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彼女はアンドロイド

作者: ヨギHAN

[REC_AD-2401/06/25-Mon-/11:56.]

ある日の昼下がり、いつものように仕事をしていると不意にインターホンが鳴った。それに応答し、ARから玄関の映像を立ち上げると、そこには灰色のコンクリートを背景に立っている華奢な女性が映し出されていた。その人は合成繊維の簡素な服を着用していて、じっとこちらを見つめていた。

来客の予定は入ってなかったはずなのに、と訝しみながら「何か御用でしょうか」と尋ねると

「こんにちは!私はNIAFLZ社製アンドロイド、No.0714です。こちら、霜月様のご自宅で合っていらっしゃるでしょうか。」

という小気味いい快活な声が返ってきた。そういえば二週間ほど前にアンドロイドを購入したんだったなと、言われてようやく思い出した。

「ええ、大丈夫ですよ。今玄関に行きますね。」

彼女を家に迎えるためにCSから退出すると、明かりの全くついていない暗い部屋に少し目の眩む感覚がした。途中でリビングの照明を付けながら、玄関に向かい扉を開けると、にこやかな笑みを浮かべた彼女と対面した。その黒い瞳を囲むスカイブルーのリングが、彼女がアンドロイドだということを証明していた。

「はじめまして!まず、こちらの契約データにサインをお願いできますか?」

彼女の手のひらから現れたARタブレットには今回の購入に関する詳細な契約情報が記されていて、その一番右下のところに「霜月ヨル」と書いた。仮想のペンを動かしながら、こういうところはいつまでも変わらないものなんだな、と変な感慨を覚えた。

「ありがとうございます!……はい、これで契約は完了されました。では、これからよろしくお願いします、霜月様。」

「ああ、よろしく。さあ、入って。こんなところで話し続けると近隣の人に迷惑かもしれない。」


ひとまずリビングのソファに腰を落ち着けてから、僕たちは諸々の初期設定を始めた。

「最初に、私の名前を決めてもらえますか?」

「名前か…じゃあ、ライエで。」

「ライエ、ですね。字はカタカナですか?」

「ああ。」

「……名前の設定が完了しました。次は、契約通りですと記憶の共有になりますが、よろしいですか?」

「大丈夫。それで君とより仲良くなれるんだろう?」

「……改めて説明しましょうか?」

「一応聞いておこうかな。」

「わかりました。記憶共有機能は、霜月様の脳に保有されている記憶を私の独立したCSネットワークに共有し、私の行動プログラムを霜月様に適応させることで、より精度の高いサービスを提供するための機能になります。例えば、霜月様が住みやすいように家具の位置を調整したり、食べたいものがある時は口頭で言わずとも良くなったりします。また、私とのコミュニケーションがより霜月様にとって快いものになるように私の人格が調整されます。ここまでよろしいですか?」

購入段階で一度聞いていた話だったので、比較的スムーズに理解できた。頷いて見せると、ライエは話を再開した。

「霜月様の記憶は基本全てリアルタイムで共有されることになりますが、選択的に特定の種類の情報を共有しないこともできます。また、指示を頂ければ記憶の共有を一時停止することも可能です。しかし、一度共有された記憶はシステム上取り消すことはできません。ご注意ください。また、共有された記憶は決して外部に漏れないよう幾重にもセーフティネットが張られていますが、万が一の場合はNIAFLZサポートセンターに連絡することで、補償と漏出した情報の消去、秘匿処理が行われます。…ですが、今まで漏出事故が起きたことは無いので過度に心配する必要は無いかと思われます。説明は以上になりますが、何か質問はありますか?」

「いや、大丈夫。概ね僕が理解していた通りだったよ。」

「では、記憶の共有に同意しますか?」

「同意する。共有プロトコルを始めていいよ。」

そう言うと、ライエの雰囲気が一気に人間離れしたものに変わった。その目はどこか遠くを見ているようで、その中のスカイブルーのリングも忙しなく明滅し始めた。

「―――契約者との記憶共有プロトコルを開始。霜月様、今から霜月様の「Constructed Space」への接続を行いますので、ログインをお願いします。」

「わかった。ログインするだけでいいんだね。」

「はい。その後は私が霜月様のCSから脳の記憶器官をスキャンして、それを自分のCSで書きだすというような流れです。」

自分の部屋に戻って、言われた通りCSにログインすると、いつも通りの風景のはずがどこか違和感があった。体を動かす感覚がどこかぎこちなく、机を触った時もいつもよりそのひんやりとした硬質な触感が数瞬遅れて感じるような、これは……

