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【BL】身代わり閨係は王太子殿下に寵愛される

 今夜、ラルスは王太子殿下の(ねや)の相手をする。平民のラルスにとっては、ありえないことだ。

 王宮には数々の秘密がある。王族の閨事もそのうちのひとつで、ごく限られた者のみがその事実と慣例を知っている。

 来月で二十歳の誕生日を迎えるアルバート王太子殿下は、ついに妃を迎えることになったらしい。らしいというのも、妃側の事情により婚礼の詳しい話は伏せられていて、秘密裏に事が進んでいるということだ。

 最上位アルファの王太子殿下ともあろう御方が、まさか初夜で妃を上手に抱けないのは由々しきこと。そのために未経験で(けが)れのないオメガが閨の相手に選ばれ、密かに王太子殿下の練習台になるのだ。

 その閨の練習台に選ばれたのが、軍務伯の役職を担っているウィンネル伯爵の三男である、フィン伯爵令息だった。だがフィンはその役目を嫌がり、ウィンネル家に仕えている厩係(うまやがかり)のラルスに身代わりになれと命じてきた。

 ラルスは反論せず、フィンの命令を静かに受け入れた。

 なぜならフィンは伯爵令息という立場でありながら、幼い頃から平民のラルスのことを友のように扱ってくれたからだ。フィンは人格者で身分に関係なく皆に優しい。十年前、半年間だけウィンネル家に戦乱のため身を寄せてきた貴族の男の子にも親切に接していた。

 同い年のオメガ同士、人には話せない悩みを打ち明けあったり、ラルスが困っているといつも手を差し伸べてくれたり、フィンはラルスの一番の親友と言っても過言ではない人だ。

 そんなフィンには想いを寄せるアルファがいた。まだ恋人同士にはなっていないが、フィンは、自分の初めてはそのアルファに捧げたいと思っていることをラルスは知っていた。

 だから、自分が身代わりになることを引き受けた。フィンには辛い思いをさせたくなかったからだ。

 今、ラルスはフィンの服を借りて、王家が迎えに寄越した馬車に乗り、城へと向かっている。

 フィンもラルスも同じプラチナ色の銀髪でダークグレーの瞳をしていて、背格好も同じくらい。煌びやかな正装をしてしまえば、顔のつくりは違えどあまり接点のない城の閨担当の者には、ふたりが入れ替わったことはわからないはずだ。

 やがて馬車は城の裏口に到着し、ラルスは馬車を降りた。

「伯爵令息さま、どうぞこちらへ」

 馬車を降りると目の前に使いの侍女がラルスを待ち構えていた。侍女は「私は王太子殿下についておりますミンシアと申します」と丁寧に頭を下げてきた。

 ラルスはミンシアの案内で、門を抜けたあと長く続く、レンガ造りの細い通路を歩いていく。どうやらこれは城の隠し通路のようだ。閨の練習のためのオメガの存在は公には知られたくないことだから、このようにひっそりと城の内部を移動するのだろう。

「まずは閨の支度をしていただきます」

 ラルスは湯浴み場に連れていかれた。そこで湯浴みのための薄布のローブを着せられて、そこにいた数人の侍女たちに身体を清められる。

 人に身体を洗われたことなどないラルスはすっかり緊張してしまったが、堂々としていないと貴族ではないと正体を見抜かれてしまうと思い、それらを受け入れた。

 ラルスは湯浴みを終え、いつも大事にしている馬の蹄鉄の形を模したトップが付いている銀のペンダントをまず最初に身につける。これは平民のラルスが人から贈られた、唯一の贅沢品だ。

 それから用意されていた純白のシルクのローブに身を包んだ。下着にあたるものは用意されておらず、足首までの長さのローブのすその隙間から風が入ると下半身が少しスースーする。

「次は寝所にまいります」

 ミンシアは淡々と任務をこなしていく。ラルスは無表情なミンシアのあとをひたすらについて行くだけだ。

 ほどなくして、荘厳な扉の前にたどり着いた。その扉の両脇に立っていた兵士はミンシアと視線を合わせ、頷き合ったあと、扉を開放した。

「どうぞ中へ」

 ミンシアに促され、ラルスは部屋の中に足を踏み入れた。金縁の深緑色のビロードの絨毯はふかふかで、踏みつけてしまうのが申し訳ないくらいだった。

 居間のような空間を抜けて、奥の奥の部屋に通される。居間には侍女や護衛兵が控えていたが、この部屋には誰もいなかった。

「殿下の閨の相手をなさるとき、心がけていただきたいことがございます」

 ミンシアは事務的にラルスに伝えてきた。

「これは殿下の夜伽上達のための行為です。殿下はあなたさまを愛そうといたしますので、殿下にされてよかったならよかったと、反対に悪かったところや嫌なことをされたらはっきりとそれを言葉にして殿下にお伝えしてほしいのです」

「は、はい……」

 危うく失念しそうになったが、ラルスの役目はアルバート王太子殿下の夜伽上達のために身体を差し出し協力することだ。ただアルバートに抱かれるだけではいけないとラルスは気を引き締めた。

「それと、殿下に会うのはこれで最初で最後にしてください。閨事をすると、ときに恋慕の情を抱いてしまうことがあるようです。そのようなことはなきよう、お願いいたします」

「はい。承知いたしました」

 アルバートは王太子殿下だ。身体を重ねたことを理由にしてアルバートに近づきたいと思う輩もいるのかもしれない。今夜限りでアルバートとの関係は終わりにして、変につきまとったり脅したりしないようにと牽制の意味が込められているのだろう。

