第384話 大陸軍のアキレス
ヴィクトール師団が最初に敵と接触した時、
ランヌ率いる歩兵師団5,500は、マレンゴの後方およそ3キロの地点で本軍の指示を待ちながら待機していた。
〈……ヴィクトールのやつ、始めやがったな〉
遠くから響く銃声を耳にした瞬間、ランヌの鼻先に皺が寄る。
次いで牙を覗かせ、戦場の匂いに笑みを浮かべた。
((あぁ……間違いない。あの顔、完全に行く気だ))
背後で控える副官レシアとギュスターヴァは、上官の性格をよく知っている。
“待機”の命令など、この獣人将軍には紙切れ同然だと、二人とも悟っていた。
その時――地響きを伴って、雷豹族の獣人〈フランソワ・エティエンヌ・ケレルマン〉が現れた。
彼は副官を従え、巨大な竜〈エオティラヌス〉の背に跨っている。
〈ランヌ将軍! 前線が騒がしくなってきやしたぜ!〉
陽気に笑うケレルマンに、ランヌも牙を見せて応じる。
〈ケレルマンか。……どうにも胸騒ぎがするんだ。うまく言えねぇが、嫌な匂いが鼻について仕方ねぇ〉
その目だけは鋭く北側を見据えていた。
ランヌの嗅覚は、これまで幾度も戦場で命を救ってきた――“勘”ではなく“感覚”だった。
〈おいケレルマン! 俺たちはヴィクトールの右翼へ回る。お前たちは左翼の援護にまわれ!〉
〈ん? てぇことは、右翼の方が激戦になるってことですかい?〉
ケレルマンの問いに、ランヌは少し間を置き、鼻を鳴らす。
〈……分からん。だが、そっちから“圧倒的な力”がビンビンにしてやがる〉
〈へぇ、そいつは頼もしい“鼻”でさぁ!〉
ケレルマンは笑い、手綱を軽く引いた。
エオティラヌスが低く唸りを上げ、巨体を翻す。
〈了解でさぁ! じゃあ俺たちは左の援護に回りやす!〉
〈あぁ、頼んだぞ!〉
ランヌの直感を信じたケレルマンは、敬礼すると竜のたてがみを軽く叩き、部下を率いてヴィクトール軍の左翼へ向けて駆けていった。
重厚な地鳴りが遠ざかるのを見届け、ランヌはすぐに次の命を下す。
〈ギュスターヴァ! 貴様はこれより歩兵1,000を率いて、2㎞先の幹線沿い――あの茂みの影に防衛ラインを引け!〉
〈おう、将軍!……って、ヴィクトール将軍がそこまで退却してくるってことですかい?!〉
驚くギュスターヴァに、ランヌは鼻を鳴らし、不機嫌そうに答える。
〈敵の兵がアレッサンドリアにいる連中だけなら、ヴィクトールは負けやしねぇ!〉
〈……だが、もし援軍が来てるとなりゃ話は別だ。味方の敗走を止めて、皇帝陛下が次の一手を打つ時間を稼がにゃならねぇ……分かるな?〉
〈なるほど!了解でさぁ!〉
ギュスターヴァは口角を上げ、軽く敬礼すると、兵1,000を率いて前線へと駆けていった。
〈レシア! 貴様は俺と共にヴィクトール右翼の援護に回る!〉
〈ビアン・ルスュ! 全軍、出撃準備――前進!〉
ランヌの命を受けたレシアの号令により、ヴィクトールの右翼のさらに北側に向けて進撃を開始した……。
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マレンゴ周辺の戦闘開始から30分、ヴィクトール右翼軍付近へ到着したランヌの視線の先には、すでにフォンタノーネ川を渡り終えた敵兵の群れが広がっていた。
〈……フン! やっぱり来ていやがったな!〉
ランヌは牙を剥き、笑った。
その眼光は鋭く、まるで戦を前にした獣そのもの。
