第385話 劣勢
十三時。
マレンゴの激戦の報が、ナポレオンのもとに届いたのは、午前十一時を少し回った頃であった。
報告官が次々と駆け込み、息を切らせながら声を張り上げる。
〈ヴィクトール将軍より急報! マレンゴ村付近にて敵20,000以上と交戦中とのことです!〉
〈続報! カステルチェリオ防衛中のランヌ将軍500より、敵2,000との戦闘に突入との伝令!さらに北側より10,000の軍勢が、我が軍の後方を突くべく進攻中!〉
〈さらにケレルマン将軍より! マレンゴ村の南2㎞地点で、敵10,000が渡河を終え進撃中との報告!〉
報告が重なるたびに参謀本部の空気は張りつめ、将校たちの顔から血の気が引いていく。
〈て、敵の数が40,000?! 我々の総兵力よりも上ではないか!〉
〈しかも、それは“少なく見積もって”の数だ! 実際には、もっと多い可能性がある!〉
〈早く各地に散った部隊を呼び戻さねば! このままでは包囲される!〉
各将校たちが声を荒らげ、室内は一瞬にして蜂の巣を突いたような騒然とした空気に包まれた。
地図の上では無数の赤い駒(敵軍)がトレビアン軍を取り囲むように押し寄せており、緊張の糸が今にも切れそうな参謀たちの手が震えている。
そんな中でも、参謀長ベルティエは冷静だった。
机上の報告書を素早く整理し、的確に状況を読み上げる。
〈皇帝陛下。総司令官メラス――やつは我々の予想に反し、自ら援軍を率いて前線へと到着した模様です〉
〈現在、ヴィクトール、ランヌ、ケレルマンの三将がそれぞれ敵を押さえておりますが……〉
〈……この戦線の維持は、長くはもちません〉
報告を終えると同時に、参謀たちは一斉にナポレオンへと視線を向けた。
〈……すべてが、思惑どおりとはいかんな……〉
〈……は?〉
思わず聞き返すベルティエ。
右手を腹の服の中に入れ、左手の親指と人差し指で顎を撫でながら、ナポレオンはわずかに考えるように見えた。
やがて、何かを決断したように小さく頷くと、低く鋭い声で命じる。
〈司令部を前線へ移す! マルモン、暫くお前が部隊の指揮を執れ!〉
〈ビアン・ルスュ!〉
即座に敬礼したマルモンは、集まった副官たちへ次々と指示を飛ばす。
〈ベルティエ! 北のシャブラン、南のグルーシー、あと……ミュラを呼び戻せ!〉
〈ビアン・ルスュ!〉
ベルティエは即座に机へ向かい、地図を広げ、三軍の位置と行軍速度を計算しながら命令書を作成する。
ナポレオンは軍帽を手に取り被ると、将校たちに声を放つ。
〈――行くぞ、諸君。世界とトレビアンの栄光のために!〉
〈〈〈ビアン・ルスュ・モン・アンプルール!!!〉〉〉
一斉に敬礼する将校たちの声が、庁舎を震わせる。
こうして――
ナポレオン率いる本軍8,000は、ヴィクトールたちを救うべく、トルトナを後にし、銃弾飛び交う最前線へと進撃を開始した。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
同時刻、マレンゴ周辺は、すでにクラシック軍の手に落ちていた。
かつてヴィクトールが本陣を置いていた村は、いまやメラス将軍の作戦司令部へと姿を変えている。
{報告します!我が軍の砲百門による砲撃と、歩兵六個師団(30,000)の攻撃により、敵主力はマレンゴよりさらに西へ後退!}
{報告します!北側より進攻した歩兵大隊(2,000)がカステルチェリオをほぼ制圧!さらに北側を進攻する、オット将軍率いる二個師団(10,000)が、敵の後方に向けて進撃中!}
{報告します! 南側を進軍中だった竜騎兵師団(1,000)および歩兵二個師団(10,000)が、敵竜騎兵師団を撃破・敗走させたとの報告です!}
立て続けに飛び込む朗報に、参謀たちの間からは歓声が上がる。
勝利を確信した士官たちは、互いに肩を叩き合い、沸き立つ興奮を隠せない。