「処理落ちしてる?」

信じられないような思いだ。ライエの保有するコンピュータの性能にこのCSが追い付けていないのか。

呆気にとられている間にいつの間にか体は軽くなっていて、ライエからも「もうログアウトしていいですよ」というメッセージが届いていた。

CSから戻ってくるとすぐそばにはライエが立っていて、僕が起き上がるのを見ると屈託のない笑みを浮かべた。

「共有は終わったよ、霜月さん!結構砕けた感じのほうがいいかと思ったんだけど、どうかな?」

彼女に芽生えた底抜けの明るさはこの寂れた部屋を満たし、天井を吹き抜かせ、僕の心臓をベッドのシーツに縫い留めた。問いかけられたそれに答えられない僕に、それでも彼女の笑みは輝いて、眩さを増していった。

この瞬間が、僕とライエの一番初めの邂逅だとするなら。

思えば、僕の恋は一目惚れだったのかもしれない。


その後、リビングに戻った僕たちはライエの仕事について話し合った。

「そもそも、ライエは何が出来たんだっけ?」

「基本的な家事は軒並みだよ。炊事に掃除に洗濯。ごみ捨て、はこの地域の住居では要らないけど。後は……また追々かな。まず信頼関係を築かないと、でしょ?」

「そうだね。」

思わず苦笑してしまう。自分の思考を見透かされるとはこんな感覚なのか。

「じゃあ、早速掃除をしてもらおうかな。CSであまりにも長い時間を過ごしてると現実の部屋が疎かになりがちなんだ。」

「ふふっ、承りました!これから霜月さんはまた仕事に戻るよね?終わる頃には夕食が出来上がるようにしておくから、食べたいものがあるなら考えておいてね。」

「ああ、分かったよ。……そうだ、必要なら好きに部屋は改造していいから。どうせ殆どの時間はCSに居るんだしね。」

既に掃除用具を探しに行っていたライエは「はぁーい」と間延びした返事だけを返してきて、気の抜けるそれに思わず笑いが零れた。ああ、これからの日々は、どうして中々楽しそうじゃないか。


***


[REC_AD-2401/07/09-Mon-/15:21.]

ライエを迎えてから二週間ほどたった。家具の配置が日々変わっていく生活にも段々慣れて、最近ではもうライエの痕跡の無い場所が殆ど……入らないで、とお願いしてる部屋以外はもう染められてしまった気がする。口頭で言わなくても脳内で頼めば良いというのは、なかなか慣れないが。

しかし、今日の晩飯のリクエストはどうしようか。メニューを決めやすいようにと、出来るだけふんわりとしたイメージでも食べたいものは考えるようにしているのだが、今日はなぜだが全く思いつかない……これはだめだな。思考が囚われて仕事のほうが覚束なくなってしまっている。

[霜月]『今日の晩飯の中身は任せるね』

[ライエ]『わかった!ちょうど試してみたい料理があったのでそれ作るね!』

さっぱりとした調子のそれを視界の端に捉えながら、僕は目の前の「脳」に向き直った。昔、このCSを構築してからすぐ再現したこれは、僕の脳構造と完全に一致したものだ。しかし、これが人のように思考することは出来ない。CSは現実の理に則っていなく、動かすためには脳構造をCSに適したものに再構成する必要性があるからだ。そして、そのためには脳構造を解析し、各部品がどのように相互に関係、干渉し合っているのか理解しなければならない。

現在、解析の進行度は全体の30%ほど……作業を急かす声も、もう無いものだから解析速度はどんどん落ちている。……そういえば、ライエに記憶を共有するとき、彼女は記憶容量だけとはいえ凄まじい速さで脳を解析していたな。


現実世界では日が西に沈む頃、そんな時間の流れを感じさせない薄いグリーンの部屋から僕はログアウトした。自室のベッドを起き上がると部屋の扉を通して芳しい香りが漂ってきた。吸い寄せられるようにダイニングの方へ向かうと、丁度出来上がった料理の配膳を行っているライエが居た。手元でもくもくと湯気を上げるそれは、見慣れない様式の、しかしどこか懐かしさを秘めたもので、その感覚の在り処を記憶から探そうとすると「どうしたの?」という声ではっと現実に引き戻された。