〈敵の渡河部隊、およそ3,000! 右翼側面に展開中!〉
副官の報告に、ランヌは迷うことなく命じた。
〈レシア! 兵を連れて後から来い!〉
〈へっ? ちょ、ちょっと将軍!? まさか――〉
その言葉を最後まで聞く前に、ランヌは既に地を蹴っていた。
まるで猛獣が檻を破ったような勢いで、たった一人、敵の集団へと突撃していく。
一方その頃、側面から奇襲を成功させた敵の遊撃旅団3,000は、勢いそのままにトレビアン右翼へ雪崩れ込んでいた。
{一斉射撃だ! 茂みに隠れたトレビアンの奴らを追い立てろ!}
怒号とともに無数の銃口が火を吹き、乾いた銃声が大地を震わせる。
草むらの影では、ヴィクトール右翼軍の兵たちが身を伏せ、歯を食いしばりながら耐えていた。
〈くそっ、動けねぇ! 銃撃の雨が止まらねぇ!〉
完全に動きを封じられた右翼戦線。
敵指揮官は勝利を確信し、前に出て高らかに命令を下した。
{このまま押し潰せ! 全軍突げ――}
{て、敵が現れた!! 正面だ!!}
突撃命令を出しかけたその瞬間、前方の見張りが声を上げた。
敵指揮官は慌てて前方を睨み、状況を確認する。
見張りが指さす先――そこには、レシア率いるトレビアン軍4,500の部隊が、土煙を上げながら前進してくる姿があった。
{……まだ距離はある! 急げ! 三列横隊を組み直して迎え撃て!}
{{{ヤヴォール!!}}}
指揮官の号令に応じ、クラシック兵たちは慌ただしく隊列を組み直す。
しかしその刹那――。
{……なんだ? 一人、突っ込んでくるぞ??}
視線の先、土煙を裂いて一直線に突進してくる影。
それは極端な前屈姿勢を取り、信じられぬ速さで接近してくる人狼だった。
{奴を近づけるな!撃て!撃て――!!}
慌てた指揮官の号令で、隊列も組まないままランヌへ向け次々と銃撃を行う兵士たち。
{なんとしても止めろ! 撃て! 撃て――!!}
指揮官の怒号とともに、無数の銃口が火を吹く。
だが、飛来する弾丸はことごとく、突撃者の手に握られたサーベルに弾かれた。
金属音が連続して響き、閃光の軌跡が空を走る。
(へっ!貴様らのヒョロヒョロ玉なんざ、避けるまでもねぇぜ!!)
笑みを浮かべたランヌは、弾丸の嵐の中を疾走し、敵陣の目前で大地を蹴る。
{と、飛び越えてった?!}
兵士たちが呆然と見上げる中、ランヌは跳躍の最中に目だけで戦場を見渡した。
(……見つけたぜ!)
敵の隊列の最後尾。
そこに、護衛に囲まれ指揮を執る指揮官の姿があった。
着地と同時に、ランヌは地をえぐるように再び踏み込み――次の瞬間、閃光が奔った。
時間にして瞬き一つ。
指揮官の首が宙を舞い、血飛沫が陽光を受けて紅く煌めく。
{あ……あぁ……指揮……か……ん?}
{き、貴ま……ぁ?}
何が起きたのか理解する間もなく、周囲の副官や護衛たちも、一閃のもとに沈んでいった。
{な、なんだ!? 何が起きている?!}
{後方で……爆発か? いや、銃声も聞こえるぞ!?}
前線で三列横隊を組み終えた歩兵たちは、次の号令を待ちながらも、後方から一向に指示が届かない異常にざわめき始めていた。
{おい、後ろの様子を見た者は!? 何があった?!}
{さ、さぁ……だが、さっき飛び越えていった“獣人”が関係してるんじゃ……}
{馬鹿を言うな! 一人だぞ!? それに将校の護衛は二十名以上! 副官もいる! そう簡単に――}
パンッ! パンッ! パンパンパン――!
