第2話 十八時十六分
どこからか声がする。聞き覚えのある声だった。
それでも、神谷真は机に突っ伏し、意識を手放そうとしていた。
高校生活にも慣れ、緊張も薄れた十月の昼下がり。満腹の余韻と、窓から差し込む秋の暖かな陽光。
こんな完璧な状況で授業を聞けるほど、真は真面目じゃない。
「おーい……なさい。……とくん!」
足音と共に声が近づいてくる。自分が呼ばれている気がした。
「うるさいな……」
真がボソッと呟いた瞬間、足音が止まった。静寂にホッとした真は、ゆっくり呼吸を整えた。
「……イテッ!」
後頭部に走る痛みに真は思わず声を上げると、丸めた教科書を手にした先生が立っていた。
「いい夢は見れましたか?神谷真くん。今は授業中です。ちゃんと起きててください。」
「すみません……」
痛みを堪えながら真は答えた。
「放課後になったら職員室に来なさい。全くもう」
そんな彼に先生はため息を一つ漏らした。そして、足早に教卓の方へ戻って行った。
一時間半後。
「失礼しました……」
そう言って真は職員室の扉を閉めた。
手には「古典復習プリント」と書かれた三枚のプリント。顔には堂々たる不満。
「ちょっと寝ただけで課題プリント三枚は鬼だろ……。しかも提出は次の授業までって」
文句をこぼしながらプリントをリュックに押し込み、廊下へ歩き出す。
中間テストが終わったばかりの月曜日。部活が再開したせいか、廊下を走る部活中の生徒たちの声がいつもより明るい気がした。
真は帰宅部だ。建前は、「やらなければならない事があるから」。本音はもちろん、「面倒だから」だ。
「お、真じゃん」
昇降口で靴を履き替えていると、聞き馴染んだ声が聞こえた。振り向くと、背の高い好青年、橘拓人と、小柄な少女、霞原寧々がいた。
「拓人と寧々か!二人が一緒って珍しいな」
「さっき廊下でばったり会っただけだよ」
寧々がつま先で靴をトントンしながら答える。
「拓人、今日は部活?」
「あー、顧問が体調崩したらしくて休み!だから今日はフリー」
「え、あのマッスル玉井が?体調崩すことあるんだ。」
「んね。私も驚いたよ。確かにテスト期間中ずっと体調悪そうだったし」
「あのマッスル玉井も風邪ひくんだ」
「うちの顧問をなんだと思ってるんよ!」
「「え、筋肉バカ!」」
真と寧々の声が揃い、拓人は吹き出した。
「ハハ、間違ってはいないけどさ」
冗談を交わし合いながら、真と拓人と寧々の三人は肩を並べ、昇降口の扉をくぐった。
橘拓人。
真が高校生に入って初めてできた友達の一人。
背は高く、サッカー部で、誰にでも気さくに話しかけるフレンドリーな性格。真とは、たまたま好きな芸人が同じだったことをきっかけに一気に距離が縮まった。
そして、もう一人の友達が霞原寧々。
拓人とは対照的に小柄で、控えめだが芯の強い性格をしている。成績は学年でも上位に入るほど、一年生ながら生徒会役員を任されるほど要領がよく真面目だ。
さらに、大手製薬会社、霞原製薬の社長令嬢だと知ったときには、真も拓人も驚きで言葉を失うほどのものだった。
三人は学校を出て、ため池沿いにあるコンビニに立ち寄った。
最近ハマっているプリンを幸せそうに味わう拓人の横で、真と寧々はアイスを片手にのんびり歩いた。
中学校の前を通り過ぎると、いつもの小さな駅が見えてきた。建設当時のままの古い駅舎は、修繕のため養生シートで覆われている。
人通りは少なく、夕暮れの風がひんやりと三人の頬を撫でた。
「いやぁ、今回の中間テスト難しかったよなー」
「それな!二次関数とか意味わからん」
「もうXとY見すぎて頭おかしくなりそうだったわ」
男子二人が盛り上がる横で、寧々は呆れた表情をしていた。
「テスト前に散々教えたよね?二人とも”もう大丈夫!”って言ってなかった?」
「「……」」
二人は無言になった。