「それではこのままお待ちください。私はこれで失礼いたします」

 ミンシアは深々と頭を下げて、寝所からいなくなった。

 バタンと扉が閉められしんと静まり返った部屋にひとり残される。

 夜なので部屋は暗い。壁に置かれたいくつかのランプの仄かな灯りがあるだけ。

 寝所なのに、とても広い部屋だ。もちろん寝るための大きなベッドが中央に鎮座しているのだが、その他に長椅子のソファーと机、本棚と大きな書斎用の机もある。

 ここはアルバートが眠るだけではなく、自身のプライベートな空間にもなっているのかもしれない。

 どうにも落ち着かないラルスが部屋をキョロキョロと眺めていたときだ。扉が開かれる音がして、ラルスが振り返ると、ひとりの濃紺のローブを着た男が寝所に入ってきた。

 アルファらしく、長身で豊かな体躯。彫刻のように完璧なつくりのくっきりとした目鼻立ち。艶やかな金色の髪も深い碧色の瞳も、そのどれもが美しいと思った。

 これほどの美形を見紛うことなどない。アルバート王太子殿下だった。

「待たせたな」

 アルバートはラルスを見て目を細め、微笑みかけてきた。その天使のような笑みにラルスの心臓はドクンと跳ねた。

「い、いえ……とんでもございません」

「私を前に緊張しているのか。可愛いな」

 アルバートに言われたとおり、ラルスはガチガチに緊張して身体に震えがくるくらいだ。

「名前は……たしかフィンと言ったな。合っているか?」

「はい。仰せのとおりでございます」

 ラルスはここに、フィンの身代わりとしてやってきた。今夜だけは伯爵家の三男のふりをしなければならない。

「では今夜だけはそなたのことをフィンと呼ばせてもらう。よいな?」

「はい」

 ふたりがこれからすることは愛するもの同士が交わすようなまぐわいだ。そのときに名前を呼んだほうが具合がいいとアルバートは思ったのだろう。

「まるでからくり人形のようだな。まぁ、これから先のことを考えると身体に力が入ってしまうのも無理もないな」

 アルバートはおもむろにラルスに近づき、ラルスの身体をそっと抱きしめた。突然のアルバートとの接触に驚きラルスはさらに身を固める。

「実は私も同じなのだ。私の心臓の音を聴いてみろ。わかるか? さっきからうるさく鳴り止まないのだ」

 アルバートはラルスの耳を自分の胸板に押し当てるように、ラルスの頭に手を添えてきた。言われたとおりにアルバートの心音に耳を傾けると、アルバートの心臓はバクバクと早鐘を打っていた。

 練習だが、アルバートにとっても初体験だ。王太子といえども緊張するのも無理はない。

 アルバートもラルスと同じ気持ちで臨むことを知って、親近感が湧いた。自分だけが気負っているわけではないとわかり、少しだけラルスの身体から力が抜けていく。

 それにアルバートに抱きしめられ、アルファのフェロモンの(かぐわ)しさに身体がとろけそうだ。

「閨事の前に、フィンに確認しておきたいことがある」

 アルバートはラルスを抱きしめながら、耳元で囁いた。

「ここには命令されて仕方なく連れて来られたということは、容易に想像できる」

 アルバートの温かい手がラルスの背中を何度も撫でる。おそらくラルスの気持ちを落ち着かせようとしてくれているのだろう。

「正直に伝えてほしい。フィンは本当は私ではなく、他のアルファのことを慕っているということはないか?」

 そう言われてハッとした。たしかにフィンにはずっと気持ちを寄せているアルファがいる。だが自分はフィンではなくラルスだ。今まで誰かに恋情を寄せたことなどない。厩係として生活していけるだけで十分だと思っていたからだ。

「そ、そのような相手はおりません……」

 まさか本当にいたとしても、閨事の前にそれを王太子であるアルバートに伝えることなどできない。アルバートは何を知りたいのだろう。

「本当か? もし嫌ならば断っていいぞ。今宵私がお前を抱いたということにしてやる。決して罪には咎めない。こうして抱きしめておけばアルファの匂いがお前に移る。それで侍女たちも閨事が行われたと見誤ることだろうしな」

「えっ……?」

 正直驚いた。アルバートは閨の練習台として連れて来られたオメガを守ろうとしているのだ。命令で無理に練習台にさせられるのは可哀想だと慈悲を与え、無事なまま返してくれるつもりのようだ。

「誰だって初めては、好意を寄せている相手がいいだろう? それなのに私に抱かれるのは嫌ではないか? どうせ逆らえずにここに来たのだろう? 誰かと身体を重ねることは簡単なことではない。無理に開かされたら一生心の傷になることもある。お前にはそんな思いを抱かせたくはない。だから正直な気持ちを教えてくれ」

 まさかこのような選択肢を与えられるとは思いもしなかった。問答無用で抱かれるものだとばかり思っていたのに。

 アルバートの言葉は嘘とは思えない。今、ここでラルスが嫌だと言えば、きっと朝まで何もされずに終わることだろう。

 だがラルスは、この身がアルバートの役に立つのなら抱かれてもいいと思った。

 アルバートはきっといい人だ。将来迎える妃の前でアルバートが恥ずかしい思いをしないために役に立てるのなら、悪くない。

 それに、さっきからアルバートに抱きしめられて感じていることがある。

 アルバートからは、今まで接してきたアルファとはまったく違うフェロモンを感じる。

 これはどんな上級オメガでもクラクラするのではないか。いつもアルバートのことは遠くから眺めているばかりで、こうしてまともに話したのは今日が初めてだ。それなのに、ラルスはすでにアルバートに惹かれている。

「か、構いません……」

 ラルスは決意を込めた目でアルバートを見上げる。

「最初からそのようなつもりでここに参りました。命令ではありますが、何をされるかわかっていて自分の意思で来たのです。ぼ、僕でよければお役目を果たさせていただきたいと思っています」

 ラルスの言葉に、アルバートはピクッと身体を震わせた。一瞬目を見開いたが、すぐにアルバートは微笑んでラルスを抱き寄せ、つむじにキスをした。

「それでよいのだな?」

「はい」

 ラルスが頷くと、アルバートはたまらないといった様子でラルスの身体をぎゅっと抱きしめる。

「では、まずは口づけを交わそう。これから私がお前にすることが嫌だと思ったら、嫌だと言え。そうしたらすぐにやめる。そこまでの行為で終わりにするから、遠慮なく言うのだぞ」

「はい、あっ……!」

 返事をするかしないかの間に、唇を奪われた。

 十秒ほどの長いキスで、呼吸を止めたままのラルスは苦しくなってきて唇を離そうとしたのにアルバートに手で後頭部を押さえつけられ逃れられない。

「んっ……んっ……!」

 なんとか息をしようと口を開いた瞬間、アルバートの熱い舌が入り込んできてラルスの舌を捉える。

 ラルスは誰かと唇を重ねたことはない。初めてのキスだ。

「はっ……ぁ……っ」

 必死で呼吸をしながら、アルバートを受け入れる。生まれて初めてキスがこんなに気持ちのよいものだと知った。

「どうした……? 苦しい? やめるか?」

 アルバートはピタリと動きを止めてしまった。それに驚いてラルスは「えっ」と声をあげたが、大前提に気がついた。

 これはアルバートからラルスへの愛の表現ではない。

 ラルスはフィンの身代わりで、アルバートの閨の練習台だ。アルバートは来るべき妃との婚礼に備えてこのような行為をしているに過ぎない。

「いっ、いえ、あの……あの……」

 恥ずかしがっている場合ではない。きちんと感じたことをアルバートに伝えなければ、アルバートが本番のときに誤ったことを妃にしてしまう。

「とっ、とてもいいです……殿下は口づけがお上手でいらっしゃって、あの、すっかり気分がよくなってまいりました」

 これは本当のことだ。アルバートのキスは優しくて繊細で、上手にラルスをとろけさせてくれる。

「ではもう少し続けてもよいか?」

「は、はい」

 よかった。あと少しだけアルバートとキスしていたいと思っていたから。

「なんと可愛いんだ。フィン……だったな。フィン。続きはベッドの上でやろう」

「あっ!」

 簡単にベッドの上に押し倒された。アルバートに組み敷かれた状態で、ラルスはアルバートから情熱的なキスをされる。

 そのままアルバートの手がラルスのローブの裾の乱れたところから中へと侵入してきた。熱い手はラルスの足を伝い、上へと上がってくる。

(あっ、ダメっ……)

