第9話 託されるもの
住宅街は、不気味なほど静まり返っていた。
無造作にドアを開け放ったままの家も、固く閉ざされたままの家も、等しく沈黙している。
風の音も、虫の音も、人の気配すらない。あるのは、玄関先に置かれた靴や、開け放たれた窓が刻み残した人生の痕跡だけだった。
その上を化け物たちはぞんざいに踏み荒らしながら歩き回っている。
数は多くない。しかし、かつて綺麗だった住宅街が、奴らの汚らしい体液や痕跡で汚れていくことに、真は強い嫌悪感を覚えた。
「さっきのでかいやつのせいか、不浄者が少しずつ集まってきてるね。」
少し離れた位置から不浄者の動向を観察しながらレイが呟いた。
「そうですね」
レイの背後から真が相槌を打つ。
「どうします?不浄者を避けて別の道に行くか、もう少しここで様子を見ます?」
「いや、この道を行こう。今なら数が少ないから私でもなんとかできると思うし、逆に別の道が安全だとは限らないから」
「了解です」
ハンドルを握る真の手に自然と力がこもった。
キャリーカート。
休んでいた家を物色している最中、倉庫の奥深くにそれは眠っていた。
ハンドルも骨組みも新品同様で、サイズは人一人を乗せるのにちょうどいい。
怪我をしたレイを前方のカゴに乗せ、乳母車のように真が押しながら、二人は移動していた。
段差やがたつきが多い場所を避けて、真は慎重に進路を取る。荷台のレイは足の痛みに耐えながら、走る真に指示を出していた。
走る足音と、骨組みの金属棒がぶつかる乾いた音。それらは、閑静な住宅街には不釣り合いなほど大きく響いていた。この音に気づかないほど、化け物たちも間抜けではない。
「グルゥアァ‼︎」
唾液の混じった奇声を上げ、不浄者が真とレイの進路に飛び出した。
「真くん、避けて!」
「はい!」
咄嗟の指示に、真は即座に応じる。進行方向をずらし、そのまま走り続けた。
しかし、その先にも別の個体が待ち構えていた。数は二体。こちらを認識し、襲い掛かろうと身構えている。
思わず真は速度を落としそうになる。だが、それを察したレイは車体を軽く叩いた。
「大丈夫。私を信じて突っ込んで」
一瞬の躊躇が、胸の奥で弾けた。
真はレイの言葉に応えるように、ハンドルを握り直し、速度を上げる。
カートから身を乗り出し、レイは目の前の敵に視線を集中させた。棒を握る手に力を込めると、その先から鎌の刃が現れた。
『斬技・一太刀斬り』
飛びかかってきた隙だらけの不浄者の首元をめがけてレイは鎌を振り上げた。白い閃光が走った次の瞬間、化け物たちの頭部が空中を舞う。
頭を失った胴体は無力にもその場に崩れ落ち、その間を真の押すカートが通り過ぎた。
騒ぎを聞きつけたのか、不浄者たちが次々と集まり始める。
それを真が巧みに避け、レイが対処しながら、二人は着実に前へ進んでいった。
やがて住宅街を抜け、開けた場所へと出る。
右手には、五階建ての大きな建物、その向かいには小さめのグラウンド。遠くには、さっきまでいたコンビニの跡が見えた。
もうすぐスタート地点に戻れる。
真は安堵の表情を浮かべたが、それとは対照的にレイの表情は険しいままだった。
「あいつがいない」
「あいつ?」
「コンビニで私たちを襲ったあのでかいやつ」
不気味な巨体の赤子型の不浄者。レイの言葉に真は、その存在を思い出す。
周囲を警戒するが姿は見えない。あれほどの巨体をどこに隠したのか。
「……どこか、行ったんじゃないですか?」
辺りを見渡しながら、真が言う。
「いいや、それはないよ」
レイは即答した。
「不浄者はね、獲物を見失ったら諦めて居なくなるほど、都合のいい相手じゃないから」
真は思わず息を呑む。
そこには推測や迷いは一切なかった。何度も同じ経験をしてきた者の断言だった。
ハンドルに汗が滲む。気を引き締めようとした、その瞬間だった。
「……ミィツケタ」
粘りつくような声。
思い出さなくても分かる、聞き覚えのある声だった。
真とレイが気づいたのと同時に、真上から瓦礫と共に巨大な手のひらが降り注ぐ。
直撃こそ免れたが、その衝撃は地面を大きく揺らした。
「……っ!」
衝撃で、体が持っていかれ、ハンドルから手が弾かれる。カートは大きくバランスを崩した。
幸い致命傷は免れたものの、全身に痺れるような衝撃が残る。真は急いで立ち上がり、レイの元へ駆け寄った。
「レイさん大丈夫ですか!」
「……大丈……夫」
そう答えはしたが、足を押さえて顔を歪めるレイの様子は、明らかに無事とは言えなかった。
「ネェ、アソボーヨ」
無邪気な声と共に、建物をジェンガのように破壊しながら、化け物が姿を現す。
レイの介抱をしようと伸ばしかけた真の手が止まった。気色の悪い容姿とその巨体。その存在感に真は言葉を失う。
真は歯を食いしばり、レイの体に腕を回した。痛みに顔を歪めるレイの体は思った以上に軽い。
「まだ……まだ逃げられる」
自分に言い聞かせるように呟き、真は振り返らずに走り出そうとする。
だが、それを許すほど相手は甘くなかった。
瓦礫を砕く音。化け物の声と共に建物の残骸が二人の進路を塞ぐように降り注ぐ。
(……!)
