第12話 三日目の目覚め
目を開けると、そこには知らない天井があった。
白く、どこか無機質なその天井が、妙に現実的で、それがまず真を戸惑わせた。
暖かな日光が、カーテンの隙間から顔を照らす。眩しさに耐えきれず、反射的に目を閉じる。
(……ん?)
胸の奥に、かすかな違和感が走った。
考えるよりも先に、真は勢いよく上体を起こす。
「痛ッ……!」
瞬間、腹部に鋭い痛みが走り、思わず声が漏れた。
遅れて、身体がまだ思うように動かないことに気づく。視線を落とすと、薄手の病衣に身を包まれている自分がいた。
その下、腹の辺りには、きつく巻かれた包帯。
(……あ)
心当たりが、はっきりとあった。
通り魔の男に刺された、あの時の、あの場所だ。
ゆっくりと息を吸い、周囲を見渡す。
白とベージュを基調にした、落ち着いた色合いの部屋。
点滴台、カーテン、壁際の棚。
どう見ても、どこかの病院の一室だった。
赤い月に照らされた殺伐とした世界でもない。
花と緑に包まれた、あの不思議な庭園でもない。
ここは、現実だ。
「……生きてる」
確かめるように、真は小さく呟く。
その言葉が、喉を震わせて外に出たことに、少しだけ安心した。
廊下の向こうから、足音が聞こえた。規則正しく、こちらへ近づいてくる音。
(……誰だ?)
反射的に、真は音のする方へ顔を向ける。だが、その瞬間、足音はぴたりと止んだ。
代わりに、ドアのすりガラスに、人影が映る。
心臓が、どくりと跳ねた。
身体の奥で、まだ抜けきっていない緊張が、ざわりと動く。
真は無意識に、拳を握っていた。
上体を少し起こし、逃げ場を探すように視線を巡らせる。
(……落ち着け、俺)
そんな思考を遮るように、ドアが静かに開いた。
「真さ〜ん、おはようございま〜……」
明るい声と共に現れたのは、白衣姿の女性看護師だった。
だが、彼女は真と目が合った瞬間、言葉の途中で固まる。
「……す」
残りの一文字を小さく漏らす。
「……おはよう、ございます」
真は一瞬迷ってから、ぎこちなく笑ってそう返した。
数秒の沈黙。
次の瞬間、看護師ははっと我に返ったように目を見開いた。
「え、あっ……! め、目、覚めてますよね⁉」
「え、はい!」
テンパる彼女に釣られて真も元気よく返事する。
「す、すぐ先生呼んできますね!」
一方的にそう言い残し、彼女は慌ただしく部屋を飛び出していった。
部屋に残される真。しばらくそのドアを見つめたまま、力を抜いた。
しばらくして、白衣を着た医師が病室に入ってきた。
落ち着いた足取りと、穏やかな表情。年齢は五十代半ばくらいだろうか。
「目が覚めたと聞いてね。体調はどうかな?」
「……正直、まだよく分からないです」
正直な感想だった。
痛みはある。けれど、それ以上に、頭が現実に追いついていない。
医師は小さく頷き、首に掛かっていた聴診器で真の診察し始めた。
「君は三日ほど、昏睡状態だったんだよね」
「……三日」
「搬送された時は心肺停止の状態でね。もう手遅れかと思っていたよ」
淡々と告げられる言葉に、真は息を呑んだ。
「とはいえ、色々と処置が間に合ったおかげか、今こうして話せているからよかったよ」
「……色々とありがとうございます」
「いやいや、私は当たり前のことをしたまでさ」
医師はそう言って、真をまっすぐ見た。
「傷の状態や心拍は安定してきているけど、まだ無理はできない。経過観察のためにしばらく入院しようか」
「……はい」
返事はできたが、胸の奥がざわつく。
死んだはずだったという感覚が、言葉として現実に突きつけられた気がした。
思い出そうとすると、胸の奥がわずかに冷えた。
「いや、本当にね」
医師はふっと息を吐き、苦笑混じりに続ける。
「君は、ほんと、奇跡の青年だよ」
その言葉に、真は思わず視線を逸らした。
「……そんな、大げさな」
口元だけで、苦笑いを作る。
何かを察してくれたのか、医師はそれ以上深く追及しなかった。
「今日は無理せず、しっかり休みなさい」
そう言って、彼は席を立ち上がった。
医師が病室を出ていくと、室内は急に静かになった。
聞こえるのは、点滴が落ちる微かな音と、遠くのナースステーションの気配だけ。
真は天井を見上げたまま、ゆっくりと息を吐く。
生きている。それは分かった。
けれど、実感が追いつかない。
身体はここにあるのに、意識のどこかが、まだ置いてきぼりにされているような感覚だった。
疲労感と倦怠感が体にのしかかる。休んでいるはずなのに、身体は消耗していく一方だった。
腹部に鈍い痛みが残っている。
点滴の針が刺さった腕が、じんわりと重い。
それら一つ一つが、現実を静かに主張していた。
どれくらい、そうしていただろうか。
カーテンの向こうの光が、いつの間にか橙色に変わっている。
看護師が来て、簡単な検査を受け、消化に良い食事が運ばれた。
味は分かった。けれど、じっくり味わう気分は起きなかった。まるで作業のように繰り返しスプーンを口に運んでいた。
気づけば、窓の外は暗くなっていた。
病室の照明が落とされ、間接灯だけが残る。
ぼんやりと天井を見つめながら、真はふと思った。
女性に連れ去られ、大鎌を持った少女と出会い、赤子の化け物と戦ったあの出来事。
赤い月、崩れた街、あり得ない力。
(……あれ、全部夢だったのか?)
心肺停止して、三日も昏睡していたのなら、あんな夢を見ても不思議じゃない。
そう考えれば、辻褄は合う。
……合う、はずだ。
けれど、あの感触。
腕に残る、何かを握っていたような違和感。
妙に鮮明な記憶だけが、どうにも引っかかる。
「……まあ、いいか」
小さく呟く。
答えが出ないことを考え続けるほど、今の真には余力がなかった。
考えるのをやめて、真は深く息を吐いた。
今は生きている。それだけで十分だ。
夢か現実かなんて、正直どうでもいい。
考えるほど、頭が重くなる。
面倒くさくなって、思考を放り投げるように、真は深く息を吐いた。
まぶたが、重い。
抗おうとしたが、意識が自然と沈んでいく。次第に身体に重りがつけられたかのように重くなった。
(……今日は、なんか疲れたな)
思考を床へ無造作に放棄する。襲い掛かる不可抗力に従って真はゆっくりと目を閉じた。
その先のことは、もう考えなかった。




