春雷
ある黄昏時のことである。溶けた鉛のような積乱雲の破れ目に侵食して滲んだ紅がひときわ官能的であった。始点もなければ終点もない舗装道路は、青天井の圧力の煩わしい白昼の間にため込んだ熱を持て余し、ひたすら真っ直ぐに彼の足元に向かって地を這って、木陰に獲物を認めた大蛇の息遣いをしている。飛び飛びに四角く穴の空いた側溝と境界ブロックに沿って一間ほどの間隔で欅の樹が並び、その隙間からちらほら個人経営の商店が顔を覗かせていた。もとよりそこは閑散とした目抜き通りで、客通りと儲けこそ芳しくはないが、その一軒一軒で店主と二、三人常連客が世間話に花を咲かせており、郷愁漂う静かな活気があった。しかし、このときの彼の眼にとってそれらは全て、退屈なモノクロームの切り抜きでしかなかった。透明な掌に背中全体を掴まれて押されるがままに、彼は家路を急いでいた。目抜き通りを外れて河川敷に沿った整備前の砂利道に差し掛かり、赤茶けた泥がむき出しになった地面を乱暴に蹴散らし、暗がりの土窪みの罠に度々足を縺れさせながらも、前傾のままぐんぐん進んでいった。色黒で骨張った手にぶら下げた大きめのビニール袋が二つ、彼の大股の勢いのまま軽快に音を立てて、そのたびに彼を不安にさせた。どこからともなく漂う生温い微風が、彼の紅潮した頬とねばつく汗の玉を撫でている。それは、小さな悲劇の胎動をそれとなく彼に伝える親切な便りであったのかもしれないが、少なくとも彼は、綱渡りの道化が演じる宙づり状態を、人間なら誰しもある絶対的な無知に救われながら、どうにか大きく踏み外さないように一歩一歩やり過ごす他なかった。
自宅に駆け込む前に彼にはやらねばならぬことがあった。その日、八歳となる息子の誕生日を祝うささやかな儀式の準備である。彼の妻が不慮の落石事故により他界してから実に四年の月日が流れたが、依然、彼女の残像が毒蜘蛛の如く彼の身体を巣くっていて、息子にその悲劇の仔細を上手く伝える言葉をいまだ探していた。特に彼女を喪ってから二年間くらいは、彼自身、言い逃れに近い子供だましの物語に頼るのが精一杯だった。透明人間になって常日頃一緒にいるだとか、一等星になって夜空から見守ってくれているだとか、確かそんなところであった。息子は恐らく人間の死、ひいては死全般について素肌にぴったりになるまで理解せずとも、寝ても覚めても、自分の頭の中や足の裏に至るまで全て、森羅万象と一体化した母親に見透かされているという、豊かな想像を豊かに育てることはできていたらしい。家で玩具をいじる時も、病院の待合室で腰掛けている時も、息子は年不相応なまでに澄ました顔で、時折背筋を直した。父親は、妻の不在を突きつける自宅で過ごす時間から逃れ、毎日の事務仕事に没頭することを自分自身に許していた。勿論、彼は息子の泰然自若とした態度に甘んじている己の弱さを自覚しながら、大切な人を喪った悲劇に己を住まわせ、子供じみたヒロイックな空想に耽っていたのだった。
数週間前のことである。下校後に待ち受けるひたすら続く暇つぶしの時間がなんだか疎ましく、息子はいつものように彼の同級生数人と校庭の鉄棒に跨って、ぐるぐるいたずらに回っていた。同級生の一人が、紋白蝶を追いかけてゆき、近辺の草叢を掻き分け掻き分け、緑の精霊飛蝗をむんずと捕まえて、その丸っこい小さな手で飛蝗の頭を胴から引きちぎって遊んでいた。友達は胴から零れ落ちた黒い塊を見て、口を丸くして尻もちをついたが、次の瞬間には思い出したかのようにけらけら笑って、紋白蝶が振り撒く黄色い鱗粉を宙で掴もうと小刻みに跳ねていた。彼は鉄棒に逆さにぶら下がりながら、何の気なしにその様子を見ていたが、ぶるんとしたあの黒い塊が、濡れてざらざらした綿布になって咽喉にはりついてくる息苦しさを感じていた。頭に血が上って強く脈打つ音がとても近く聞こえた。頭頂を上に向けた途端、彼の目の奥で白い閃光が妖しく弾けた。それは、母親の見舞いで彼が幾度も見かけた、薄いレースの帳が揺らめくたびにカルキ臭に満ちた真白の病床に差し込む細い光の明滅に似ていた。彼は、その刹那、彼がもっている言葉を悉く放棄して、不可思議な生の深淵を臨む透明な海に全身をゆだねるような快さの中にいた。すぐに焦点は校庭の砂山に戻され、彼は友達に揶揄われないようにほんのり赤い両眼を急いでこすった。日暮れ時、彼は帰りがけに飛蝗の骸をもう一度確認しようと思ったが、友達がそれを捨てた場所をもう忘れていたし、草叢の奥の方はすっかり闇に溶けて見えなくなっていた。
