3. 予期せぬ訪問者
※ 本作には「アレルギー」に関する描写が登場しますが、あくまで異世界ファンタジーとしての演出です。
現実の疾患を軽視・揶揄する意図は一切ありません。
母が寝込んで数日、館にはどこか薄暗い空気が漂っていた。
それでも朝は訪れ、食卓には変わらず銀のカトラリーが並べられる。
「リディアーヌ。おまえの婚約者が決まった」
朝食を口に運ぶ途中で、父がふとそう告げた。
するとルチアナがまるで我が事のように身を乗り出して声を弾ませる。
「まあ!どなたなの? ねえ、お姉さま、どんな方なの?」
リディアーヌは、冷めた紅茶を一口だけ飲み干す。
笑みは浮かべない、瞳の奥には温度のない氷のような光がゆらめいている。
(変わらないわね。何も)
母が不在でも、家の歯車は同じ音で回り続ける。
父が決めた婚約相手は、かつてと同じ。
グレンフィールド子爵家の嫡男、バルドート。
傲慢で口が軽く、貴族の家柄以外に誇れるもののない男。
(よりにもよって、また“あいつ”)
その日の午後、バルドートが屋敷を訪れる手筈になっていた。
すべてが前と同じ。あの地獄の婚約と、ルチアナの狂気じみた笑顔までも。
……ただ一つだけが、違った。
「リディアーヌ」
澄んだ声とともに、館の玄関にひとりの男が現れた。
漆黒のコートに白銀の髪、深海のような青の瞳。
この館には不似合いなほど、美しい男。
「お、おじさま……?」
(来るはずがない。前の時間軸では、一度も――)
彼の名はアシェル・ヴァルミエール。
母の弟であり、リディアーヌにとって叔父だ。
だがアシェルは“前の時間”では、一度も姿すら見せなかった。
(どうして……今回は、来たの?)
もしかして、母が倒れたから?
その出来事が、前回とは違う流れを生んだのか。
熱でも出たように頭の奥がじんと痺れる、すでに狂った盤面に、さらに一手。
予測不能の駒が現れた、そんな感覚だった。
「婚約、するのか?」
困惑するリディアーヌにアシェルは静かに見下ろして問いかけた。
婚約の相手とは、言うまでもなくバルドートとのことだろう。
「……ええ、一応」
「好きなのか?」
問いは短く、真っ直ぐだった。
だがリディアーヌは、ただ微笑むだけだった。
頷かず、否定もせず。
ただ、凍りつくような静けさの中に身を置いて。
アシェルはふと目を細め、懐から一羽の小鳥を取り出した。
金と藍色の羽を持つ伝書鳥。
「必要になったら、これを使え。届くのは私だけだ」
それだけ言い残し、彼は何も言わずに館を後にした。
まるで風のように。幻のように。
「……一体、なんだったの?」
浮かぶ疑問を振り払うように、リディアーヌは顔を上げた。
そう、今日は婚約者と正式に顔を合わせる日だ。
応接間に足を踏み入れた瞬間、耳に入ったのは、聞き慣れた笑い声。
「まあ、バルドート様ってば、お上手なんだから!」
リディアーヌの“顔合わせ”のはずの席には、すでに座っているふたりの姿。
自分の婚約者と、無邪気な妹が、親しげに談笑していた。
バルドートが気づいてこちらに目を向けた。
「ああ、やっと来たのか。おまえがリディアーヌだって? ふーん……まあ、悪くはないな」
(同じだ。すべて、同じ)
だが違うのは、リディアーヌの中にある炎だった。
前とは違う。
もう恐れはない。準備も、計画もある。
視線は静かにバルドートを射抜いた。
「……覚悟なさい」
その声なき誓いが、邸に凍りついた風を吹かせた。
*
応接間には甘い紅茶の香りと、さざめく笑い声が満ちていた。
「本当に面白い方ですわ、バルドート様ってば!」
「はは、そうか?俺はいつも通りにしてるだけなんだけどな」
ルチアナとバルドートは、すっかり意気投合しているようだった。
リディアーヌは静かに紅茶を口に運び、微笑を浮かべたままその様子を眺めていた。
(うるさい。でも……悪くない)
彼らの無防備なやりとりから、バルドートという人物の“素”が滲み出てくる。
軽薄さ、自己愛、虚勢…そして、油断。
リディアーヌは会話には入らず、あえて聞き役に徹していた。
「あッ…ごめんなさい、お姉さま。つい盛り上がっちゃって」
「気にしていないわ。あなたがいると、場が和んで助かるもの」
前回と同じ言葉。
だが込められた意味はまるで違う。
リディアーヌは言葉の裏で、静かに狙いを定めていた。
そのときだった。
ふいに、カーテンの隙間から一匹の蜂が音もなく入り込んできた。
丸みを帯びた小さな身体、ふわふわの産毛――無害なミツバチだ。
だが、バルドートの顔色が変わった。
「っ……ちょ、誰か! 虫が!」
まるで恐怖を押し殺すように手を振り回し、椅子をきしませながら立ち上がる。
(……蜂に、怯えてる?)
「バルドート様、もしかして……蜂が苦手なのですか?」
「バ、バカにするなッ! 俺は虫なんて怖くない!」
顔を真っ赤にしてその否定は、あまりに反射的で、図星を突かれた者のそれだった。
過剰な動揺と振る舞いは、確信に変わる。
(……刺されたことがあるのね、きっと。そして、あの反応は、痛みを知ってる人のものだわ)
リディアーヌの中で、前世の記憶が微かに脈打った。
“男の知識”には蜂毒とアレルギーの関係について学んだことがある。
既往歴のある者は、次に刺されれば。
その知識が、静かに彼女の中で輪郭を帯びていく。
リディアーヌは二人に悟られぬよう、口元にごく薄い笑みを浮かべた。
(ありがとう、バルドート。あなたの弱点、ひとつ拾ったわ)
心の中だけで、そっと毒を含ませる。
優雅な沈黙の下で、復讐の計画はまた一つ、輪を広げていった。
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