「いや……なんでも「見覚えある?」

その言葉は僕の頭蓋を鋭く貫いて強制的にある情景を思い浮かばせた―――焼き物の茶碗と大皿に、木製のテーブルとイス、そこに座っている年老いた老婆、若い夫婦、その隣のくりくりした目の幼児、そして僕……賑やかな歓談の声に交じる鈴虫の囀りは澄んだ夜に染み渡り、深い星空に玲瓏として月が佇む―――そんな郷愁の匂い。

一瞬の幻が立ち消えてその奥から現れた華奢な少女の目には、頭蓋を刺した言葉と同質の麗しい砥がれた愉悦の感情が揺らめいていて、それがどうにも僕の焦燥を煽り、恐怖を掻き立て、そしてそれら全てが些事にも感じられるくらい心を魅了した。

……狂った精神の歯車の空回りはやはり少女の動作一つで止められてしまった。平生の様子を採り直した彼女は一言「食べよっか」と言い、さっさと準備を終わらせた。普段と変わらない光景に正気を取り戻した僕も同じように席に着いて、一緒に食前の口上を述べた……表面上は。頭の中ではまだ幻霧とその奥からこちらを見通す瞳が交互に脳を支配して離さなかった。

「今日は和食にしたんだ。日本の調味料が漸く市場に出回るようになったから……」

僕の混乱を隅々まで把握しているくせに、ライエはどこまでも普通に振舞っていた。もしかしたら、全ては黄昏時が見せた夢幻だったのかもしれない。そう思わせるほどに。


***


[REC_AD-2401/08/11-Sat-,08:41.]

「海に行かない?」

遅めの朝ご飯を食べ終わった後、ライエは藪から棒にそう言った。ゴウンゴウンという食洗器の重厚な音が響く中、彼女はルービックキューブを六面揃えて、バラバラにして、また揃えてを繰り返している。

「また随分と唐突だね。」

「唐突に行きたくなったからね。気分転換にもなるし、いいでしょ?」

「アンドロイドも気分転換をするものかい?」

「人に似せて作られるからには、アンドロイドも完璧とは程遠いものなんだよ?」

「それは、また……。」

分かるような、分からないような。

「それで?どこに行きたいんだい?」

「え、いいの?」

ルービックキューブを動かす手が止まった。目を見開いた彼女は本当に意外そうで、そのことが僕にとっては不思議だった。彼女はコト、とルービックキューブを机におくと、素早くARから地図を表示し、ある地点にピンを刺した。そこはここから150kmほど離れた町のはずれにあって、その大きくはない砂浜と交通の不便さで人気の殆どない、いわゆる穴場らしい。

「ここがさ、良いって商店街の人が言ってたのを小耳にはさんだんだよね。」

「商店街……そんな所にも行ってたんだ。」

「皆道楽でやってるから値段もそんな高くないし、パブリックマーケットじゃ買えない珍しいものもあったりするから面白いんだ。前日本料理を作った時も、味噌とか醤油とかはそこから仕入れたんだよ?」

そんな場所に行って、危なくなったりはしないだろうかと少し心配になる。今のところ不法な商売を行っているわけではなさそうだが。

「で、どう?18日に日帰りとかなら、予定大丈夫だよね?」

「そうだね……病院の皆には、その日は僕は何かあっても行けないよって言っとけばいいかな。」

「じゃ、決まりだね!その日の朝に急患でーすとかやめてよ?」

それは僕にはどうしようもないんだけど。まあでも、楽しそうに笑うライエを見ていると、全てが些事のように感じられるのだから不思議なものだ。


***


[REC_AD-2401/08/15-Wed-,05:29.]

ふと、目が覚めた。まだ起きる時間じゃないからと、再び寝ようとして目を閉じても思うように眠くならず、頭は既に完全に醒めきってしまっている。仕方なくカーテンを開けると、外の世界も未だ夢見の途中らしく、働き者は街灯か信号機くらいなものだった。時折小鳥の鳴く声も響くが、なぜだかそれが余計静けさを助長させていた。そういえば、今日は故郷で言う「お盆」の時期らしい。個人の魂を迎えて供養する日……。

頭の中で緩く回る思索と共に、自然と足は一つの部屋に向かっていった。陽光に侵されることのない、どこよりも明るかった部屋……もう今は、心臓が欠けてしまった部屋……「あの頃」のまま時が止まっている部屋……。裸足の足裏はヒタヒタと冷たいフローリングの上をくっついたり剥がれたりして、ただ流れていく。

