16 境界の歪み
『おいで、こっちへおいで』
もはや慣れたはずの幻聴が、この日はいやに大きく響いた。
一歩進むごとに足がふらつき、ゼフィルは街角で額を押さえる。
「今まで寝込んだことなんてなかったおっかぁがよ、ふらつくとか言って寝込んじまってさ」
「隣の旦那さんも幻聴が聞こえるって寝込んでるらしいよ」
「なんか体がくらくらするんだ。流行り病かね?」
「嫁いだ姉さんと連絡が取れないって、旦那さんが慌てて来てたよ」
街のざわめき。
ゼフィルは愕然とする。
「……みんな、呼ばれているのか」
大通りを見れば、人影は確かにまばらだった。
◇◇◇
「きゃぁあああああ!!」
悲鳴に駆けつける。
母親が子どもを庇い、その子どもはぐったりしていた。
背後には、輪郭が滲む巨大な“何か”。
潮の匂いが鼻を刺す。
「おい! やめろ!!」
ふらつきながら叫んでも、“何か”は母親の首を掴み上げる。
その瞬間――
「おどりゃぁあああああ!!」
風のように斧が振り抜かれた。
“何か”はゆらりと消え、ドライアドが倒れそうになる母親を片腕で支える。
「大丈夫か」
「あ……ありがとうございます」
「……母さん?」
子どもが目を押さえながらゆっくりと立ち上がる。
「マルコ!」
母親が抱きしめると、子どもは笑みを浮かべた。
「あれ? 体調が治ったよ、僕」
ドライアドは母親に問いかける。
「何か見えたか」
母親は首を左右に振った。
「ぼやっとした影のようなものしか……」
「そうか。子どもは休ませろ。じゃあな」
母子は深く頭を下げ、去っていった。
◇◇◇
ドライアドはゼフィルを真っ直ぐに見つめ、ゆっくりと近づいてくる。
「龍の子……見ているだけか」
「……俺は、しがない学者だ」
鼻で笑い、街を見渡す。
「歪み始めているな」
「異界との境界が、か」
「そうだ。早く神気を使いこなせ。龍の子よ」
そう言い残し、ドライアドは去っていく。
一人残されたゼフィルは、呆然と、母子が去った後の土の上を見つめていた。




