第381話 嵐の予感
城塞都市・アレッサンドリア。
二つの大河に挟まれたこの都市は、北にミラノ、東にピアチェンツァ、西にトリノ、そして南にジェノヴァへと通じる、流通と軍事の要衝である。
ナポレオンは、アレッサンドリアから東へ16㎞の町、トルトナに司令部を移した。
彼の狙いは、アレッサンドリアに籠もるクラシック軍を完全に包囲し、退路を断つことであった。
まず、シャブラン歩兵師団5,000をミラノ方面へ進出させ、北方の守備を固める。
同時に、グルーシー歩兵師団5,000を南へ派遣し、ジェノヴァへの道を封鎖。
その間に、主攻を担うヴィクトール将軍率いる歩兵二個師団12,000が先頭に立ち、続くランヌの歩兵師団約5,500、ケレルマンの騎兵師団1,000、さらに複数の騎兵大隊(約150騎)と歩兵大隊(約500名)を遊撃として配置した。
これらの部隊が連携しながら進軍し、周辺に散在するクラシック軍の残兵を次々と撃破していく。
トレビアン軍との交戦に敗れたクラシック兵たちは、ほとんど抵抗する間もなくアレッサンドリアへと退却。
逃げ遅れた者は捕らえられ、都市内部の状況を余すことなく聞き出された――。
〈陛下、捕虜の証言によれば――アレッサンドリアは籠城の準備を進めているとのことです〉
〈また、トリノからの援軍は、いまだ到着していないとの報告もありました〉
トルトナの庁舎に設けられた司令部。
その一室で、参謀長ベルティエが報告を終える。
〈……なるほど。余がアレッサンドリアに潜り込ませている間者の報告とも一致しているな〉
降りしきる雨の音を背に、窓辺に立つナポレオンは手を後ろに組み、思索に沈む。
(……シャプラン、グルーシーの両隊も、明日には配置を終えるだろう)
(……タイユランの奴は……)
わずかに目を伏せた後、ナポレオンは決断の声を発した。
〈――全将兵に伝えよ。明後日早朝、アレッサンドリアへの総攻撃を開始する!〉
〈〈〈ビアン・ルスュ!!!〉〉〉
ベルティエは一礼し、部下たちとともに各部隊への命令書作成へと急ぎ部屋を後にした。
残されたナポレオンは、誰もいない部屋で窓辺に立ち、降りしきる雨を静かに見つめる。
外の闇は濃く、雨粒が窓を伝うたびに、蝋燭の炎がわずかに揺れた。
(……アルペン王よ。何故、余や海龍国が差し出した手を拒み、悪魔どもの手を取った?)
(……貴様のその愚かな決断のせいで、余は明日、多くのアルペンの民から憎まれることになるのだ……)
ナポレオンは拳を握りしめ、ガラスに映る自分の顔を睨みつける。
その瞳には怒りと、どこか諦めにも似た深い疲労が滲んでいた。
(……結局のところ、王や貴族などというものは――己の矜持と欲に縛られた、御しがたい愚物の集まりに過ぎぬ!)
外では、絶え間なく雨が降り続いている。
それはまるで、翌日に訪れる血戦を予感した空が、悲しみに打ち震えているかのようであった――。
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翌早朝。
アレッサンドリア一帯は、前夜から続く雨に洗われ、薄い霧が一面を覆っていた。
空気には土と鉄の匂いが混じり、どこか重々しい。
さらに前日の豪雨により、アレッサンドリア東方を流れるホルミダ川は今にも氾濫せんばかりに水嵩を増し、水を吸い上げた大地はぬかるみ、兵士の一歩ごとに泥が吸いつく。
そこはもはや、戦場というより“泥の海”だった。
ホルミダ川から東の街・トルトナへと続く二本の橋――その付近の林には、ヴィクトル麾下の中隊、およそ100名の兵が潜伏していた。
彼らは薄霧の中、息を潜め、銃口を静かに構えている。
〈……おい、白服の奴ら、橋を渡ってきやがったぞ〉
〈なんだと? あいつら籠城してるんじゃなかったのか?〉
〈…きっと偵察部隊だろ?〉
少数と判断したトレビアン兵たちは、互いに目配せを交わし、次の瞬間、橋の上を渡り始めたクラシック軍に向けて一斉に銃を構えた――。
だが、薄霧の中でゆっくりと姿を現す“人影”の数は、彼らの想定をはるかに超えていた。
最初は小規模な斥候だと思われた列が、見る見るうちに長蛇へと膨れ上がる。
〈ち、違う!これは偵察じゃねぇ!急げ、ヴィクトール将軍に報告だ!敵の大軍が――打って出てきた!!〉
〈ビアン・ルスュ!〉
命を受けた伝令兵は馬に飛び乗り、泥を跳ね上げながら森を駆け抜けていった。
〈各小隊! 初弾を撃ったら三十歩下がれ! 撃って、退いて、撃って――少しでも時間を稼ぐんだ!!〉
〈〈〈ビアン・ルスュ!!〉〉〉
低い声で命令を交わし、兵たちは息を殺して霧の向こうを睨む。
中隊長が深く息を吸い込み、指笛を吹く――。
〈――フゥッ!!(撃てッ!)〉
乾いた破裂音が連鎖し、火花が夜明けの霧を裂いた。
橋の上を渡っていたクラシック兵の前列が、血飛沫を上げて次々と倒れる。
〈命中したぞ!――いや、止まらねぇ!あいつら撃たれても進んでくる!!〉
濛々と立ち込める硝煙の向こうから、次の列が姿を現す。
倒れても倒れても前へと押し出される白い軍服の波。
〈くそっ、駄目だ!数が多すぎる! 全員、後方のペドラボナ農場まで撤退だ!〉
中隊長の声に従い、トレビアン兵たちは銃を撃ちながら後退を始める。
濡れた大地が靴を奪い、足音と叫び、銃声、そして泥の匂いが渦を巻く。
こうして――霧に包まれた北イタリアの地で、トレビアン軍にとって長く、血塗られた一日が幕を開けたのである。