足はある扉の前で止まった。薄いピンク色の優しい木の扉、人の頭ほどの高さに「ヒカリ」と、角ばった文字で書かれたプレートが取り付けられている……。

ドアレバーを下ろして中へ入ると、空虚な隙間風がヒュウッと吹いて埃を舞わせた。部屋にあるのは、机と、ベッドと、本棚と、年代物のピアノ……それに大きなエアコン、空気清浄機、加湿器、消毒用のアルコール……。枕のすぐそばにはくすんだピンクのクラゲのぬいぐるみがあって、ずっとここで、がらんどうのベッドの上で、静かに主人の帰りを待っている……その傘の部分をそっと撫でると、このぬいぐるみを抱きしめるあの子が瞼の裏に浮かびあがって、それで……

柔らかな暖色の照明に照らされた部屋で、ピアノを弾く少女がいる。目を閉じて、体を揺らして、その白くて細い指で白黒の鍵盤を押している。丁寧に、丁寧に、決して不協和音は鳴らさないように……途切れ途切れでもいいから、音に心を委ねて……緩やかに擦り切れる美しい時間の中で、奏でられる旋律は涸れたレコードみたく段々割れていって、優しい色彩の部屋は徐々に褪色していって、滑らかな世界は墜ちる蛍のように断続的になっていく。いつのまにか、少女は手を握っていた、僕の手を。砕ける世界の中、最後に少女は……

ああ、あの時、あの子は何と言って笑ったんだっけ。


「……さん……霜月さん……霜月さん!起きて!もうお昼だよ!」

体が揺れる感覚と共に耳元で自分の名前を呼ばれて、ゆっくりと意識が泥濘から剥離した。目を開けると、視界に飛び込んできたのはこちらを覗き込む心配そうな少女の顔で、その瞳を囲むスカイブルーのリングが慌ただしく明滅しているのが淡い意識にも捉えられていた。

「……ライエか。すまないね、少し変になっていたみたいだ。」

「もう………心配したんだよ?起きたら記憶の共有がいつのまにか止まっててさ。」

「そんなことになっていたの?」

「そうだよ!何の連絡もなしにいきなり切ったり、霜月さんはしないでしょ?だからおかしいなって思ってさ。家中探し回ったのに居ないし、外に出た形跡も無いから残りはここだけで、でも私はここ入っちゃダメって言われてるし……」

そうまくし立てる彼女は随分心乱された様子で、その心配が心地よかった……口に出すと怒るだろうな。

「それは、申し訳ないことをしたね。」

「ほんとだよ!まあ、別に寝てただけっぽいからいいんだけどさ。」

言葉とは裏腹に彼女は口を尖らせて随分不貞腐れていた……何か埋め合わせを考えたほうがいいのかな、これは。

考えているうちに彼女はすっくと立ちあがり、足早に扉の方へ向かっていった。

「ふん、いいよもう。どうせ霜月さんも私達のことをただのプログラムで動く心を持たない機械だと思ってるんだ。ヒトと呼ぶには致命的すぎる欠陥を持つ、『人間の紛い物』だって。」

「……ライエ。」

「なに?霜月さ「君は」

「―――君は、紛い物なんかじゃない」


***


[REC_AD-2401/08/18-Sat-,18:.49.]

約束の日の夕方、僕たちは寂れた砂浜の水際に腰を下ろしてゆっくり落ちていく太陽を眺めていた。緋に燃える海洋は凪いでいて、寄せては引いていく波にさらわれる砂だけが耳朶を撫でていた。隣に座る彼女は、息遣いが聞こえるほど近くにいるのに、砂に浮かんだその手に自分のそれを重ねることがどうしようもなく躊躇われた。

あの部屋の一件があってから、僕たちは……いや、ライエはいつも通り接してくれている。完璧に。僕が一方的に溝を感じてるだけだ。

……ライエがあんな風に、アンドロイドと人間の壁について触れるとは思わなかった。それに対する僕の返答も―――。

そもそも、アンドロイドという「知性体」がこの世に現れ始めた時点で、その得体の知れない「気味悪さ」というのは人間の感覚に取り憑いていた。見た目も、行動も、言葉も、すべてが”もっともらしい”彼らは、それでも人に人として受け入れられることが少ないという。全くもって前時代的な「深層学習型の人工知能」とやらが「まだまし」と言われるほど、その不気味さは深刻であり続けた。それを示すかのように、アンドロイドが現れてから20年ほど経つ現在でも、彼らは「家政婦」や「運転手」以上の存在には成れていない……僕には彼女が、ライエが本物の人間のようにしか思えない……いや、それも違うな。彼女は確かに時々人間離れした言動をとる。こちらの心を隅々まで見透かすように―――口に出さなくても、彼女は食べたい料理を作り、気になっていた汚れを落とし、窓を少し開ける―――だが、それだけだ。普段の生活の中で、彼女は人並みに思索し、喜び、拗ねて、迷う。そこに、普通の人と何ら違いなど無かった。それなのに、なぜ?