 と思った。でも、嫌だと言った瞬間アルバートは行為をやめてしまう。ラルスは言葉を飲み込んで、アルバートからの愛撫に耐える。

「あっ、あっ、触り方がとてもお上手です、殿下……」

 アルバートの手は柔らかくて、少しくすぐったくて、気持ちがいい。恥ずかしいが、これはただの練習だ。よいことはよいとアルバートに伝えねばならない。

 乱れたローブの首元から、ラルスの身につけている銀のペンダントがこぼれ落ちた。

 アルバートはラルスのペンダントを手に取り、甘い口づけをする。

 それを合図にするかのように、アルバートはラルスに甘い甘い夜を与えてきた。




 閨の練習台としての役目を終え、もとの生活に戻ったラルスは、いつもどおりに厩舎で馬の手入れをしている。

 だが気がつくとアルバートのことを考えていて、仕事が手につかない。

 あの夜は、夢のようなひとときだった。アルバートはラルスを愛おしそうに何度も抱いた。「痛くないか」「苦しくないか」と声をかけてくれて、アルバートは終始優しかった。練習なんていらなかったのではと思うくらいに、アルバートとの行為は気持ちよかった。

 行為が終わると、アルバートはラルスの身体を拭き綺麗に清めてくれて、「疲れただろう。朝まで眠れ」と温かい手で抱きしめてくれた。

 別れ際、ミンシアに思ったことを述べるように言われてアルバートは完璧だったと感想を伝え、ラルスは後ろ髪引かれる思いで送りの馬車に乗ってウィンネル伯爵の屋敷に帰ってきた。

「殿下、かっこよかったなぁ」

 ラルスは大きなため息をつく。昨夜の相手は誰もが憧れるアルバート王太子殿下だ。本来であれば平民のラルスは接点すらない御方で、閨の練習台になることすら高貴な身分でないと叶わないほどの相手だ。

「でも、もう会うことはないんだろうな……」

 ミンシアの言うとおり、閨の相手は昨夜が最初で最後だ。もう二度とアルバートに触れられることはないし、会うことすらないだろう。

「ラルスっ」

 名前を呼ばれてハッと顔を上げるとフィンがにこやかな顔でひらひらと手を振っていた。

「フィンさまが厩にいらっしゃるなんてっ。せっかくの服が汚れてしまいます。馬が必要ならば、僕が連れて行きますから」

「ラルスったら。そんなの気にしないよ。それにさま付けして呼ばなくていい。友達なんだから呼び捨てにしてよ」

 フィンは伯爵令息なのに、いつも気さくに話しかけてくれる。失礼なことだとわかっているのに、親友と呼びたいくらいの相手だ。

 フィンは「ちょっとだけ話そう」とラルスの手から干し草をかき集めるための熊手を取り上げ、ラルスを中庭のベンチに連れて行く。

「ねぇ、ラルス。殿下に会った?」

「えっ……!」

 なるほど、フィンは昨晩の話をラルスから聞き出そうとしているようだ。

「あ、会ったよ。そりゃあ僕はフィンの身代わりになったんだから」

「だよね。本当にありがとう、ラルス」

 フィンは丁寧に頭を下げてきた。それをラルスは慌てて「そんなことしちゃダメだよ、フィンは伯爵令息なんだから」と制する。

「で、どうだった? 殿下に少し興味は持った?」

「興味って言われても……もう二度と会わないような人だから……」

 アルバートのことは考えないようにしている。好意を抱いてもどうにもならない相手だ。それなのにフィンはどうしてそのようなことを聞いてくるのだろう。

「それがね、もう一度殿下に会ってきてくれないかな?」

「えっ……?」

 ラルスは目を丸くした。アルバートには二度と会えないと思っていたのに。

「殿下はまだ不安らしい。もう一度、閨の練習相手をしてほしいと秘密裏に伯爵家に依頼がきたんだ。それで、大変申し訳ないんだけど……またラルスに身代わりをお願いできないかなって……」

「や、やりますっ、やらせてくださいっ!」

 食い気味に返事をしてしまって、すぐに後悔する。

 これはフィンに与えられた極秘のお役目だ。それなのにアルバートを騙して、ラルスが身代わりになるという話だ。

 決して褒められたことではないのに、まるで自分に閨相手の話がきたのように飛びつくなんていけないことだ。

「……いいの?」

「はい」

 ラルスは静かに頷いた。本当は、もう一度アルバートに会える喜びで胸が高鳴っているが、あんまり表立って喜んではいけない。

「ありがとう! 持つべきものは優しい親友だ!」

 フィンはラルスに飛びついてきた。

「ダ、ダメっ、僕は汚いからっ」

 馬の世話で家畜臭いのに、フィンに抱きつかれたらフィンまで匂いが移ってしまう。

「ラルスは細かいことを気にしすぎっ」

「フィンさまが気にしなさすぎなんですって、僕はただの平民で……」

「何言ってるの。友達になるのに身分なんて関係ない。貴族の友達は足の引っ張り合いばかり。いつだって僕を助けてくれるのはラルスだった。僕がいじめられているときに、馬に乗っていじめっ子に突っ込んでくれたじゃないか。ムカつく伯爵令息の顔に泥をかけてやったとき、どれだけスカッとしたか」

「あ、あ、あれはフィンさまを助けなきゃって必死で……!」

 それは昔の話だ。フィンの帰りが遅くて、心配になって辺りじゅうを馬に乗って探し回っていたとき、大勢に囲まれているフィンを見つけたのだ。まさにフィンが手を出されそうになっていたので、何も考えずにそのまま馬で無我夢中で突っ込んでいった。後になって周りの子どもたちが貴族の令息だったと知り、ラルスは手酷く叱られたのだが、そのときたまたま居合わせた、国王の城からやってきていた使いの者がその場を収めてくれた。

