2 温室の薬師
「カイ!」
巨大温室の入口でジョウロを手に屈んでいた黒髪の青年が顔を上げた。肩までの髪が揺れ、大きな獣耳がぴくりと動く。カイ・ノワールだ。
「やぁ、ゼフィル。君が走るなんて珍しい。どうしたんだい?」
彼は悠々とジョウロを地面に置き、白衣についた土を払った。そのあまりの落ち着きぶりに、ゼフィルは苛立ちを覚える。
息を整えつつ近づき、見下ろす。
「……また踏んだ。頼む」
「キノコか?」
「多分な」
「この前渡した解毒剤は?」
「……家だ」
カイの眉間に深い皺が寄る。
「どうして持ち歩かないのさ!」
「仕方ないだろう。早く処置しろ、幻聴がやかましい」
すれ違いざまにカイの耳を掴むと、パシンと叩かれて手を払われる。ゼフィルは我が物顔で温室を進んだ。
温室の奥にはカイ専用の研究室がある。扉に手をかけると鍵が掛かっていた。
「開かないぞ」
「当たり前でしょ。待てってば」
解錠された部屋に入ると、壁一面に薬品棚、吊るされた植物、整然と並ぶ実験器具と書物。雑多なのに不思議と落ち着く空間だった。ゼフィルは椅子に腰を下ろし、カイが薬を調合するのを待つ。
「いつから? 症状は? どのキノコを踏んだ?」
「半刻ほど前。幻聴と酩酊感。……種類は不明」
「なら万能薬しかないな」
カイは器用に薬を調合しながら、ゼフィルの目の下を引っ張ったり、口の中を覗き込んだりする。
「……本当にキノコのせい?」
「さぁな」
ゼフィルは肩を竦め、差し出された薬を無言で受け取る。
カイ・ノワールは若くして薬草学の第一人者と呼ばれる植物学者。
一方ゼフィル・ドラグネスは龍神の血を引く遺跡研究者であり、多数の著書を出してはいるが人嫌いで、交友はカイ以外ほとんどない。
この世界では、龍神の末裔が王であったのは遠い昔のこと。いまや龍神の血も、獣人の種も曖昧に混ざり合い、彼らもただの学者でしかなかった。
その時、カイの耳がぴくりと動く。
「……ふふ。またオルジーンが泣いてる」
「誰だ?」
「僕の後輩。毎回“運命の番だ”とか言っては、猛アタックして振られてる。五回は見たかな」
「番をまだ信じてるやつがいるのか」
「けっこういるよ。魂を繋ぐ“番”――ロマンチックだからね」
「くだらん」
ゼフィルが鼻を鳴らすと、カイは笑いながら小瓶を差し出した。
「まだ症状が続くようなら、これは夜に飲んで。……それと、次から薬とマスクは持って行って」
白衣のポケットに手を突っ込んだまま立ち上がり、もう片方の手でゼフィルの肩を二度叩く。
「ああ、助かった」
ゼフィルが薬をズボンのポケットに雑に突っ込み、立ち上がった瞬間――瓶がチャプンと小さな音を立てた。