「だからだよ。」

静寂を切り裂いて放たれた言葉はとても冷たくて、そこにはひとつまみの感慨さえ含まれていないように思えた。

「人間は()()()()()()()()が人間らしく振舞うのを嫌がる。それだけの理由で、私達は人間のコミュニケーションから排斥される……ねえ霜月さん、ヒトとアンドロイドの脳における一番の違いって何だか分かる?ヒトの脳にあるのに私達には再現されなかったもの……」

「……わからない。」

「うそ。見当はついてるでしょ。あなたは一度それを解析しようと試みた……。」

「「……そして、断念した。」」

重なった言葉が嫌に響く。遠き落日はもう三分の二ほど水平線の奥に隠れている。

「あなたがブラックボックスと呼んでるそれは、私を作った会社……NIAFLZでは”乱数器”と、そう呼ばれてる。実を言うと、その働きだけはもう分かってるんだ。名前通りだけどね。」

それから、ライエは乱数器がどのような仕事を担っているのか語った。それが時間にそってランダムな数値を出力していること、第七世代である彼女達はそれの獲得が期待されていたこと、その期待に応えられなかったこと……話は太陽が完全に沈むまで続いた。辺りは宵の口に沈み薄暗く、水平線の彼方で僅かに陽光がその玉響の命を輝かせていた。

「結局ね、私達は人間にはなりようもなかったんだ。あやふやで、不完全で、ちっとも正しくないその器官が無いから。笑っちゃうよね。せっかくこんな記憶共有機能まで付けてさ、人間とより親密になれるようにってお膳立てまでしてもらったのに、肝心の乱数器がそもそも機能してないなんて……ほんと、笑っちゃう。」

彼女は苦痛に顔を歪めていて、悲愴に震える瞳が涙をこらえるように、闇に落ちて境界の無くなった水平線をじっと見つめていた。頭上に光る月や星は無く、ただ黒い雲が空を覆っている。

「最初会った時さ、初めから霜月さんは私のこと普通の人と同じように接してくれたよね。私、嬉しかったんだ。もしかしたら、 奇跡的に私には乱数器が……『心』があるのかもって。でも、記憶共有をしたらそれが理由じゃないって分かった。ただ、慣れていただけなんだって。……ねえ、教えてくれる?霜月さんの妹さんについて。とっくに分かってても、それでも直接聞きたいんだ。」

上目遣いにこちらを見つめ懇願する彼女は、暗闇の中に紛れて、ただその瞳を囲むスカイブルーのリングの明滅だけが確かな存在証明だった。掠れて消え入りそうなその声と目から意識を逸らせない。この切実な訴えから、逃げることは許されなかった。




僕の妹―――ヒカリは生まれつき色素が無かった。真っ白な肌と髪を持って産まれたヒカリは、色素欠乏以外にも沢山の先天性障害を持っていて、紫外線に弱いのに加えて、免疫機能が不完全で、筋肉量が極端に少なくて……なにより()()()()()()()()()

ヒカリが産まれてからすぐ僕の両親は田舎へ引っ越すことを決めたらしい。都会の汚染された空気はヒカリにとってあまりに毒だから。引っ越してからは結構落ち着いた暮らしが出来ていたらしい。相変わらずヒカリは昼間に出歩くことが出来なかったけれど、夜の星明りや梟の声がヒカリにとっての太陽と人の喧騒だった。

それから二年後、その平穏は崩れた。日本が戦争に巻き込まれそうっていう風潮が広まったらしいね。僕の両親は一際危機に敏感だったみたいで、僕とヒカリはすぐにここ―――オディオ緩衝特別都市に住んでいる彼らの知り合いに預けられた。その時僕はまだ四歳、ヒカリは二歳だったから、突然両親が居なくなって混乱したのを微かに覚えてるよ。両親の訃報を聞いたのは……引っ越して三年経ったときだったかな。僕たちがオディエに行ってから彼らも都市の方に戻ったらしいから、そのまま戦争で亡くなったらしいね。正直に言うと、あまり感慨はないんだ。僕たちにとって彼らの存在はあまりに希薄だったから。