来週に控えた息子の誕生日は社内会議の日程と重複した。それが分かった翌日、彼はささやかな贖罪のつもりで、ずっと所望されていた遊園地へ息子を連れて行ったが、アトラクションに乗りこむまでもなく彼は仰天した。入場口前で、息子が前触れなくわっと大粒の涙を流し始めたからである。途切れ途切れの息子の言葉の大まかな意味は、これまで自分を包んでいた母親がすっかり遠くへ消えてしまった、といったものだった。数秒間へどもどして、彼はそのいじらしさにたまらず、息子の両眼にまっすぐ向き直って、その薄く骨ばった肩を抱きよせながら、周囲の視線も気にせず声高らかに宣言した。あぁ、我が最愛のか弱い天使よ、許しておくれ。母さんはもういない、ここにはっきりと認めよう。あぁ、死んだのさ。確実に、死んだのさ!約束しよう、母さんの呪いでお前まで不幸せにはしないよ。私はこれから、今まさに両手でがっしりと掴んだら離れないお前だけを精一杯愛そう!あぁ、これまでなんと愚かな父親であったか、許しておくれ、許しておくれ…。何かの拍子に壊れそうな白い掌が、大きな父親の背中を優しく撫でた。
今年の誕生日を息子の胸に永遠に刻まれる思い出にしようと息巻いて、慣れた手つきで退勤手続を済ませ、彼は一階の受付ホールに至るまでにすれ違った何人かの上司の会釈を無視しながら、軽快なステップ混じりの早足が自動扉の前で縺れるまでに、すでに彼の額は汗みずくで紅潮していた。彼の頭の中では既に数時間後ありうべきはずの部屋の装飾がありありと浮かんでいた。鈍色のモルタルが所々剥げた外壁の賃貸住宅のこぢんまりとした一室で、ひそかに催される二人だけの小さな饗宴。 原色に満ちたカラーテープやバルーンアートに囲まれながら、暗転した部屋で揺らめく小さな炎をその澄んだ黒瞳の中でも劣らず煌めかせて、ケーキの白ホイップを口の周りに下品につけながら笑い合う二人。彼は会社から最寄りのホームセンターに駆け足で入店し、色紙やら蝋燭やら諸々の装飾品を、値札も見ずに次々と買い物かごに放り投げていった。四十近い中年男性が嬉々としてパーティーグッズを集めていくのは些か滑稽に映っただろうが、彼はいつもの澄ました顔を崩して笑う息子のいじらしい前歯を想像しては、身体中が疼いてくるのを抑えるのに必死だったのである。会計を済ませ、自動扉が開き切る前にくぐり抜け、ビニール袋を無造作に揺らしながら、彼はケーキを注文しておいた菓子店の方向になおって、大げさに振り上げた革靴のつま先で土煙を舞わせた。舞った土煙が風に乗って目を傷めても、彼は舌打ちしながらだらしなく前歯をむき出しにしていた。ケーキを無事受け取った頃には、すっかり地面は薄黒い膜に包まれ、細かい小石や泥の窪みはそれを蹴散らす鈍い音で判断するほかなかった。菓子店を経由して自宅に通ずる河川敷に沿って道路脇に数本、根元から赤錆に寄生された黒鉄の支柱がひっそりと佇んでいた。その先端で青白い街灯が不規則で微小な点滅を繰り返している。輪郭のない霧のようでありながら鮮烈な白光に浮き沈みしては、夥しい羽蟻や蛾が飛び回っていた。それは、名もつかぬまさしく五分の魂がまとまって一つの生を満喫しているようで、彼は生の頼りなさを垣間見た気がした。退勤直後よりも少し落ち着きを取り戻したこともあって、街灯の感傷的な明かりが抵抗なく彼の心に染み込んでいった。興奮を右手に握りしめたビニール袋のカラフルな中身に視線を移しても、袋越しに白くぼやけて見えた装飾品がまた街灯を喚起させ、どうにもならなかった。