「もしテストの点数悪かったら二人に古町喫茶の新作パフェとシフォン奢って貰うからね?」
「「……はい……」」
命の危うさを感じる勢いに、二人は思わず頷いた。真は逃げるようにスマホを開く。浜辺で撮った朝日の写真。表示された時刻は十八時〇八分。電車が来るまで少し余裕がある。
その瞬間、世界が歪んだ。
「……‼︎」
激しい頭痛が真を襲った。
針を何本も突き刺された激痛と、締めつけられるような圧迫感。
「真……い……じょうぶ……!……」
二人の声が聞こえるが、強烈な痛みで、言葉が形にならない。
次第に、視界が砂嵐になり、耳鳴りが脳内で金属音のように響く。
その時。
「……逃げて‼︎……」
聞き覚えのない若い女性の声が、ノイズ混じりに響いた。
その瞬間、痛みも視界の乱れもスっと引いた。
心配そうにこちらを覗いている拓人と寧々と真は目が合った。
「真、大丈夫?」
寧々が涙目で声をかけた。
「た、多分大丈夫……だと思う。」
真は少しそっけなく答えると、二人の肩をそっと押して周囲を見渡した。あの声の正体は誰なのか。今の真の頭の中はそれだけで頭がいっぱいだった。
真は呼吸を整え、顔を上げた。
夕陽が街を橙色に染め、一瞬の静寂が戻った。
そして、見つけた。
住宅街の端。
フードを深く被った男性が、こちらを向いて立っていた。体格は自分より少し小柄な程度。
顔は見えない。フードの奥で、感情の見えない瞳がこちらを射抜くようだった。真の背筋に思わず悪寒が走る。
上着のポケットに手を突っ込み、静かにこちらに体を向けている男。見られているような感覚に思わず真の背筋に悪寒が走った。
「あいつ……か?」
呟いた瞬間、男の足が明確に速まった。
「真? どうしたの?」
寧々が心配そうに顔を覗き込む。
「え、あの人がどうか……」
「違う……あいつ、なんかやばい……!」
呟く拓斗を遮って、真がかすれた声で呟いた。
真は震える体で立ち上がる。まだ足に力が入らない。
「……⁈」
男のポケットから、何かが光った。
細長く、白銀に煌めく。
「嘘だろ、おい!」
思わず真は大声を出す。
気づいた男が、突然走り出した。
狙っているのは、寧々。
「!」
男は凶器を振りかざし、一直線に駆けていく。
「やめろ‼︎」
真は反射的に寧々を覆い隠すように飛び出し、抱き寄せた。
守らなきゃ、という衝動だけが、真を動かしていた。
もう目の前で大切な人を失いたくない。
あの頃の記憶が真の背中を押した。
ズブッ!……
生温かい液体が、腹から溢れ落ちた。
ゆっくり視線を落とす。
制服にじわじわと滲んでいる赤。
腹に刺さるナイフ。
そして、その柄を握る男。
痛みより、息苦しさが強い。
真は残った力で男にしがみつき、睨みつけた。フードの隙間から見えたのは、右頬に残る大きな火傷痕。
「ひッ……‼︎」
男は悲鳴をあげ、真を振り払い、逃げ去った。
「ま、真!な、なんで……血が……」
寧々が泣き叫ぶ。
拓人は震える指で救急車を呼んでいる。
(……もう、ダメか)
意識が薄れていく。
「真くん!ダメ‼︎しっかりして!」
「真‼︎もうすぐ救急車が来るから、大丈夫、大丈夫だから‼︎」
二人の必死な声が、遠くなっていく。
血で汚れるのを構わず二人は震える手で真を支え、必死に介抱していた。
しかしそんな思いも虚しく、真の意識はどんどん霞んでいく。涙を浮かべた友達の顔もぼやけ、必死に呼びかける声も次第に聞き取れなくなってきた。
(……俺、死ぬのかな)
そんな考えがふと真の脳裏に浮かぶ。けれど、不思議と怖さはなかった。
まだやりたいことはたくさんあった。
三人で旅行、カラオケ、祭り……。
こんなに良い友達が出来たのに。
(ごめんな……ありがとう……)
最後に絞り出すように呟き、真の意識は静かに落ちていった。
夕陽が地平線の向こうへ沈むのと同時に……。