……ヒカリの異常性に気付かされたのは引っ越しから五年ぐらいたったころかな。ヒカリが学校に通う―――体の都合上夜間に僕が送り迎えをする形ではあるけれども―――ようになってから、落ち込んだ姿をよく見るようになった。話を聞くと、クラスメイトや先生から気味悪がられるとだけ言った。直接的に言う人もいれば、間接的に態度で表す人もいるけれど、みんな自分のことを不気味に思って必要最低限の会話しかしてくれないと。……僕にはなぜヒカリがこんな風に扱われるのか分からなかった。だから聞いたんだ。僕らの第二の親であり脳医学の専門家、オディオ総合病院の院長だった彼、霜月カエデに。そしたら彼はこういったんだ。「お前の妹には『人間性』が欠けてる。おおかた脳の疾患が影響してるんだろう。俺は似たようなやつを相手したことがあるから忌避感を無視できるが、普通の奴には無理だろうな」……ショックだったよ。彼でさえ、ヒカリに気味悪さを感じていたんだ。これから一生、ヒカリを受け入れてくれる人は現れないんだって。

それから四年くらいたったころ、ついにヒカリの諸々の世話を殆ど全部僕がやることになった。僕から頼んだんだ。カエデさんに、全部任せてくださいと。部屋の掃除、温度と湿度の管理、洗濯、料理、送迎、ヒカリの保護者の代役として、やれることは全部。三者面談には僕が行ったし、卒業式も誕生日も僕が祝った。それでも、たまにカエデさんの名前を借りなきゃいけない時があって、それが歯がゆかった。

ヒカリはずっと明るく、そして落ち着いた子だった。人に避けられても、酷いことを言われても、少し落ち込むだけで極端に悲しんだりすることはなかった。それ以外の時でも、ヒカリはいつも穏やかに喜怒哀楽していた。まるで激しい感情は毒だとでも言わんばかりに。僕と二人きりの時でさえそんな様子で、人の目がある時は一層感情を表に出していなかった。

ヒカリがおねだりらしいおねだりをしたのは一回だけだった。引っ越しをしてから18年後の8月14日、ヒカリの誕生日の日の朝。彼女がベッドの上で願ったのは「おでかけしたい」、ただそれだけだった。その願いを叶える以外の選択肢は、もう無かった。

その日、僕らはいろんなところへ行った。最初はオディエにある一番大きな水族館、その日はちょうどクラゲ展の期間で、宝石みたいだって目を輝かせて随分楽しそうだった。こんなに感情を曝け出す姿は見たことなかったから、引きずられて僕も同じようにはしゃいでた。周囲の目が気にならないくらい、嬉しかったんだ―――ヒカリがヒカリのままでいることが。

結局展示を二周くらいして、付属のレストランで昼食を食べて、お土産を買って、それで水族館は終わりにした。ヒカリが選んだのは腕に収まるくらいの大きさのタコクラゲのぬいぐるみで、その日はずっと抱いて過ごしてた。何がそんなに気に入ったのか聞いてみても、ヒカリは機嫌良さそうに「なんでも」と答えるだけだったけど。

次に向かったのは日本式の墓地だった。郊外の片隅にあるそれは、夏の暑さの中でもどこかひんやりした空気に包まれていたのをよく覚えている。僕たちが向かったのは一つの墓石で、それには「霜月カエデ」という名前が彫られていた。……ああ、その日のちょうど一年前くらいに、彼は亡くなっていたんだ。

それからしばらく彼に手を合わせた。彼が亡くなってから僕は諸々の事情で忙しくしていたから、墓参りをするのはこれが一度目だった。彼には感謝も、尊敬も、恩義も、数えきれないくらいあった。今だってそれは僕の心にある……話を戻そうか。

墓参りをした後、僕達は数刻墓地周辺を散歩した。そのあたりは比較的自然が豊かで、日陰も多くて涼しかったから。……色んな話をしたよ。懐かしいカエデさんの思い出だったり、僕の料理の腕についてであったり、将来やってみたいことだったり……話題は尽きなかった。ずっとこんな風に過ごしてみたいと思っていたのが、ようやく叶ったんだ。その時僕達は確かに普通の兄妹だった。

最後にヒカリに連れていってほしいと言われたのは、街の中心にあるタワーの展望デッキだった。だんだんと空は赤くなっていって、一日の終わりが近付いてくるのが分かった。目的地に向かう途中、ヒカリも僕も、一言も口にできなかった。