「そういえばさ、ラルスは殿下とどこまでしたの?」

「はっ……?」

「最後まで、されたの?」

 なんてことを聞いてくるんだ! と心の中で悲鳴を上げながら、「なっ、なんにもないっ」と意味のないことを言い、両手で顔を覆った。

「ごめん。冗談。答えなくていいよ」

 フィンは、ふんわりとラルスの身体を抱く。

「僕も閨係は一度だけだと思っていたんだ。それを、もう一度殿下が願われるなんてって思っただけ」

「そうですよね……」

 ラルスには他の人と交わった経験はない。だが、アルバートはお世辞抜きにキスもお夜伽もとても上手だった。

 そしてそれをラルスは侍女のミンシアにしっかりと伝えたのに、アルバートは何が不安なのだろうか。

「僕はラルスの幸せをなによりも願っているから」

 フィンの温もりを感じて、胸がじんとなる。優しいフィンのことは好きだし、フィンの気持ちはありがたいと思う。

 フィンの身代わりとしてもう一度、アルバートに会える。

 アルバートにとってはただの閨事の練習相手だ。でも、それでもこの身がアルバートの役に立つのならいくらでも差し出していいと思った。

 それに、アルバートに会えるのも、今度こそ最後だろう。婚姻前だから閨の練習相手が必要なだけで、いざ結婚してしまえば二度と呼ばれることはなくなる。

 人生で最後の良い夢を見よう。

 アルバートと過ごす最高のひとときを。




 ラルスは再びフィンの服を借り、伯爵令息を装って、アルバートの待つ城へと向かった。この前と同じ流れで湯浴みをして、シルクのローブを身にまとい、侍女のミンシアの案内でアルバートの部屋へ向かう。

 部屋に入ると、今回はすでにアルバートが待っていた。

 アルバートは、「そこに座っていろ」とラルスをソファーに座るよう促してから、ミンシアへと近づいていく。

「ミンシア。このことはくれぐれも内密に」

 アルバートがキラリと光る宝石をいくつかミンシアに手渡している。きっとあれは口止め料なのだろう。

「殿下、私にはこのような気遣いは無用です」

「いいから受け取れ。お前は欲がなさすぎる。いざというときのために少しくらい持っていろ」

「いいえ。私は殿下のためならなんでもいたします」

「その気持ちはとても嬉しいが、自分の幸せも考えなさい。さぁ、受け取れ。これは口止め料だよ」

 ミンシアは一考したあと、「ありがとうございます」とアルバートから宝石を受け取った。

 ミンシアを部屋から返したあと、アルバートはゆっくりとラルスのもとに近づいてくる。

「今宵は少し話をしようか」

 アルバートはソファーにかけてあった羊毛の毛布をラルスの肩にかける。そのあと目の前に甘いお菓子を並べ、自らの手でお茶を淹れてくれた。

 ラルスはすっかり困惑している。だってラルスは閨の練習相手だ。ただ顔も見ず、抱くだけでもいいのになぜアルバートはこんなことをするのだろう。

「フィン。少しだけ昔話をしてもよいか?」

「えっ? あ、はいっ……」

 昔話とはなんのことだろう。ただ、これは困ったことになった。

 アルバートとフィンのあいだに思い出があったとしても、それをラルスが知るはずもない。そんな話もフィンからまったく聞いていない。

 最悪の場合、ラルスがフィンではないとアルバートに気づかれてしまう。そんなことになったら罰せられるのはラルスだけじゃない。フィンまで罪を問われてしまう。

 そんな状況だけは避けなければならない。フィンになりきらなければ。

「湯上がりで喉が乾いているだろう? お茶は要らぬか?」

「あっ、はいっ! いっ、いただきますっ!」

 アルバートが淹れてくれたお茶を飲まないなんてそんなことはできない。ラルスは慌てて目の前に置かれたティーカップに手をつけた。

「あちっ!」

 ティーカップの周りが熱くて耐えきれず、思わずガチャン!とカップをテーブルに激しく戻してしまった。

 ラルスはティーカップを使ってお茶を飲んだことがない。作法がわからない。

「下にソーサーがついているだろう? テーブルが低く、自分と距離があるときは長い時間カップを持つことになるから、ソーサーとともに持ち上げるのがよい。カップは基本取っ手を持つ。そうすれば熱くない」

「す、すみません、そうですよね。緊張で作法を間違えてしまいました」

 まさか知らなかったとは言えないので、ラルスは咄嗟に緊張のため間違えたことにする。

「そうだな。知らぬわけがなかったな。余計なことを言った」

 アルバートは特段気にしている様子はない。楽しそうに笑っている。

 よかった。目の前にいるのはただの平民だと気がついていない様子だ。


 それからアルバートはお菓子とお茶をラルスに勧めながら、いろんな話をしてくれた。イタズラをして怒られた話、ひとりで城を抜け出し庶民に扮した話。アルバートは意外にも気さくな性格なのだと知った。

「私は昔、馬に乗れなかったのだ」

「殿下がですかっ?」

 信じられない。アルバートのバース性はアルファだ。アルファは他のどのバース性よりも優れていて、なんでもできると言われている。そんなアルバートが、馬に乗れない……?

「ああ。その昔、馬に振り落とされたことがあり、それ以来馬の背中に乗ることが怖くなってしまってな」

「そのようなことがあったのですね……」

 アルバートだけじゃない。幼い頃から馬とともに生活してきたラルスは、馬と合わなくてそのような心の傷を抱える者を何人も知っている。

 暴走した馬から振り落とされると命に関わる怪我をすることもあるのだ。ラルスは以前、そのような目に遭った男の子を馬の暴走を止めることで救ったことがある。あのときは周囲の大人たちに大いに感謝された。

「フィンは軍務伯の三男だから馬の扱いに長けているだろう? 人を見て、その人と相性が合う馬を選ぶことができると聞いた。そのような稀有な能力をどうして人にひけらかさないのだ?」

「それは……」

 それをやっているのは、実はフィンではなくラルスだ。フィンの命令で、ラルスは相性の良さそうな馬を選んでいるのだが、周囲からそれはフィンの能力だと思われているらしい。

 フィンは誠実な男だ。ラルスのおかげで褒められてもそれを我がもののように振る舞ったりしない。

 だからフィンはそのことを人に自慢げに話したりしないのだろう。

「人も馬も、気性というものがあります。人は言葉が話せますし、会ってみれば自分に合う合わないを見極めることもできます。馬は人の言葉を話せませんが、毎日接していると感じるのです。言葉がなくとも馬の機嫌や気性を感じて、それを汲みとってあげることができるようになるのです。僕はその気持ちを代弁してお伝えしているだけで、特別なことは何もしておりません」

 本当にそう思っている。厩係なら皆、馬の気持ちをある程度理解できるようになると思う。ラルスはそれが人よりほんの少し長けているだけだ。

「それが案外一筋縄ではいかないものなのだがな。だからフィンのもとに騎士たちが相談に来る。フィンに特別な褒美を与えたいくらいなのだが」

 フィンが、王太子殿下であるアルバートから褒美をもらう。

 それはラルスにとっても願ったりだ。

「それはとてもいいお考えです。フィンさま……ぼ、僕はオメガで、努力をしてもなかなか出世話が出てきません。殿下のお墨付きがもらえれば、周囲の見方も変わってくるかと思います」