{メラス様! すべての戦線でトレビアンの負け犬どもが逃走しております!}
だが、その報告をザック参謀長から受けても――
作戦司令官ミヒャエル・フォン・メラスは、窓の外を見つめたまま微動だにしなかった。
{……クククッ。ここまでうまくいったのは、我ら『千年帝国』からの情報提供あってのことを、お忘れなく……}
低く湿った声が室内に響く。
メラスとザックがため息交じりに振り返ると、そこには青白い肌に二本の黒角をもつ魔族の将校が、足を組み、椅子にふんぞり返っていた。
彼の背後には、同じく異形の兵たちが無言で整列している。
指先で軍帽をくるくると回しながら、魔族の男は楽しげに微笑んだ。
{――我々の諜報網が流した“偽情報”を、あのナポレオンが見事に信じ込んでくれました結果、敵は兵力を過小評価し、分散配置という愚の骨頂を犯しました}
{そして、我々が籠城を選ぶと見せかけて、逆に総攻撃を仕掛けたことで、敵は判断を誤り、いまや敗走を続けている}
魔族の笑みはさらに深まる。
その笑い声は、どこか人の心を冷たく締め上げるようだった。
{勝利を確信したナポレオンが、まさかこの地マレンゴで命を落とすとは……皮肉なものですね。策を誇った男が、策に溺れる――実に彼らしい}
メラスの眉がわずかに動く。
しかし老将は何も言わなかった。
事実、彼の思惑どおりに戦況は進んでいた。
彼が連れてきた兵2,000と、“新兵器”の効果は絶大で、トレビアン軍を大いに苦しめていた。
{――それより、元クラシックの皆様方。そろそろ前線の指揮にお戻りになっては?いかに優勢とはいえ、相手はあのナポレオン。最後まで油断なさらぬ方がよろしいでしょう?}
魔族将校の軽口に、メラスとザックら参謀たちの顔が一斉にこわばる。
{フェルカーザム大尉殿! メラス司令官は中将であられるぞ! 言葉には気をつけてもらいたい!}
怒気を含んだザックの抗議に、フェルカーザムは鼻で笑いながら、指先で軍帽をくるくると回す。
{これは失礼。貴国はすでに我が“千年帝国”の庇護下に入られた。てっきり、我が軍の指揮系統下だと勘違いしておりましたよ}
{な、なんだと貴様――! 我らクラシック軍を侮辱する気か?!}
憤るザックと参謀たち。
フェルカーザムの背後に控えていた魔族兵たちは、即座に前に出て、主を守るように並び立つ。
{やめよ、ザック……}
沈着な声でメラスが制した。
{……フェルカーザム殿、あまり挑発的な物言いは控えていただきたい。我らは“同じ味方”として、共に敵と戦っているのですから}
穏やかに諭すメラス。フェルカーザムはしばし沈黙した後、肩をすくめる。
{フッ、少し言葉が過ぎましたな。
――とはいえ、総統閣下もクラシック国王陛下も、求めるものは同じ。
フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの首、ただひとつ。
互いに力を合わせ、この地のトレビアンどもを根絶やしに致しましょう}
{……うむ。よろしい、協力を頼む}
ようやく双方の緊張が解け、メラスとザックたちは一礼して部屋を後にする。
扉が閉まると同時に、魔族の一人が嗤った。
{“同じ仲間”だと? 人間ごときが我らと肩を並べるつもりか?}
{ふん、身の程をわきまえぬとは実に愚かだ}
部下たちの言葉に、フェルカーザムは薄ら笑いを浮かべた。
{……気にするな。総統閣下には、閣下なりの“思惑”があるのだろう。
――まぁ、“あの方”はすでに全てをお見通しなのかもしれんがな}
フェルカーザムは立ち上がり、帽子を被るとゆっくりと出口に向かう。
{さて――我々も、やるべきことをやるとしよう}
{{{ヤヴォール・ヘア・ハウプトマン!!(了解しました、大尉殿!)}}}
魔族兵たちは一斉に敬礼し、フェルカーザムの後に続いて建物を後にした。
残された部屋には、焦げた硫黄のような匂いと、微かに歪んだ魔力の残滓だけが漂っていた――。




