第七章 帰還
裂け目の空が、ゆっくりと揺れていた。
赤い雲の奥で、巨大な門番の影がまだ動いている。
しかし先ほどの戦いのあと、周囲は不気味なほど静かだった。
灰色の森には風もない。
ただ、どこか遠くで何かがうごめいている気配だけがある。
神崎玲司は剣を鞘に収めた。
「……一旦戻る」
澪は顔を上げた。
「戻れるんですか?」
神崎は空を指した。
上空に浮かぶ裂け目。
「向こうとまだ繋がってる」
九条の術式が作った光の陣が、かすかに残っている。
ナギが腕を組んだ。
「急いだ方がいい」
「どうして」
「門番は一度退いたけど」
ナギは森の奥を見る。
「また来る」
澪の背筋に寒気が走る。
「それは嫌……」
神崎は頷いた。
「同感だ」
それからナギを見る。
「お前はどうする」
ナギは少しだけ笑った。
「俺はこっちの住人だぞ」
「そうか」
神崎はあっさり頷いた。
だが澪は思わず言った。
「待って!」
二人が振り向く。
「ナギがいないと……」
澪は言葉を探した。
「色々分からないことが多いし」
ナギは少し驚いた顔をした。
「俺?」
「うん」
澪は真剣な顔で言う。
「来ない?」
ナギは黙った。
赤い空を見上げる。
それから澪を見る。
少しだけ考えるように。
やがて肩をすくめた。
「面白そうだな」
神崎が眉を上げる。
「軽いな」
「退屈なんだよ、こっち」
ナギは笑った。
「それに」
澪を見る。
「境界の鍵がどんなことするのか、見てみたい」
澪は苦笑した。
「私まだ何もしてないけど」
「さっきやった」
ナギは言う。
「あの主を追い払った」
神崎が腕を組む。
「……本当に来るのか」
「いいの?」
ナギは首を傾げた。
神崎は少し考えた。
それから言う。
「問題は山ほどある」
「だろうな」
「だが」
澪を見る。
「君の能力は異界と関係が深すぎる」
ナギを見る。
「説明役がいるのは助かる」
ナギはにやりと笑った。
「交渉成立」
神崎は空を見上げる。
「じゃあ行くぞ」
三人は裂け目の下へ集まった。
神崎が小型の装置を取り出す。
黒い金属の箱。
ボタンを押すと青い光が広がった。
「帰還ビーコン」
ナギが興味深そうに覗き込む。
「へえ」
「異界の座標を固定して、向こうの門を開く」
装置が振動する。
空の裂け目が青く光る。
澪の胸が少しだけ軽くなった。
「帰れるんだ……」
その時。
森の奥から、遠い咆哮が聞こえた。
門番だ。
神崎が言う。
「急ぐぞ」
光の柱が落ちる。
三人の体を包む。
視界が白く染まる。
風の音。
冷たい夜の空気。
澪はゆっくり目を開けた。
長野の山だった。
湖の岸。
さっきまでいた場所。
九条千景がこちらへ走ってくる。
「玲司!」
「無事だ」
九条は澪を見る。
「澪!」
「はい……」
それから三人目を見た。
白い髪の少年。
「……誰?」
ナギが手を挙げた。
「どうも」
九条の眉が跳ね上がる。
「ちょっと待って」
神崎が言った。
「説明は後だ」
九条は頭を抱えた。
「いや後じゃないでしょ!」
「異界人連れて帰ってきたの!?」
ナギは笑っている。
「お前、面白いな」
「笑い事じゃない!」
九条は深くため息をついた。
「……施設戻るわよ」
数時間後。
境界管理局・地下本部。
会議室の空気は重かった。
モニターには長野の境界データが映っている。
九条が説明していた。
「境界崩壊の規模は予想以上」
「門番クラスが確認されたのも初めて」
研究員たちがざわめく。
その中で、ナギは椅子に座ってお菓子を食べていた。
「これうまいな」
「それ私の非常食!」
九条が叫ぶ。
澪は苦笑した。
神崎がモニターを見つめる。
「問題はここだ」
地図を拡大する。
日本各地に赤い点が増えている。
「……増えてる」
澪が呟く。
九条も頷いた。
「三日前の三倍」
ナギが口を開いた。
「言っただろ」
全員の視線が集まる。
「境界は自然には壊れない」
モニターを指す。
「誰かがやってる」
研究員が言う。
「でもどうやって……」
ナギは笑った。
「簡単だ」
静かな声。
「境界を開く装置を作ればいい。」
部屋が凍りつく。
神崎が低く聞いた。
「そんなものがあるのか」
ナギは肩をすくめる。
「昔はなかった」
それから澪を見る。
「でも今はあるみたいだ」
澪は小さく息を呑んだ。
「……誰が?」
ナギは少しだけ笑った。
「それを探すのが」
指で澪を指す。
「境界の鍵の仕事じゃないのか?」
澪は言葉を失った。
こうして――
雨宮澪の物語は
ただの異界事件ではなく
世界を壊そうとする存在との戦いへと変わっていく。




