第389話 一縷の望み
16時。
ナポレオン本軍は、サン・ジュリアーノの街にて、数千に及ぶ負傷兵の治療に追われていた。
ヴィクトールや、ランヌの副官レシアが死守していた戦線は大きく後退し、戦場に残る味方兵力は、もはやわずか6,000。
打開を図るべく、ナポレオンは精鋭の古参兵800名を、ランヌ軍が戦う北側戦線へ送り込んでいた。
一方、マルモンは予備兵5,000と砲20門のすべてを投入し、絶え間ない砲撃でクラシック軍の前進を辛うじて遅滞させている。
それでも、敵の勢いは止まらない。
ナポレオンの首級を狙う15,000のクラシック兵が、サン・ジュリアーノの街まで、わずか3kmの地点にまで迫っていた。
――敗北は、誰の目にも明らかであった。
〈ヴィクトール軍、砲撃を受け崩壊寸前です!〉
〈中央のマルモンは援護できないか?!〉
〈……無理です! 敵右翼も、マルモン軍に攻撃を仕掛けています!〉
〈北側ランヌ軍、正面および左側面からの攻勢で壊滅の危機! ランヌ将軍はいまだ行方不明! 至急、援軍を乞うとのこと!〉
参謀たちは必死に指示を飛ばすが、司令部から回せる予備兵力は、もはや一人として残っていなかった。
(……もう、ダメだ……)
絶望の色が、司令部の空気を静かに、しかし確実に満たしていく。
ナポレオンは、伝令からの報告と、隆起した丘の上から単眼鏡で確認できる前線の状況とを突き合わせながら、冷静に戦場を把握し、命令を下す。
〈レシアをさらに後退させろ! ヴィクトールは一度下がって再編成! 空いた穴はマルモンに埋めさせろ!〉
〈〈〈ビアン・ルスュ!〉〉〉
皇帝の言葉に、伝令たちは一斉に敬礼し、命令を胸に刻むと、次々と前線へと駆け戻っていった。
〈……皇帝陛下。味方は包囲を防いではおりますが、反攻の手段なく、ただ兵を磨耗させている状況です……〉
淡々と報告するベルティエ。
しかしその声には、疲弊した心が、わずかににじんでいた。
単眼鏡を下ろしたナポレオンは、しばらく黙したまま戦場を見据え、やがて静かに口を開く。
〈……つまり、このままでは全滅すると、そう言いたいのだな?〉
ベルティエは何も言わず、ただ唇を結んだ。
〈……ランヌは、まだ隊に戻らんのか?〉
〈ハッ! 本隊と別れ、カステルチェリオの防衛に少数で向かったとのことですが……現在、そこは敵の占領下です〉
「そうか……」
ナポレオンは小さく頷き、再び単眼鏡を覗き込む。
だが、その単眼鏡を握る手は、僅かに震えていた。
ベルティエは思う。
皇帝の震えは、思わぬ劣勢に立たされ激昂しているためか。
それとも――親友であるランヌの行方が知れず、その不安を抑えきれずにいるのか……。
〈……そうだな。確かに今の我々は、為す術なく兵を失っている〉
〈メラスのやつも、今ごろは勝利を確信しているだろう……〉
二人の間に、重苦しい沈黙が落ちる。
そして――
〈……クソがぁぁぁぁ――――!!!!〉
〈……?!〉
突如、奇声を上げたナポレオンは、手にしていた単眼鏡を地面へ叩きつけた。
乾いた音とともに、レンズの破片が四方へ飛び散る。
ベルティエの合図で、親衛隊たちは即座に動き、ナポレオンとベルティエを囲むように壁を作る。
〈クソがっ! クソがっ!! くそがぁぁぁぁぁ!!!〉
ナポレオンは地面に落ちた単眼鏡を何度も踏みつける。
それは、もはや原形を留めぬ無残な姿と化していた。
〈さぁ、困ったぞベルティエ〉
〈策はある……いや、考えはあるのだ〉
〈だが、肝心の兵力が足らん!〉
〈グルーシーの奴は、まだなのか?〉
激昂し、睨みつける皇帝に、ベルティエはたじろぎながらも答える。
〈は、はい! グルーシー師団には十数度にわたり帰参命令を出しておりますが、いまだ戻る様子はありません!〉
〈……チッ!!〉
報告に、ナポレオンは大きく舌打ちした。
(……もし、ここにドゼーがいてくれたなら……)
〈……はい?〉
親指を噛みながら小さく漏れた呟きに、聞き取れなかったベルティエが思わず聞き返す。
ナポレオンは、己の言葉に気づいたかのように、静かに首を振った。
(いや……だめだ)
(もし、ここに彼を呼んでいれば……再び、この世界でも彼を失うことになりかねん……)
(……皇帝陛下は、何かを迷っておられるのか?)