それに呼応するように、獣の低いうなり声のような遠雷が、彼の身体を河川敷の空気とまるごと震わせ、上に目線を向ければ、どぶ鼠色の塊が黒藍色の天幕をすっかり覆っていた。これが春雷であろうか、という気の抜けた考えが微風と一緒に彼の冷えた脳をかすめ去っていった。雫が数滴落ちるのを手の甲に感じた。堰を切ったようにざあざあと、大粒の鉄砲玉が地面に容赦なく打ちつけ、にわかに水煙が立ち込めてきた。静謐な夜の帰路に、身体の触れてほしくない部分をしつこく掻きむしるような乾いた雨音だけが響いていた。彼は、赤子を抱えるようにビニール袋全体を胸板で覆い、咄嗟に薄霧が底に揺れているバス停留所の赤茶けたトタンの屋根に向かって前屈みでちょこちょこ跳ねながら小走りで向かった。最終便をとうの昔に見送ったふうの時刻表の他には、二人座ればはみ出してしまうこぢんまりとしたベンチが一つあるのみで、もともと薄く粗雑に塗られた白ペンキが剥がれており、腰を捻る度にきいきい甲高い声をあげていた。ベンチの四肢を取り囲みながら繁殖する淀んだ草叢の中を細かに跳ね回っている黒い粒が目に留まった。それは鈍色の蝗であった。灰色の厚い天井に薄く伸びて溶けた月明かりが頼りないせいか、後ろにだらしなく垂れたしなやかな右脚だけを湿った土にうずめながら、濁ったすり硝子が張ったその黒い両眼をただしきりに、バス停の側近にぽつりと立った街灯の煌々と熱を帯びた白い灯に固定させていた。その間、蝗は毛の生えた前脚をしきりにこすり合わせていたから、今にも柔らかい土に沈んで雑草に取って食われそうな蝗の小さな動きが、生まれてこの方、毎日のように土を当たり前のように踏みつけながら生きてきたことへの必死の懺悔のように見えてきた。ふと飛び方を思い出したかのように、蝗は駿馬のように粉を撒いて一足飛びに反対側の草叢に潜り込んだ。蝗の影は名も無い雑草の闇に溶けていった。一回り長く伸びた平たい雑草がわずかばかり揺れたが、それが蝗のせいなのか重く湿った風のせいなのか、もはや彼には分らなかった。河原が宿す小さな魂が一斉に奏でる快い呻き声が支配する春の夜の静寂の中に、彼の溜息だけが沈んでいった。
◎
地面の最も深いところから漂う雨後の芳香が彼の腰を少し軽くした。あれから半時間程ベンチに座っていたことに気づいて彼は少し驚いた。予想外の足止めを食らったが、バス停から家まで徒歩でそう長くはかかるまい。家では父の帰りを待つ息子がじれったくしているに違いない。さすがに8歳ともなると、誕生日というものが自分にとって特別な日であるということが分かっているはずだ。一年に一度、その二十四時間だけ、同級生はおろか父親を含めた大人たちの前で羽目を外すことが無条件に許され、晴れがましいほど笑みを浮かべた隣人が貢物を抱えてやってくるのを胸を躍らせて待つのが全く傲慢とされない、魔法のような日。母親を欠いて以降、息子は普段感情をあまり表に出さないことに慣れてしまったから、その治外法権を得ることを少しばかり気恥ずかしく思うかもしれない。無意識に上がる口角と緊張に似た手先の心地よい痺れを抑えようとして伏し目がちに頬を赤らめる息子のいじらしい様子を想像しては、同じく彼も言いえぬ高揚が臍のあたりからこみ上げてくるのを感じた。行き交う人々と目が合えば、何もかもすっかり見透かされてしまいそうで、不自然なほど足早になっていた。時々湿った土窪みや小石にけつまづいて、袋をそのような滑稽な場面に限って人目がないことがなぜか残念でもあった。足が縺れたことにかこつけて対向にある会社員風の男に抱きついて些事まで全く喜劇にしてやろうとも思ったが、彼はそれを実行するに足る、若者特有の向こう見ずな反骨精神を欠いていた。