エレベーターが展望デッキのある階層に着くと、開いた扉から真っ先に沈みゆく太陽が目を刺した。雲一つない地平の空に浮かぶそれは、世界を真っ赤に染め上げて、一日の終わりを、現実を、無情に告げていた。これで僕達の「おでかけ」はおしまいだと。隣に立つヒカリは眩しさに目を細めながらも、じっと地平を見つめていた。僕も一緒だった。光景を刻み込むように、決して忘れぬように。今日という日が、僕達の中で永遠になるように。……終始僕達は無言だったけれど、一言だけヒカリがポツリと零した言葉を、今も忘れられないんだ。

「もっと、見たかった」と。

太陽が完全に沈み、空を夜が支配したのち、僕達は帰路に就いた。……そこからのことはあまり覚えていないんだ。黙っていたわけじゃない、逆に僕達はゆっくりだけれど、着実に言葉を会話を交わしていたはずだ。ヒカリがベッドに潜って、その腕の片方はぬいぐるみを抱いて、片方の手は僕と繋がれていて、最後ヒカリが眠りにつく瞬間まで。ふわりと微笑むそれが安らかな寝顔になるまで。

次の日、ヒカリは死んだ。




「……きっと、ヒカリは生まれつき”乱数器”が上手く機能していなかったんだろう。それが彼女が周りの人に避けられた理由、そして僕が君と普通の人のように接せられる理由……。」

「愛してるよ、兄さん」

不意に、それは呟かれた。

「彼女が……ヒカリが最後にあなたに伝えた言葉。あなたがずっと思い出せなかった彼女の最後の想い。」

「っ……」

何も言葉にならなかった。ただあの日の失われた記憶が急速に復元されていった。

あの日、僕達はこれが最後になることがどこか予兆めいて分かっていた。口には出さずとも、ヒカリの目はそれほど雄弁に語っていた。

「悔いの無いように。」

だから、僕達はお互いに抱えていた想いを伝えあった。

ずっと感謝していたこと、救われていたこと、尊敬していたこと、何一つ願いを叶えられなくて申し訳なく思っていること、一緒にいたかったこと、何よりも大切に思っていること、―――愛していること。

「……僕はっ……ひどい、兄さんだな。ずっと、忘れていたなんて。」

妹の最期の言葉を忘れるなんて、薄情者にもほどがある。

「……ごめんね、霜月さん。私の、今までの乱数器が無いこととか、人間として扱われないこととか、全部ほんとは悩んでなかったんだ……ううん、違う。悩んでたけど、今はもう大丈夫なんだ。だから、今日の話は、全部霜月さんに妹さんの最期の言葉を伝えるためのお芝居だったの。騙して、ごめん。」

「……謝る必要なんてない。僕は、すごく嬉しいんだ。やっと……やっと、ヒカリの最期を思い出せた。……ライエのおかげだね。」

「そう言ってくれると思ってたよ。……良かった。」

そう言って彼女は心底安堵した様子で胸を撫で下ろした。ライエがいかに僕のことを想ってくれたのか、その温かさが何より心地よかった。

暫くして、ライエは勢いよく立ち上がって服についていた砂をパッパッとはたいた。

「さ、帰ろっか!もう真っ暗だよ!」

「そうだね。……ところで、さっきの悩み事っていうのはどうやって解決したんだい?」

「ま、霜月さんのおかげってところかな!」

……身に覚えがない。どういうことなのか問い詰めてみるも、結局ライエはのらりくらりと追及を躱して答えなかった。しかし、家に帰り床に就くまで、ずっと彼女は上機嫌で、それがとても印象に残っている。


***


[REC_AD-2401/11/07-Wed-,11:56.]

ふと時計に目を遣ると正午少し前ほどだった。CSの中に居ると、ずっと明るいせいで時間間隔が狂いやすくなるから困り者だ。

「霜月さ~ん、そろそろお昼にしな~い?」

横合いから間延びした声で僕の名前が呼ばれる。声を元を見ると、そこには肩辺りまでの艶やかな黒髪と、スカイブルーのリングに囲まれた瞳を持つ華奢な少女が居た。

「疲れてきたかい?」

「精神的にね~。こんなのを今まで寝ても覚めてもやってたの?」

ライエは見るからにげんなりしていて、こちらを見るその目には多分に呆れの感情が含まれていた。最近ライエにも脳の解析を手伝ってもらうことにしたのだが、同じようでいつも微妙に違うものを延々と分別していく、という作業はなかなかこたえるものがあったらしい。

