、何かと目をかけてくれていた。見かけは二十代くらいだが、誰も、彼自身も本当の年齢や名前は知らない。彼も捨て子だったからだ。
ヴァンに助けられてから、僕はいったんガレージランドに戻った。ルーディに会って、自分は無事だと報告したかったから。僕を目の敵にしていたフロイデは、もうガレージランドにはいないと思ったのだ。さほど大きくない新しい組織だったし、無法地帯であるガレージランドの中では、政府相手の仕事は更に危険で、やりにくいものになると考えたのだ。
今考えれば、僕は大馬鹿だった。
無法地帯だからこそ、政府の要人ですら違法商品の売買ができる。そのために政府がフロイデを立ち上げたのだ。
言ってみればフロイデは、国営の犯罪組織。
フロイデは、短期間のうちにガレージランドで幅を利かせる一味になっていた。
そしてルーディは、僕と親しい者として目をつけられていた。
「久しぶり、ルーディ」
「ユリアン!?」
僕は夕方頃、ルーディのバーに顔を出した。ルーディは驚いて大声をあげたが、すぐに声を潜めた。
「馬鹿かお前!よりによってここに来るやつがあるか」
ルーディはそう言ったが、僕の無事を喜んでくれた。その日はルーディの家に泊まって、次の日一座に戻るつもりだった。
このとき既に、フロイデの一味は、僕がのこのこ街に戻ってきたことに気付いていたのだ。…この夜、どうしてすぐに街を出なかったのか。
今でもそれが悔やまれる。