 危なかった。言い誤ってしまった。でもフィンさまと言ったのは小声だったしアルバートはそこに対して特段気にしている様子はないから大丈夫そうだ。

「そうだな。フィンはオメガだったな。だからさっきからこんなに芳しい匂いがするのだな」

「あっ……」

 アルバートが毛布の上からラルスを抱きしめてきた。

 アルバートに触れられると身体が熱くなる。顔も、耳まで真っ赤になってしまうので、それを悟られるのが恥ずかしくて、ラルスは毛布で耳を隠した。

 そうだった。今夜のラルスの役目は、アルバートの閨の練習台になることだ。アルバートが気さくに話をしてくれるから、ついアルバートの友人にでもなったつもりになってしまった。

「殿下。どうぞこの身体を自由にしてくださって構いません」

 アルバートは優しい。話をすればするほど、身分の低い者を権力で無理に閨の練習台にするような人ではないとわかる。

 でもこれから迎える大事な妃さまを相当愛しているのだろう。夜の睦事で失敗して妃に嫌われないために、さらなる練習を積みたいと伯爵家にもう一度声をかけてきたに違いない。

 平民のラルスの身体などになんの価値もない。どうなったっていいのだ。アルバートの役に立てるのなら、痛い目に遭わされたっていい。

「この身体は練習台です。ボロボロになさってもよいのです。どうか、殿下の好きなように」

「そのようなことを言うな。今日はお前の顔がもう一度見たくて呼んだだけだ。抱いたりしない」

 アルバートにそう言われて、急にさみしく思った。

 アルバートはラルスの身体に興味などない。ラルス自身にも興味はない。

 アルバートが会いたかったのはフィンだ。フィンの良い噂話を聞いて、一度話をしてみたいと思ったのだろう。

 たしかにアルバートには閨の練習など必要ないと思う。前に抱いてもらったとき、とても気持ちよかった。あれなら妃を迎えても上手くいくに違いない。

 それなのに、抱きたくもない小汚いオメガに手を出す必要などない。

「申し訳ございません……余計なことを言った僕をどうぞ罰してください……」

 アルバートに失礼なことを言ってしまった。「この身体をボロボロに」なんてアルバートがそんなことをするわけがない。それなのに、まるでアルバートが見境なしにオメガを貪る卑しい男かのようなことを言ってしまった。

「そうだな。さっきの言葉は私も傷ついた」

 あっ、とラルスは顔を上げる。

 やっぱりそうだ。アルバートは怒っている。酷いことを言って、アルバートの心を傷つけてしまった。

「この場でお前に罰を与える。いいな?」

「はい……」

 ラルスは胸が苦しくなる。罰せられることが嫌なのではない。こんなに心の広いアルバートを怒らせるようなことをしてしまった自分自身に対して、憤りを感じているのだ。

「今宵は何もせず、無事に返してやろうと思っていたのに。これは、さみしくなるようなことを言うお前のせいだ。あのようなことを言うから触れたくて仕方がなくなった」

 アルバートはラルスの唇に唇を重ねてきた。アルバートの柔らかな唇は、ラルスの唇を味わうように何度もキスをする。

 アルバートはやっぱりキスが上手だ。さっきまであんなに胸が苦しかったのに、アルバートにキスをされ、辛かった心も、強張っていた身体も蕩けていく。

「はぁっ……ん、う……っ」

 やがてアルバートはより深く求めるようにラルスの口内を犯し始めた。

 気持ちいい。たまらない。アルバートのことしか考えられなくなっていく。

 こんなの全然罰じゃない。ラルスにとっては最上の褒美だ。

「んっ……んんっ……」

 身体を抱き寄せられ、キスをされ、あまりに良すぎてラルスの腰が自然と揺れてしまう。

 でも、目の前にいるこの御方は、ラルスの恋人でもなんでもない。

「可愛い……フィン、フィン……」

 ラルスの本当の名前も知らない、本当ならば平民のラルスは触れることすら叶わない相手。

「殿下っ、殿下……」

 アルバートは、ラルスと会っていることすら秘密にしなければならない。王太子殿下が婚姻前に閨の練習をしているなんて誰にも知られてはいけないことだ。

 アルバートはまもなく妃を迎え、将来この国を背負って立つような、素晴らしい人なのだから。


 


 二度目の役目を終え、ラルスは再び日常へと帰ってきた。

 馬小屋の掃除をして、馬を一頭一頭綺麗に洗ってやる。馬の体調を気遣いながら、それぞれのエサを用意する。

 伯爵家はラルスにきちんと賃金を払ってくれるし、この仕事も、馬たちも決して嫌いではない。伯爵家の人たちはフィンをはじめいい人ばかりだ。

 ずっとここで働かせてもらえればいいなと思っていたはずなのに。

「はぁ……」

 思い出すのはアルバートの優しい笑みだ。

 アルバートの低く穏やかな声。ラルスに触れてくるときの温かな手。

 世の中にはあんなに素敵なアルファがいるのだと初めて知った。

 だが、アルバートはもうすぐ妃を迎える。妃が誰かは公表されていないが、噂では敵国の第二王女だという話だ。

 和平を重んじるアルバートらしい結婚相手だと思う。アルバートなら自らの結婚も国のためになる選択をしそうだし、政略結婚の王女のこともきっと大切にするだろう。

「早く忘れなくちゃ」

 もうアルバートと話すことすら叶わないだろう。貴族であるフィンならアルバートの姿を見る機会があるかもしれないが、平民のラルスにはそんなときすら訪れないと思う。城の中にすら入れないのに。

『閨事をすると、ときに恋慕の情を抱いてしまうことがあるようです。そのようなことはなきよう、お願いいたします』

 侍女のミンシアの言葉がラルスの頭に反芻する。

 まったくもってそのとおりだ。

 今のラルスは「あのときの練習台のフィンです、覚えておられますよねっ?」と、あの夢のような夜の出来事をたてにして、アルバートに会いたいと願ってしまっている。

 あの夜のアルバートの行為は、これから迎える妃へ対する練習だったというのに。

「ラルス、ねぇ聞いて!」

 フィンが嬉々としてラルスのもとに駆け寄ってきた。

 ぼんやりしていたラルスは我に返り、身体の土汚れを払ってフィンに「どうされましたか?」と笑顔を向ける。

「あのねっ、マリクさまから手紙の返事が届いたんだ!」

「手紙って、まさか……!」

 少し前にフィンはマリク侯爵に敬愛の気持ちを綴った手紙を出していた。マリクはフィンの意中の相手で、フィンは以前から抱いている自分の気持ちをマリクに伝えたらしい。その返事が返ってきたのか。

