第五章 灰の森
「走れ!」
ナギの声と同時に、澪は反射的に走り出していた。
灰色の地面を蹴る。
足元の土は柔らかく、少し粘り気がある。まるで濡れた灰の上を走っているようだった。
背後から、ざわざわという音が迫ってくる。
振り向く。
「ひっ……」
森の奥から、黒い影がいくつも這い出してきていた。
四足のもの。
二足で歩くもの。
形が定まらないもの。
その数は――
数十。
「ナギ!」
「前見ろ!」
ナギは驚くほど速かった。
裸足なのに、岩だらけの地面を軽やかに走っている。
澪は必死に後を追う。
「こっち!」
ナギは灰色の森の奥へ飛び込んだ。
木々は細く、枝が歪んでいる。
葉はほとんどなく、空は赤く濁っていた。
息が苦しい。
「はぁ……っ」
澪の足がもつれそうになる。
ナギが振り向いた。
「体力ないな」
「普通の……人間だから!」
その時、背後で木が倒れる音がした。
影の獣たちが追いついてきている。
ナギは周囲を見回した。
そして、小さく呟く。
「……仕方ない」
ナギは突然立ち止まった。
「え?」
澪が止まる。
「何してるの!?」
ナギは地面に手をついた。
すると――
空気が震えた。
灰色の地面に、淡い光が広がる。
円の形。
複雑な模様。
まるで魔法陣のようだった。
ナギが低く言う。
「下がれ」
次の瞬間。
森から影の獣が飛び出した。
牙をむき、澪に襲いかかる。
しかし――
バチン!
見えない壁にぶつかったように、獣が弾き飛ばされた。
澪は目を見開く。
「結界……?」
ナギは肩をすくめた。
「そんな感じ」
影の獣たちは結界の外で唸っている。
だが入ってこれない。
澪はようやく息をついた。
「助かった……」
その場に座り込む。
心臓がまだ激しく打っている。
ナギは澪を見下ろした。
「人間って、ほんと弱いな」
「失礼!」
澪は思わず言い返す。
ナギはくすっと笑った。
それから、少し真面目な顔になる。
「でも」
澪を見る。
「お前、変だ」
「え?」
「普通の人間」
指で結界の外を指す。
「あいつら見ただけで気絶する」
影の獣たちは今も結界の外を徘徊している。
澪は苦笑した。
「慣れてるから」
「慣れるなよ」
ナギは呆れた顔をした。
少し沈黙が続く。
澪は空を見上げた。
赤い空。
どこか遠くで、巨大な影が動いている。
あの門番だ。
胸がざわつく。
「ナギ」
「ん?」
「さっき言ってたよね」
澪は聞いた。
「境界が壊れるって」
ナギの表情が少し変わる。
「……ああ」
「どういうこと?」
ナギは少し考えた。
そして地面に座る。
「境界っていうのは」
地面に線を引く。
「世界と世界の壁だ」
線の片側を指す。
「こっちが人間の世界」
反対側。
「こっちが異界」
澪は頷く。
ナギは続けた。
「普通は閉じてる」
「うん」
「でも今」
線をぐしゃっと崩した。
「壊れ始めてる」
澪の背中が冷たくなる。
「……全部?」
「まだ一部」
ナギは空を見た。
「でもこのままだと広がる」
静かに言う。
「そうなったら」
結界の外の影を指す。
「ああいうのが、山ほどそっちの世界に行く」
澪は言葉を失った。
しばらく沈黙。
やがて澪が言う。
「止められないの?」
ナギは少し笑った。
「簡単に言うな」
「ごめん……」
ナギは肩をすくめる。
「まあ」
少しだけ真面目な声になる。
「方法はある」
澪が顔を上げる。
「本当?」
「でも」
ナギは澪を見た。
「人間には無理」
「……どうして」
ナギは答えようとした。
その時だった。
澪の頭の奥で、何かが震えた。
声。
遠くから呼ぶ声。
――澪。
澪は顔を上げた。
「……神崎さん?」
ナギが眉をひそめる。
「どうした」
「今……声が」
その瞬間。
空の裂け目が光った。
青い光。
ナギが目を見開く。
「……人間の術式?」
裂け目から光の柱が落ちる。
地面に巨大な魔法陣が広がった。
そして――
神崎の声が響く。
「澪!」
次の瞬間。
神崎玲司が異界へ降り立った。
剣を手に。
コートを翻しながら。
ナギが小さく呟く。
「……へえ」
少し笑う。
「やるじゃん、人間」
しかしその直後。
森の奥から、低い唸り声が響いた。
今までとは違う。
重く、巨大な気配。
ナギの顔から笑みが消える。
「……まずい」
澪が震える声で聞く。
「何?」
ナギは森の奥を見つめた。
ゆっくり言う。
「門番じゃない」
「え?」
「主が来る。」
森の奥の闇が、ゆっくりと動き始めた。




