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兄さんが、私を見て優しく微笑む。その笑顔に私はうれしくなって兄さんの胸にもたれる。
あぁ、幸せだな。
ここにいる事を許してくれる人がいる。手をとり握ってくれる人がいる。それは奇跡のように幸せな事。
私も、兄さんが生きて笑ってくれるだけで幸せだと思う。兄さんの表情がくもれば、私が何をしても、はらってあげる。
お互いを、自分の事のように思える相手がいる。ただそれだけで幸せだ。
兄さんに後ろから抱っこしてもらい、ご満悦な幼い私は、兄さんの胸ににゃんこのマーキングのように頬を擦り寄せていた。にゃんこだったら、ゴロゴロのどを鳴らしていただろう。
「…幸せだね。」
兄さんがポツリとつぶやく。私は下から兄を見上げる。
「食事がちゃんととれて、暖かい布団があって、殴られる事も熱湯をかけられる事もなくて、理不尽に怒鳴られる事もなくて。」
静かに、ささやくように話す兄さんの話し方は、声を出して言葉を発する事を父が禁じたから。
もういないとわかっていても、兄さんの声は小さく微か。私はその言葉を聴き逃したくなくて、手のにぎれる距離にいる。
「……普通。普通は、遠かった。」
兄さんの鼓動を感じる。どっくん。どっくん。どっくん。…この鼓動が止まらなかった。私にはそれが奇跡みたいで、その奇跡を、私が起こせた事を誇っている。…それが、人殺しだったとしても。殺した事を誇っているのではなくて、守れた、兄さんを。守りきれた事が、私の中で一番重要な事だった。
「…ねぇ、兄さんは普通が欲しいの?」
私は、問いかける。普通は、暖かく、柔らかい。でも、私たちは、たぶん普通ではいられない。わかっているでしょう?
たぶん、私たちは、この世界から見限られているのだろう。二人だけ。入れる事のない隔絶した世界の中で。
この先、人を求めても、愛せても、埋まる事のない壁。一生言えない秘密と、手からあふれる血の中で私たちは生きていく。
「私は普通なんていらない。兄さんを守れない普通なんていらない。」
普通は、しない。守るために殺すなんて。殺されるのが、普通。抗わず終わる。この鼓動が止まる。
…そんな事、許せるはずがない。今でも、怒りに頭が煮える。あの瞬間に動かなければ、私は一生後悔しただろう。兄さんの心臓の上の服をつかむ。力いっぱい。それを見て兄さんが、ふっと笑う。
「…そうだね。普通なんていらない。守れない普通なんていらないね。…だから。」
兄さんが私の耳にささやく。甘く優しく微かな声で。
「だから、自分も守ろう。誰にも傷つけられないように。僕は、この手が冷たくなるところを見たくない。」
胸をつかむ手を、包み込む。両手で私の手首の脈に触れる。血の流れを確かめるように。そして、私の肩におでこをつけて、吐息でささやく。
「僕を、残して、いかないで。」
その言葉は、私を縛る鎖。
そして、私を傷つけるものに対する、剣。