独り言を繰り返し、苛立ちを隠せぬ皇帝の横顔を見つめながら、ベルティエはそう考えていた。
(……そう言えば……)
その時、ベルティエはふと、外務大臣タレーランが以前口にしていた言葉を思い出す。
〈皇帝陛下。そういえば遠征前に、タレーラン殿が、『亜人連合国』から使者が来るかもしれぬ、と申しておりましたが……〉
ベルティエの言葉に、ナポレオンも「そう言えば」と思い出したように眉を動かす。
〈あぁ……そう言えば『タイユラン』の奴が、そんな事を言っておったな……〉
※ナポレオンは、発音の難しいタレーランをこう呼ぶ。
そしてナポレオンは、静かに首を振った。
〈だがな。あえて、このように銃弾が飛び交う最前線へ、わざわざ挨拶に来る命知らずの使者など……おるまいて!〉
そう言い放ち、ナポレオンは高らかに笑った。
――しかし、その言葉は、良い意味で裏切られることとなる。
〈……ん? おい、南の方から何か来ているぞ!〉
周囲を警戒していた近衛兵の一人が、南方に立ち上る砂塵を指差す。
それに釣られるように、他の近衛兵たちの視線も一斉にそちらへ向けられた。
〈何だ? 何が起きておる?!〉
近衛兵たちに道を開かせ、ナポレオンとベルティエは砂埃の向こうを凝視する。
〈あの旗は……南に向かっていた、グルーシーの師団のものと……〉
〈……船? いや、違う……陸上を走っている……?〉
〈……巨大な……陸上を走る“船”のようなものが、二隻……こちらへ接近しています!!〉
皇帝たちの視線の先――
砂塵の先頭に立ち、大きく手を振りながら疾走してくるのは、紛れもなくグルーシー将軍であった。
〈皇帝陛下――ッ!!
こっ、このグルーシーめが――
援軍を引き連れ、戻って参りましたぞ――!!〉
〈援軍……?! 援軍が来てくれたのか?!〉
司令部に、どよめきが走る。
エマニュエル・ド・グルーシー将軍は、馬から転げ落ちるように下馬すると、即座に片膝をつき、深く頭を垂れた。
〈お待たせいたしました、皇帝陛下!
陛下のご命令通り南下しておりましたところ……
途中で、この方々に遭遇し、急ぎ踵を返して連れ戻って参った次第にございます!〉
そう言って、グルーシーは振り返り、大きく手を差し伸べる。
その先、約数百メートルほど離れた地点に――
轟音とともに地を震わせながら、陸上を疾走してきた“巨大な二隻の船”が並び立っていた。
〈聞けば、この方々……外務大臣殿の依頼を受け、はるばる亜人連合国より駆け付けられたとのこと!
きっと、陛下の御期待に応えてくださるでございましょう!!〉
片膝をついたまま、再び深々と礼を執るグルーシー。
(……まさか……)
(タイユランのヤツ、本当に援軍を頼んでおったというのか……?)
報告を受け、ナポレオンは驚きのあまり、言葉を失った。
やがて、船体に備えられた魔力機関の唸りが静まり、
ゆっくりと下船用のタラップが降ろされていく。
〈あれが……あれこそが……!
陸を征く“船”を操る者どもにございますッ!!〉
やがて、一隻目のタラップから、五十名ほどの男たちが慌ただしく降り立った。
彼らは即座にもう一隻の前へと整列し、片膝をついて礼を執る。
そして――
二隻目の船、そのタラップに。
うさ耳の女性が、静かに姿を現した。
彼女こそ、亜人連合国を統べる帝――
『明帝』そのひとである。
更新が遅くなってすみません。
本当は少し前に出来上がっていたのですが、読み返したら気に入らなかったので、一部作り替えていました。
そんな大した作品じゃないだろ!と突っ込まれそうですが、個人的に少しでもブラッシュアップしたかったのでお許しください m(--)m