「それでね、一度会って話がしたいと返事がきたんだ! あぁ、もう、嬉しくて舞い上がりそうだよ!」

 フィンはマリク侯爵からの返事の手紙を密かに見せてくれた。たしかにそこには『フィンに会ってみたい』など好意的な言葉が綴られていた。

「よかったですね」

 嬉しそうなフィンの様子を見て、本当に嬉しく思う。閨係の身代わりになった甲斐がある。このままマリク侯爵とフィンがうまくいけば、フィンの願いが叶うかもしれない。

「ありがとう、ラルス!」

 フィンは何度もマリク侯爵からの手紙を見返している。そのときのフィンの瞳は、愛おしいものに向ける優しさに溢れていた。

 フィンは心からマリク侯爵のことを好きなのだろう。

 恋する友人の横顔を眺めていて気がついた。

 自分はいったいどのような顔で、アルバートのことを見ていたのだろう。

 あからさまに好意を寄せていることがわかるような、恥知らずな顔をしていたのではないか。

「……ラルスは? ラルスは好きな人はいないの?」

「え! 僕のことなど気にしないでくださいっ」

「いいからいいから。ねぇ、殿下のこと好きになった?」

「ええっ?」

 フィンに胸の内を読まれたようで、ドキッとした。

 なんと答えればいいのだろう。正直、アルバートは優しくてかっこよかった。練習台とはいえ何度もアルバートに抱かれて、まるで自分がアルバートの恋人にでもなった気分だった。

「そんな真っ赤な顔して、ラルスはわかりやすいなぁ」

「ち、違うって! ダメだよ僕なんかが好きになっちゃいけない相手なんだから……」

「そうやって必死で否定することも、ね?」

「違うよ、違う」

 ラルスが否定しても、フィンはニヤニヤと笑っている。フィンにはなんでもお見通しのようだ。

 フィンの前では、観念するしかない。

「……かっこよかった」

 ラルスが本音をこぼすと、フィンが優しい顔で耳を傾けてくれる。

「バカみたいだよね。相手はお妃さまを迎える準備をなさってる王太子殿下さまだよ。あの夜のことは全部、練習のためになさったことで、殿下は僕の本当の名前も知らない。僕のこと、フィンって呼んでた。そりゃそうだよね、入れ替わったことすら殿下はお気づきになられてないんだから」

 自分で言っていて情けなくなってきた。自分は身代わりでなければ閨の練習台にもなれないほど身分が低い。アルバートとの未来なんてあるはずないとわかっていたのに、まんまと好きになってしまった。

「殿下は素敵な御方だよね」

「うん……」

 フィンの言葉に同意だ。アルバートと婚礼を挙げる妃が羨ましいと思う。一生、アルバートのそばにいられて、アルバートの愛情を一身に受けることができるのだから。

 でも、この想いばかりは叶うことなく終わることだろう。

「ありがとう、ラルス。本当の気持ちを聞かせてくれて」

 フィンはラルスの肩に優しく触れた。

「フィンさまこそ、聞いてくださりありがとうございます。ずっと胸の内に閉じ込めていたものを吐き出すことができて、嬉しかったです」

 フィンに強引に気持ちを吐き出させてもらえてよかった。

 アルバートへの想いをフィンに話したことで、気持ちが軽くなった。

「殿下にまたお会いしたいな……」

 アルバートに会っても、何もできないとわかっている。それでも、ひと目でいいからあの姿を見てみたい。

 このラルスの小さな願いは、きっと叶うことはないだろう。




 あれから一カ月が過ぎた。今日は朝からウィンネル家は大慌てだ。というのも城でアルバートの婚礼の儀が行われるため、それに出席するための準備に追われているからだ。

 ラルスも、馬車を引くための馬の手入れをする。毛並みなど見た目を整えるのはもちろん、城にたくさんの馬車や、馬が集まることが想定されるため、一頭ずつ顔色を見ながら機嫌や馬の心のうちを伺う。気が立っている馬は今日は留守番だ。

「ラルスも一緒に来てくれ」

 ウィンネル家の当主でフィンの父親のウィンネル伯爵に声をかけられ、ラルスは「承知いたしました」とかしこまる。ラルスは時々、軍務伯のウィンネル伯爵についていき、城の騎士たちのための馬の世話をしている。今日も厩舎での働き手が欲しいのだろう。

 やがて支度を終え、ラルスはフィンの乗る馬車に同行することになった。フィンは当然馬車の中、ラルスは馬の手綱を引く御者の隣に座った。

 順調に進んでいたのに、城の手前で御者がいつもと違う道を行く。

「あれ? なぜ左の道を行くのですか? 正門は右手に曲がったところです」

 ベテランの御者なのに、道を誤るなど珍しいことだ。ラルスは不思議に思いながらも御者が握る手綱に手を伸ばす。

「いいや、我々が向かうのは裏門だよ」

「えっ?」

 どういうことだとラルスは考えを巡らすが、フィンが裏門に案内される理由がわからない。きちんと招待状は受け取っていたし、伯爵令息として堂々と正門から入る資格は十分にある。

 訳もわからぬまま裏門に到着すると、そこにはアルバートの侍女のミンシアが立っていた。

「お待ちしておりました」

 深々と頭を下げるミンシアの思惑がわからないまま、ラルスは馬車から飛び降りフィンを下ろすために、外から馬車の扉を開ける。

「フィンさま、これはいったいどういうことでしょうか」

「ラルス。一緒に来て。これからラルスの支度を僕が手伝うよ」

「んんっ? 支度……?」

 厩係に支度など必要なのだろうかとラルスは首をかしげる。

「今日の主役はラルス、君だから」

「えっ?」

 フィンに背中を押されて、裏門を抜け、いつか通ったことのあるレンガ造りの細い隠し通路を抜けていく。

「まずは湯浴みをして、それから婚礼の衣装に着替えていただきます」

 ミンシアがさらりと意味のわからないことを言い出し、ラルスは黙ってなどいられない。

「あのっ、僕は厩係で式には参列しません。招待状も受け取っていませんし……」

「招待状はございません。ラルスさまが主賓というお立場になられるのですから」

「主賓……?」

 ミンシアの話がまるで見えてこない。訝しげな様子のラルスにフィンが「あのね」とニコニコと怪しげな含み笑いをしながら話しかけてきた。

「アルバート王太子殿下の妃になられるのは、ラルスだから」

「えっ?」

「これは今日まで極秘にされてきたことだ。今日集まる人たちは、妃は誰なのかとさまざまな憶測を立てている。でも誰もラルスとは思っていないみたいだ。まさか殿下のお相手が平民から選ばれるとは予想だにしていないだろうからね」