嫌な予感が走る。だが、もう遅かった。
投擲された瓦礫の衝撃で、近くの建物が倒壊を始める。砕けたコンクリートと鉄骨が、道を完全に塞いだ。
逃げ道は、轟音と砂煙の中へ消え去った。
前方には積み上がった瓦礫の山。背後には、あの赤子を中心に集まる不浄者たち。
挟み撃ち。
一目でわかる、絶望的な状況だった。
「……真くん」
レイの声は、驚くほど静かだった。
「ここは私が引きつけるから。その間に君は……」
「ダメです‼︎」
真は即座に遮った。
「それだけは、何があってもダメです‼︎」
荒々しい声に、レイの言葉が喉で止まる。
真は必死に周囲を見渡す。路地、建物の影、崩れたフェンス……。どこかに、まだ生きる道があるはずだと信じた。
だが、どれも届かない。
掴みかけた希望だけが、虚しく空回りした。
最も近くにいた不浄者が、低く唸り声を上げた。
まるで、真の絶望を嘲笑うかのようだった。
次の瞬間、影が跳ぶ。
「……ッ!」
反射的に真は腕で顔を庇う。
死。
この一文字が、頭の中を黒く塗りつぶした。
(もう……いいや)
思考は投げやりになっていく。
僅かに残っていた希望を手放そうとした。
その時だった。
前触れもなく突然に真の視界が、白く染まった。
轟音でもなく、閃光でもない。
ただ一筋の光が、静かに降り注いだ。
「……え?」
目を閉じる間もなかった。
淡い光は地面に触れると、実体を持つ壁のように広がる。
薄い膜のようでいて、確かな圧を帯びた光の障壁。
飛びかかってきた不浄者が触れた途端。
「ギァッ!」
鈍い衝撃音と共に、化け物が弾き飛ばされ、瓦礫の向こうへ転がっていった。
赤子型の不浄者も動きを止める。虚ろだった瞳に、初めて怯えの色が浮かんだ。
光は、確かに二人の前に立っていた。
守るように。拒むように。
真は呆然と、その光を見つめる。
「やっ……と見つけた!」
光の中から聞き覚えのある女性の声がした。
「……あ、あの時の!」
「そうだよ〜。ちゃんと覚えててくれてたんだ」
姿は見えない。だが、その声だけで彼女が笑っているのが分かった。
「いやぁ色々あって遅れちゃったし、適当にしすぎたせいで危うく君を見失うところだったよ〜……」
沈黙が落ちる。
疲労困憊の真とレイ。対して、化け物たちは低く唸り声を漏らし威嚇の姿勢を見せていた。
この場で最も場違いなのは、間違いなくこの声の主だった。
「……あー、うん。なんかごめん。ちょっと違うね」
少し気まずそうな声。
「まあ、そりゃそうだよね。この状況ではしゃいでる私が変よね」
一度咳払いをしてから、彼女は言った。
「えっと……色々と話す前に、まずはこの場をどうにかしよっか」
真はハッとして周囲を見る。
光の向こうで、不浄者たちがじりじりと距離を詰め始めていた。
「……どう、するんですか」
縋るような声だった。
「うーん……正直に言うね」
少しだけ、女性の声から軽さが消える。
「君を連れ出してからここに来るまでの間で、大半の力を使い切っちゃったんだよね……」
真の胸が、ひやりと冷える。
「じゃ、じゃあ……」
「でも」
不安を遮るように、女性は続けた。
「代わりに、私の残り全部を託すことができる」
光がわずかに揺らぐ。
「とはいえ、私も初めてで上手くいく保証もないけど……どうする?」
真はレイを見る。
痛みに耐えながら、それでも自分を見つめ返してくる彼女の瞳。
(助けたい)
恐怖も不安もある。それでも、レイを手放すことだけはできなかった。
「お願いします」
真は真っ直ぐと光を見る。その目には強い決意があった。
「僕を助けてくれたあの子を、レイさんを今度は僕が助けたいんです」
一拍の沈黙。
「へぇ、いい顔するじゃん。君を選んで良かったよ」
光の中で、何かが弾ける。
「それじゃ、任せたよ」
次の瞬間、青黒く煌めく一羽の蝶が現れ、真の右手の甲に舞い降りた。
羽ばたいた瞬間、眩い光が走る。
「……っ!」
腕を伝い、胸の奥へと何かが流れ込んでくる感覚。
初めて知る力の鼓動。
それは熱でも冷たさでもない、真がこれまでに一度も知ることのなかった、力の鼓動だった。
真の右腕を包み込む光が、突然、乾いた音を立てて軋んだ。
白い殻に無数のヒビが走った。
次の瞬間、それは耐えきれず音を立てて砕け散った。
煌めく光の破片の中から現れたのは、青黒く、妖しく輝くガントレットだった。
蝶の残光を宿したそれは、まるで意思を持つかのように真の腕へと絡みついていく。
金属とも皮革ともつかない、不思議な質感。
まるで輝く星空をそのまま閉じ込めたかのような美しさがそこにあった。
真は、ゆっくりと拳を握る。
確かな力がそこにあるのが感じられた。
人を助ける力。
あの時からずっと欲しいと願っていたものが、今確かに真の手の中にあった。
息を呑み、彼は静かに自分の腕に宿った希望を見つめた。