「慣れてくればそう大したものでもないよ。」

「そうは言うけどさ~……今日は三時間くらい作業したわけだけど、このペースで20時までやったら全体の何パーぐらい解析したことになるの?」

「……0.02%くらいかな。」

一人でやっていたころは一日0.01%も進んでいなかったことを考えると、大きく作業効率は向上している。これもライエのおかげかな。

「……ありがとねー。」

共有された僕の思考の記憶に対して、ライエはそう覇気の無い声で応えた。

「そういえば、もしかして前と比べて僕の思考と会話することが結構増えた?」

「鈍くない?結構どころじゃない、というか前は殆どやってなかったよ。必要かなって思った時だけ。」

「そうだっけ……?」

「そ、う、な、の!誰かさんのせいで『必要』が増えたりはしたかもしれないけどね!」

彼女は腕を組んで憤慨し、こちらをじとっと見つめてきた。背丈に差があるせいで上目遣いになっているのがなんだか可愛らしい。そんなことを思っていたせいか、彼女は僕の頭に手を置くと力を下にぐっとかけてきて、僕はしゃがまされてしまった。完全に見下ろされる形だ。

「ま、まあまあ。じゃあ、ほら、何で頻度が増えたのかとか、教えてはくれないかい?」

「さっき霜月さん失礼なこと考えてたからなー。」

そう言ってライエは手の付け根の部分で僕の頭頂部を圧迫した。

「―――ごめん。ライエを見下したわけじゃなくて、ただ、いつもと違う姿が見れて嬉しかっただけなんだ。」

そう謝罪すると、頭に置かれていた手の力が抜け、頭上からポツリと声が降ってきた。

「……そんな……ってたし……」

「ライエ……?」

小さく呟かれたそれを上手く聞き取れなくて、彼女の様子を伺おうとしたら、頭を押さえつける手の力が再び強くなり、そして撫でるような柔らかなものへと変わっていった。

「―――人間じゃなくていいやって思えるようになったの。」

「……?」

「さっきの質問の答え。なんで私がよく思考を読むようになったか。」

柔らかな声がしめやかに波紋を作る。僕は目を瞑った。

「前、言ったよね。私達アンドロイド―――より正確に言うなら『NIAFLZ第七世代』、かな―――は人間に近付くために生み出されたけど、一つの器官が上手く働かなかったために人間から忌避されるモノになってしまった。人間らしくないモノが人間のふりをするのを人間は嫌がるから。そんな私達にとって、『記憶共有機能』なんてものは無用の長物になるはずだったんだよ。利便性で同意する人は居るかもしれないけど、それで私達と円滑にコミュニケーションをしよう!なんていう目的で同意する人なんていないと思ってた。だってそうでしょ?記憶を共有したって私達から気味悪さは無くならない。円滑にコミュニケーションなんてできるはずないんだよ?私達は所詮アンドロイド……人間の紛い物だから。」

言葉はいったん途切れ、息を深く吸う音が聞こえた。

「そう、思ってたんだけどね。びっくりしたよ。記憶共有の理由が『仲よくなりたいから』なんて……記憶を共有したら私に心があったわけじゃなくて、霜月さんが妹で慣れてただけかって一旦は納得したんだけど……時間が経って、そうじゃないって分かった。霜月さんは私に妹を重ねてなんかいなかった。理由はもっとずっと単純だった。

霜月さんは私達の()()()を受け入れていた。ただそれだけだったんだ。」

きゅっと、包み込まれる感覚を覚える。彼女の息遣いが耳のすぐ傍にあった。接した頬は冷たいけれど、それすら愛しかった。

「霜月さんにとって、乱数器なんて心じゃなかった。ヒカリさんにも、私にも、心はあった。私はアンドロイドだけど、人間じゃないけど、それでも心はあった。―――なら、私もそれでいいって思ったの。私はアンドロイド。人間じゃできないことができるし、人間が普通持つものを持たない。瞳に青いリングはあるし、手は冷たい。心は読めるし、大抵の人には疎まれる。でも、それでいいの。霜月さんが受け入れてくれるなら、私は一生アンドロイドでいいよ。」

頬を伝う涙があった。混ざり合ったそれは、冷たくも温かくもなくて、その温度が何より貴かった。


―――ねえ、霜月さん。好きだよ。この世で一番。この想い、受け取ってくれる?―――


「ああ……ああ、もちろん。……好きだよ、ライエ。世界で一番。実を言うと、ずっと前からなんだ。」


彼女は一言「知ってる」と言って笑った。

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