失格教師と不法侵入
【5月10日(水) 21:40】
エスポワールFに到着した。ここの唯一の住人は101号室の中年女性だが、部屋に明かりは灯っていない。
前回訪問したときと条件が同じなら、彼女は20時ごろには仕事に出かけているはず。
つまりこの安アパートには、現在誰もいない。
入口にわざとらしく設置されている防犯カメラをさりげなく観察する。天井からぶら下がっている、懐中電灯のような形状のカメラだ。
「明らかにプラスチック製。アンテナもないし、ⅬEDもずっと点滅してる。安物のダミーだ」
捨見から教えられた、「今後活かせる機会がないはずの知識」が陽の目を見ようとはな。念のため、裏も覗いてみる。背面には山肌がそびえていた。人目はない。
「さて、どうやって侵入するか」
捨見の正体を突き止めるには、ここに入ってみるしかない、と思い決めていた。もちろん見とがめられたら不法侵入だ。
我ながら思いつめたもんだ。だが、いま動かないと取り返しのつかないことになる。そんな気がする。
いちおう玄関のノブを回すが、当然鍵がかかっていた。
落ち着け。思い出せ。鍵開けの方法は、アイツがいくつか言ってたはずだ。
「バンピング、はやめておこう。学校でやってみたときも成功しなかったしな。それに、鍵穴に傷がつきそうだ」
築40年以上の安アパート。ノブも扉も安物だった。
よし、部室棟の鍵を開けた、あの方法をやってみるか。一番手軽だしな。
革靴を脱いで手に持つ。捨見がやって見せたように、斜め上から叩いた。ノブが震えただけで、変化はない。
難しいか。捨見がやったときは、部室棟の鍵はこれであっけなく開いたんだけどな。
「もう1回やってみて、駄目だったら帰ろう」
記憶を掘り起こして、捨見の挙動を思い起こす。もっと上からノブの角を狙っていた気がする。角をかすめるように叩いた。
ガチャンと小気味の良い音がした。……本当にこんな簡単に開くんだな。緊張して、体よりも心が疲れた。
「おじゃまします、よっと」
靴を脱いで入室。1Kの狭い部屋だった。コンビニ弁当の容器や空き瓶が散乱しているせいで、部屋を一層狭く、不潔なものにしている。臭いもひどいな。一瞥しただけで借主の寒々しい、荒んだ心が窺える。
「これならブタ小屋の方がまだマシだ」
高価そうなものはテレビ1つない。本などもなく、カーテンは茶色く変色している。
押し入れにもゴミ袋がうず高く積まれていた。しかし、捨見とつきあって観察眼が鍛えられたのか。そのゴミ袋の山が、何かを隠してるような気がする。
そもそも俺は、「あるもの」を探してこの部屋に侵入したのだ。
ゴミ袋を脇にどかしてみると、底には布団圧縮袋が横たえてあった。猛烈に嫌な予感がする。
意を決してのぞき込むと、そこには女性が眠っていた。
「う、うわっ」
思わずのけぞって、足を滑らせて転倒してしまう。いたた……でもゴミ袋がクッションになってくれたか。
漠然とだが察していたことだ。逃げ帰りたい衝動を必死に堪える。気分を何とか落ち着けて、女性を観察した。
青白い顔。間違いなく死んでいる。圧縮袋で空気を抜かれて生きている人間はいない。
空気を抜いているせいか、腐敗は進行してないように見える。年齢は30代半ばぐらい。表情がないから分かりづらいが、多分生前は美人だっただろう。
だが屋根裏の散歩者とは似ても似つかない顔をしている。人間の死に顔は、表情が消えてるから別人の印象を受ける、ってどっかで聞いたことがあったが。
頭部に血がべっとりと貼り付ついている。あれが致命傷だろう。
もう限界だ。出よう。
大急ぎでアパートから離れる。目撃者はいない。
だが運転の最中も俺は心ここにあらずだった。
あの女性の死体は、年齢から捨見愛離子の母親に違いない。
男と蒸発してたんじゃなくて、死んでたわけだ……。
重要なのは、おそらくあの遺体はまだ警察に発見されていない、ということだ。
身内から勘当され、定職にも就いてなかったらしい。だから音信不通になっても、捜索願いを出す人間はいなかったのだろうか。
「電話口の母親」がニセモノだった時点でなんとなく察してはいたが。事故か殺人かは不明。ただ、隠蔽しようとしたヤツがいる。
捨見愛離子。
101号室の女性が言っていた。
『先月も虫干ししてた布団圧縮袋を盗られちまってね』
おそらく、盗んだのは母親じゃない。死体の処理に困った捨見が盗んだんだろう。布団圧縮袋に死体を入れて、空気を抜いて腐敗を防ごうとしたのか。
死を隠匿するために。