後方から鳴り響く連続銃声。
それは、彼らの言葉を打ち消すように響き渡った。
{な、何だ今のは?! まさか……}
{……おい、後ろは本当に大丈夫なんだよな?}
怒鳴り返す声が響く中、前衛の視線の先――
すでに五つの二列縦隊を組んだランヌ軍が、土煙を上げながらじりじりと距離を詰めていた。
{……ええい! 俺が指揮を執る! 各中隊、正面から――ぇ?}
言いかけた中隊長の頭部が、音もなく宙を舞った。
首のない体が一歩、二歩と前に出てから、地面へ崩れ落ちる。
〈……やれやれ。次は“中隊長狩り”といくか〉
後方の指揮官を一瞬で全滅させたランヌは、血に濡れたサーベルを軽く振り払い、前衛へと突き進む。
牙を剥いた獣のように、彼は列を縫うように走り、次々と中隊長を切り裂いていった。
{う、うわー! 後方の敵がここで暴れはじめた!}
{撃て! 撃て――!!}
混乱の叫びが飛び交い、前衛の三列目と後衛の前列が一斉に銃を構える。
しかし、目にも留まらぬ速さで駆けるランヌに照準を合わせられる者など、一人もいなかった。
パンッ! パンパンパン――!
次々と放たれる銃弾が、同士討ちの悲鳴を呼ぶ。
{ト、トレビアンの犬ころめ! これでも喰らえ!}
{ぐぎゃ!……がはっ!}
{やめろ! 銃撃をやめろ、味方に当たる!!}
怒号と悲鳴、弾丸の音が交錯し、戦場は瞬く間に地獄絵図と化した。
たった一人の突撃によって、指揮系統を失った3,000の遊撃隊は、もはや群れを成した獲物でしかない。
{……に、逃げろー!!}
指揮を失った兵たちは、恐怖に駆られた獣の群れのように、正面から迫るレシア率いるランヌ軍を目前に、雪崩を打って元来た川の方へと走り出した。
〈逃がすな、レシア! 一人残らず潰せ!!〉
〈ビアン・ルスュ!!〉
レシアは馬上で軽く敬礼し、即座に大隊長たちへ殲滅命令を伝える。
〈第一・第二列、前進! 撃ちながら押し出せ!〉
号令と同時に、統率の取れた一斉射撃が響き渡った。
白煙の中で、逃げ惑うクラシック兵たちは次々と倒れ、地面には血と泥が混じった赤黒い川が流れ始める。
わずか数分で敵は半数を失い、残る半分は命からがら川へと飛び込み、対岸へ逃げ去っていった。
(フン! 他愛もない……)
ランヌは舌打ちひとつ。
サーベルの血を拭い取り、音を立てて鞘に納めると、腰のポーチから魔力回復薬を取り出し一気に飲み干した。
〈ランヌ将軍ッ!〉
レシアの声とほぼ同時に、土煙を巻き上げながら一騎の伝令兵が現れる。
馬の蹄が泥を蹴り上げ、勢いよくランヌの前で止まった。
〈まさか援軍に駆けつけてくださったのがランヌ将軍とは! ヴィクトール将軍に代わりまして、心よりお礼申し上げます!〉
〈……そんな挨拶は要らん。それより――あれを見ろ〉
ランヌが顎で示した先、対岸の遥か先で何かが蠢いていた。
最初は地鳴りのような低い音、次第にその正体が明らかになる。
〈……あれは……部隊、ですか?〉
〈あぁ。ざっと10,000……! 上流を回り込み、俺たちの背を取るつもりだ!〉
ランヌの眉間に深い皺が刻まれ、牙のような犬歯がわずかに覗く。
苛立ちを押し殺すように、サーベルの柄を強く握り締めた。
〈……ヴィクトールの奴に伝えろ。“こっちは俺に任せろ”とな〉
〈ルスュ、モン・ジェネラル! ク・ラ・ヴィクトワール・スワ・タヴェック・ヴ!
(了解しました、将軍殿! 勝利があなたと共にありますように!)〉
伝令兵は力強く敬礼し、馬を反転させると、再び泥煙を上げながら司令部へ駆けていった。
〈レシア! お前は兵4,000を率いて、奴らの渡河を阻止しろ!〉
〈俺は1㎞北――カステルチェリオで敵の進撃を食い止める!〉
〈ビアン・ルスュ! 将軍、どうかご無事で!〉
レシアの声を背に、ランヌは部下五百を率いて駆け出す。
泥の飛沫が鎧を打ち、風が戦場の煙を切り裂いた。
(……こいつはまずいぞ、ボナパルト。
俺たちが時間を稼ぐ間に――何か打開策を考えろよ……)
その表情には、獣の闘志と将としての焦燥が同居していた。
鋭く光る眼差しは、すでに次の戦場を見据えている。