人一人通るのにやっとな鉄製階段を一段飛ばしで駆け上がる甲高い革靴の反響を扉越しに聞いた時から、底冷えした三和土の上で、息子は裸足のまま体育座りをして待機していた。扉の隙間から覗いた父親の右目を下から見上げる形で親子は対面することになった。息子は父親の両手にぶら下がった手土産をすぐに認めて、それまでひっそり期待していたことが悉く約束された興奮と尻の痺れで、生まれたての小鹿よろしく奇妙な立ち上がり方をして更に赤面した。父親は父親で、自分の部屋に籠って怪獣やらお気に入りの宇宙戦隊を模した人形で遊んでいるものとばかり思っていたから、想定外の出迎えに頬が緩み、誕生日を祝う威厳ある父親らしい平静を装おうとへどもどした。手土産に関する説明的な言葉は不要であった。「お帰りなさい」と「ただいま」という形式的な言葉だけが宙に浮かんだまま、二人は揃って、張りつめた熱気を打ち破るようにリビングへ駆け足で向かった。無意識にどこかぶつけて破れないよう握りしめていた片方のビニール袋を底から引き裂いた。埃を被ったカーペットと丸角の黒机の上に紙巻の蝋燭やら紙風船やらが散らばっていた。それら一つ一つが、白色電球の熱と光を受けて燦爛としていた。丸皿に乗ったケーキは、数百カラットの紅玉を惜しみなく埋め込んだ王冠のようであった。螺旋状の紅白の縞をつくる薄紙を巻いた蝋燭をきちんと八本、ケーキのスポンジへ等間隔に刺し、四方の厚手の帳を閉め切り、ようやく秘密の儀式の準備が整った。ところが、どうしても蝋燭に火が灯ることはなかった。先刻の驟雨のために、包装紙の僅かな隙間から水滴が流れ込み、彼の必死の抵抗虚しくそれが丁度蝋燭の導火線をすっかり湿らしたようである。何度も何度も着火を試みたがどうしてもつかなかった。苦笑いを取り繕って二人が顔を見合わせる中、ただ使い捨てライターの乾いた点火音だけが、無機質に明るい部屋の中で響いていた。その狂言を嘲笑う悪魔の如く遠雷が部屋全体を震わせ、二人は皮膚を伝う不吉な波をじっと受け止めていた。部屋に沈殿した苛烈な沈黙をぶち破るように、突如視界全体が白に染まり、二人が次に目を開いた時には、平たい暗晦にすっぽりと包み込まれていた。数秒遅れて、都市の野犬ほど猜疑に溢れた低く唸る音が二人の内臓を直に握りしめていった。窓から見遣れば、ほんのりと蛍光が滲んでいた窓硝子が悉く偏光板となって宙に浮かんでいた。その停電状態の間だけは、町一つまるごと飲み込んだ黒洞々たる海水を媒介として、そこら一帯の生きとし生ける者が二人の秘密の儀式の顛末を見届けているような、空恐ろしい圧力があった。父親は、その皮厚くごわごわした色黒の親指で息子の手首あたりを、彼の手の痙攣が止まるまで撫で続けていた。少し落ち着きを取り戻し、父親が懐中電灯を探して戸棚の下の引き出しをまさぐっていた最中、今度は銃声に似た轟音と閃光が寸分違わず密着した白滝が、部屋の採光窓からほんの数メートル先の地面に勢いそのまま突き刺さって弾けた。激しく委縮しながら、二人は音が聞こえた方へ向き直った。黒色と山吹色の油性絵の具を乱暴に混ぜたようなすり硝子の上で、黄白色の点がちらちら明滅を繰り返し、窓枠の右隅の方では薄く伸びた光の帳が、部屋の内壁まで手を伸ばして不規則に翻っては妖しく拡縮を繰り返していた。そぼ降る雨音と炭酸が弾ける音が混ざった砂嵐。すり硝子を挟んで反対側では、恐らく、向かいにある家の前庭の植木やら廃棄物やらが、雨粒を飲み込む勢いでぼうぼう燃えているのだ。いまだ明るさが戻らない小部屋の中で、息子は天を衝いては沈んでいく炎柱の模糊とした像を窓越しに息を殺して見つめていた。彼のつぶらな黒い両瞳の中で、火の穂は蠱惑的な様相のまま閉じ込められていた。言葉にならない漏れ出る呻き声をそのままに、彼は焦点を欠いた虚ろな硝子の眼を剥いたまま背を真っ直ぐにしていた。とても吹き消すことのできないおどろおどろしい火車を前に切羽詰まった白痴の顔であった。次第に雨足が強くなり、春先の篠突く雨が炎を溶かしていくのを、息子は身じろぎ一つせず最後まで見届け、見開いていた両眼を閉じると、おそろしく透明な雫が、熱を手放しつつある彼の頬を伝っていった。