「フィン、ごめん。僕にはまったく話が見えないよ」

「とにかく支度をして、殿下に会いに行こう。こんなことを企てた本人に直接話を聞いたほうがいい」

 狐につままれたような気分のまま、ラルスはアルバートの侍女たちにあれよあれよと支度をさせられた。



「殿下」

 純白の上下に絢爛な金銀の刺繍が施された婚礼着を身につけたラルスは、婚礼の控えの間でアルバートの姿を見つけて畏れ多くも声をかけた。ラルスに気がついたアルバートはこちらを振り返り、「綺麗だ。よく似合っている」と微笑みかけてきた。

「殿下、説明してください。これはいったいどういうことなのですかっ?」

 アルバートにつかみかかる勢いで、ラルスは問い詰める。

「すべては私の仕組んだことだ。どうやったらラルスと婚礼を挙げることができるのか考え抜いた末の決断なのだ」

「な、なぜ僕を……」

 ラルスには自分が妃に選ばれる理由がわからない。いまだに信じられなくて、何かの茶番劇に思えてならない。

「憶えておらぬか? ラルスは私が唯一惚れた相手だ」

 アルバートはそう言って、ラルスに金色の馬の蹄鉄を模した飾りが付いているペンダントを見せてきた。

「あ!」

 そのペンダントははっきりと憶えている。いつかウィンネル家に戦乱のため身を寄せた男の子と「いつか必ず再会しよう」と約束を交わしたときのペンダントだ。

 当時は十歳。貴族の男の子は自分のことをアルフォンスと名乗り、フィンと同様に身分違いのラルスに優しく接してくれた。

「アルフォンスが、殿下だったのですか?」

「そうだ。軍務伯の計略で、半年だけ身を隠すこととなり、名を偽って軍務伯の屋敷に潜むこととなったのだ」

「そうだったのですか……」

 幼いラルスには、そのような大人の事情はまるでわからなかった。ただ「この御方を大切に扱いなさい」とウィンネル伯爵に言われただけだった。

「私が馬に乗って振り落とされそうになったとき、助けてくれたのはラルスだった」

「憶えてます……気性の荒い雄馬で、あの子はアルファを毛嫌いしていましたから」

 あのとき、アルバートは身体が大きくて立派な馬を選んだ。当時十歳のアルバートは、どんな馬でも操れると思っていたのだろう。案の定暴れてアルバートを振り落とそうとし、それをラルスがなだめたことがあったのだ。

「ラルスは、私の贈った銀の蹄鉄のペンダントを大事にしてくれていたのだろう? 閨事のときにラルスの首にそれが光っていたのを見たとき、私は嬉しくてすべてを明かしてしまいそうになった」

 閨のとき、アルバートはペンダントに口づけをしていたことを思い出した。あの官能的な夜に、アルバートが何度もラルスに向けてきた愛おしそうな視線は、閨の練習相手としてではなく、ラルス自身に対してのものだったのだろうか。

「あのときの泣き虫アルフォンスが殿下だったなんて」

「泣き虫とはなんだ。泣いたのはあの馬に振り落とされそうになったとき一度だけだ」

 ムキになって怒るアルバートの態度が微笑ましくてラルスは思わず笑みがこぼれる。

「あれ以来、馬に乗れなくなった。恥ずかしくてこのまま城に帰れないと思っていたとき、私が馬に乗れるよう、毎日そばにいて助けてくれたのはラルスだった」

「覚えております。ですがあれは殿下がお選びになった馬との相性が悪かっただけです」

「それを教えてくれたのはラルスだった。他の者は私に意見することがなかったからな」

 たしかに、王太子殿下の判断に口を挟めるものはいないだろう。でもあのときラルスはまだ子どもで、しかもアルフォンスが王太子だと知らなかった。だからつい無遠慮に接してしまったのだ。

「ラルス。すでに招待客は集まっているし、お前が私との婚礼を拒絶することはできない。ウィンネル伯爵にも許可は得ているし、父上も母上も、今までの慣例を変え、私の見染めた相手を妃とすることに賛成してくれている。お前はこのまま私の妃になるしかない。いいね?」

 アルバートはラルスにグイッと迫ってくる。その圧に押されてラルスはたじろいだ。

「妃は誰なんだと注目が集まっている。ここでラルスが逃げたら私は国中の笑い者だ。逃しはせぬぞ」

「そんな、強引に……」

「こうでもしなければ、ラルスは私のものにはならないだろう? まともに求婚して、お前はそれを受けたか? 身分がなんだ、資格がなんだと面倒なことを考えて断るだろう?」

「そ、それは……」

 それは否定はできない。今だって大勢の前に平民の自分が妃として顔を出すことに申し訳なさを感じている。相手は貴族の中の貴族、王太子殿下だ。そんな御方の妃になるなんて信じられない。

「それに周囲もだ。いまだ妃は身分の高い者から選ぶようにと口うるさい者たちもいる。事前にラルスを選ぶことを知ったら、お前に何かを仕掛けてくるとも限らない。だがこうして発表とともに妃にしてしまえば手出しができなくなる。お前を守るためでもあったのだ。理解してくれ」

 たしかにアルバートの言うとおりかもしれない。平民のラルスひとりを消すことなど容易いことだろう。だが妃という立場になってしまえば、アルバートとともに城で暮らすことができるようになる。

「お前の意思も確認済みだ。ミンシアとフィンから聞いた。ラルスは私を嫌ってはないのだろう?」

「フィンもこのことを知っていたのですかっ?」

「ああ。ラルスに私のことをどう思っているのか、脈はありそうなのか聞いてほしいと頼んでおいた」

 閨事の身代わりになった次の日、フィンはラルスの気持ちを訊ねてきた。あれもアルバートの差し金だったのか。

「閨の練習台の話そのものも、私が考え出したずるい策だ」

「え……?」

「他にラルスとゆっくり会う方法がなかったからな。私はその慣例を利用したのだ。フィンとふたりで画策し、ラルスを私の元に呼び寄せたのだ。フィンには協力してくれたこと、とても感謝している」

「じゃ、じゃあ僕はフィンの身代わりじゃなくて……」

「そうだ。伯爵令息の身代わりということにして、私がラルスを呼んだ。どうしても事前にラルスに会っておきたかったのだ。お前の気持ちを確認しておきたくてな」

「そんな……」

 知らなかった。てっきり自分はただの練習台だとばかり思っていた。

「一生懸命にフィンのふりをするラルスは、なかなか可愛らしかったぞ」

「で、殿下っ!?」

 ラルスはずっとアルバートを騙しているつもりでいた。

 でも本当はアルバートはラルスがフィンに扮していることを知っていたのだ。そんなこととは思わないラルスは、必死になって伯爵令息のふりをしていたのに。

「万が一ラルスに好きな相手がいたら、私はラルスを諦めなければならない。だからあの夜ラルスに会うのは怖かったが、ラルスは最後まで私を受け入れてくれた。幸せな一夜だった」

 アルバートは何度もラルスの意思を確認してきた。あれは、もしラルスの気持ちが他にあったら妃にすることを諦めるためのものだったのだ。

「ラルス。少しでも好きだと思ってくれるのならば、私の求婚を受け入れてほしい。後生大事にする。誰よりも愛することを誓うから、私の妃になってくれまいか?」

 ひたむきなアルバートの碧色の瞳に見惚れて、ラルスは動けない。

 控え室の扉の向こう側からは、人々の賑わいの声が聞こえてくる。祝いの曲が演奏され、今か今かとふたりの登場を待っているようだ。

 まさか、こんなことになるとは想像すらしていなかった。

 今ここでアルバートの求婚を受けたら、即座に婚礼を挙げることになる。あの扉をアルバートと開けたら最後、この国の妃殿下になるのだ。

 そんな重大な覚悟を今、決断しなければならない。

「ラルス」

 アルバートはそっとラルスを抱きしめてきて、なだめるように、背中を何度もさする。

「お前には十分に素質がある。心を読むのが得意ではないか」

「あれは人ではなく馬を相手にしてます……」

「同じだ。お前の観察眼は見事なものだ。そばにいて私を支えてくれないか? 妃としても、よい国に導くための同志としても」

「そんな大それたこと……」

「ラルス。私にはラルスしかいない。私を生涯独り身にするつもりか? 辛い思いはさせない。私が必ず守る。神に誓って守ってみせるから結婚してほしい」

 アルバートの真摯な気持ちがラルスの不安を取り払っていく。アルバートがそばにいてくれるなら、何も怖くない。

 なによりも好きな人の隣で、一番近い場所にいて、アルバートを支え愛することができたなら。

「お、願いします……。殿下のそばにいたいです。おこがましいけど、す、好きです。大好きなのです。僕は殿下を愛したい。殿下と一緒にいて、貴方さまの力になれるように頑張りますから」

「ラルス……」

 アルバートは固くラルスの身体を抱きしめる。その抱擁がラルスの胸のよどみを洗い流していく。

「共に行こう。皆が待ち構えている。私ではなくて、妃の顔をひと目見たいがために、ここに集まっているのだからな」

 アルバートは悪戯っぽく笑った。アルバートの婚礼を祝うために集まってくれた招待客に対してなんたることを言うのだろう。

「はい。殿下」

 ラルスは大きく頷き、アルバートと並んで扉の向こう側へと踏み出していった。




「解せぬ。まったくもって解せぬ」

「まぁまぁ、子どもではないのですから、そんなに機嫌を損ねなくても」

 ラルスはアルバートをなだめる。せっかくふたりきりで馬に乗り、城を抜け出して城下町を見下ろせる丘でのんびりしようとしたのに計画が台無しだ。

「どうしてラルスばかりが好かれるのだ?」

「そんなことはありませんよ」

「ある。シヴァは私の愛馬なのに、私を蹴っ飛ばしてラルスにすり寄ったではないか」

 ここにいるのは、正確にいうとふたりと一頭だ。アルバートの愛馬、黒鹿毛のシヴァはなぜかラルスにばかり懐いてしまうのだ。そのことでアルバートは拗ねてしまった。

「神官もそうだ。あやつは私に直接伝えればいいものを、教会の寄付金の件をわざわざラルスを通してきた」

「あれは、僕のほうが話しやすかったのでしょう。お金の話でしたから」

 先日、神官長がラルスを訪ねてきて教会の修繕のための資金を王室から援助してほしいという旨の話をしてきたのだ。ラルスには権限はないため、そのままそっくりアルバートに伝えたら、アルバートはそれが面白くなかったらしい。

「違う。奴らは私の弱点を見抜いているのだ。ラルスの口から寄付金の話をされたら、私が喜んで寄付することをわかっていてやっているとしか思えん」

「初めから寄付するつもりだったのですから、良いではありませんか」

「ラルスの可愛い顔を見ながら話をされてみろ。気分が良くなって金額が弾んでしまうに決まっている。ラルスにいいところを見せたいという男心を利用した小狡い手段だ」

「まったく……」

 そこまでわかっているのなら、寄付の金額を例年どおりに抑えればいいだけのことだ。

「だが私は嬉しいぞ。ラルスが民に好かれている姿を見ると、私まで誇らしくなる」

 平民から初の妃になったラルスは、同じく平民という立場の大衆からの支持が厚い。妃になった今も厩係として働いているからか、謙虚な妃と称されて皆が支持してくれるのだ。

「全部、アルバートがくれたものです。アルバートの妃になれて僕は幸せです」

 ラルスは最愛の夫の腕に抱きつき、頬を寄せた。アルバートはラルスの肩を抱く。

「ラルスは最高の相手だ。私に足りないものを補ってくれるし、夜の相性もぴったりだからな」

「アルバート! そのような話は……!」

「婚礼前からわかっていたことだな。閨の練習だと言ってラルスを抱いたとき、ここは天国かと思うくらいによかった。気持ちが良すぎてすっかりラルスの虜になってしまった」

「こら!」

 アルバートは婚礼を挙げてから、文字通り毎晩ラルスに誘いをかけてくる。毎夜毎夜飽きないのかと思うが、アルバートは「同じベッドにいるのに手を出さないなどできるはずがない」とラルスを求めてくる。

 ラルスもラルスで、アルバートとの行為は気持ちがいいのでつい受け入れてしまうのだが。

 これが、夜の相性がいいということなのだろうか。

「ラルス。今ここで、私の夢を叶えてはくれないか?」

「夢、ですか?」

「そうだ。一度でいいから空の下でラルスを抱いてみたいと思っていたのだ。抱かせてもらってもよいか?」

「ええっ?」

 確かにここには誰もいない。でも、青空の下でそんな行為をするのはさすがに恥ずかしい。

「あっ……!」

 急にアルバートが覆い被さってきて、芝生の上に押し倒される。

「ラルスっ……!」

 アルバートに愛されすぎるのも問題だと思いながらも、ラルスは目の前にいる愛しい男の背中に腕を伸ばした。



 終。




 


本作をお読みくださりありがとうございました。

微笑ましい気持ちでふたりを見守ってくださったら幸いです。

この作品は冒頭がパンっと急に思いつき、そのまま書き上げた短編です。周りから固めて、オメガを逃げられなくするアルファのやり口(溺愛)はいかがでしたでしょうか。

もし少しでも面白いなと思ってくださったら、ブクマ、評価★★★★★など、応援してくださると嬉しいです。

どうぞよろしくお願いします。


雨宮里玖


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もう、お話を暗記してしまうほどになっているのかもしれないです…(=o=) なので、初見のときは「なんてヒドい慣例」、友達と言いながら、「なんてヒドいフィン様」って思いましたが、今では、お話の冒頭からニ…
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