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短編

先輩の火傷痕

作者: 相浦アキラ


 先輩はいつもドアに一番近い席に座っていた。静謐な無表情で背筋を伸ばしてじっと本に向かっていた。

 先輩の左頬には赤黒い起伏が燃え盛るようなグラデーションを作っている。

 僕は彼女の火傷痕が好きだった。白い肌の儚さと血潮が広がって行くような力強さとが、互いを引き立て合っている。


「秋山君は、どうして文芸部に入ったの?」


「……どうしてでしょうね」


 雨音が響く狭い部室の中、再び沈黙が流れていく。

 何とかまともな返答を続けたくて、灰色の空に目を向けながら文芸部に入った理由を自問してみる。

 本が好きだから。小説を書いてみたかったから。そんな月並みの解答が喉から出かかって消えていく中、ふと思い出した。僕が文芸部に興味を持ったのは、文芸部の「部員数」だった。入学した時にもらった部活紹介の冊子の文芸部の欄だけ「部員数1」と書いてあって軽く衝撃だったんだ。いつ廃部にされてもおかしくないのにたった一人で部活を続けているのはどんな人なのか興味が沸いた。それが文芸部に入った一番の理由だった。……しかし、「部員数1なのが気になって入部した」なんて言ったら先輩はいい気がしないかもしれない。ストーカーだと思われるかも知れない。


 幸か不幸か先輩は本に向き直っていて、僕の返答を待っている様子は見えない。

 様子を伺ったついでに先輩の火傷痕をまた盗み見ていると、


「……何?」


 目が合ってしまった。


「いえ、何でも」


 先輩は咎める風でもなかったが、僕に視線を突き刺したままだった。ポリポリと赤茶けた頬を掻いて見せる。


「この火傷の痕が気になるの?」


「ご……ごめんなさい」


「いいよ。気にしなくて。私、これ気に入ってるから」


 僕も好きです、なんて返す事は出来なかった。


 顔を落とすと、また沈黙が流れる。

 雨音に交じって先ほどの会話が何度も反響していく。

 本を開いてみるが、内容が頭に入ってこない。


 入部して半年経つが、先輩とまともに言葉を交わしたのは今日が初めてだった。

 先輩は僕の事をどう思っているのだろうか。嫌われてしまっただろうか。好かれているのだろうか。次の活動の日もまた話せるだろうか。窓に目を向けると、くたびれた男子高校生の丸刈り顔が薄っすら映っている。

 そのまま取り留めない思考を曇り空に転がしていると、6時のチャイムが鳴った。


「秋山君」


 先輩が僕の方を向いて、ゆっくりと近付いて来る。すぐ手前で立ち止まった。


「私が書いた小説、読んでみてくれる?」


「は……はい」


「パソコンは持ってる?」


「はい」


 立ち上がって銀色のUSBメモリーを受け取ると、先輩は鞄を取ってそそくさと帰って行った。

 扉が閉まる音と共に、僕は一人取り残された。

 握りしめたUSBメモリーの軽やかな感触を愉しみながら、僕は立ち尽くしていた。

 

 我に返って雨音のなか自転車置き場に向かう。先輩のUSBメモリーだけ大切に筆箱にしまい込み、合羽も着ずに自転車に跨った。今日は濡れてみたい気分だった。

 生ぬるい雨が全身を濡らして行く。首筋から入り込んで、背中を擽る。

 雨がブレザーを重く濡らして、シャツがじんわり湿っていく。

 火照った心と体が冷やされて無性に心地よかった。


 ◇


 帰宅して服を着替えるとすぐにパソコンを起動し、USBメモリーを突き刺した。

 入っていたのは一つのテキストファイル。

 ファイル名は『終わりの朝』。


 ダブルクリックしてすぐに開いた。夢中になって読み出した。


 ……小説は、「家族を殺された少年が復讐を計画するも、友人の裏切りで失敗して殺される」という短編小説だった。暗澹としたストーリーにも拘わらず、少年に対する書き手の同情は少しも見いだせず、残酷なまでに一歩引いたような目線で描かれている。この鋭い視点の中で、個の存在として切り取られたキャラクターの哲学がぶつかり合っていく。それだけでも凄かったが、何より僕が感動したのはキャラクターそれぞれの肉体が鮮やかなまでにはっきりと感じられた事だった。キャラクターの意志と、生物としての肉体が時に合一し、時に対立していく様には、どこまでも深い葛藤とリアリティがあった。

 間違いなく、素晴らしい小説だった。


 ◇


 三日後の活動の日。先輩が部室の扉を開く。

 僕はすぐ窓際の席から立ち上がり、先輩に歩み寄る。


「先輩、これ、ありがとうございました」


「うん」


 先輩は細い手を伸ばしてUSBメモリーを受け取る。

 お互いに声を立てず、静かに本を開く。


 ……これでいい。きっと、先輩は僕の感想など必要としていないだろう。「面白かった」「素晴らしかった」といった単純な言葉で先輩の作品を評価する事は、一種の冒涜にもなりうるかもしれない。昨晩、何度も読み返して分かった。僕は先輩の作品の表層しか理解できていない。僕なんかの言葉で言い表せないような価値が先輩の作品には根差している。だからこそ僕は何も感想を言わなかった。何も言わずただただUSBメモリーを突き返した。先輩もきっと、僕がそうする事を望んでいる。先輩が僕に小説を読ませる気になったのも、ただ語り掛ける対象が欲しかっただけで誰でも良かったんだろう。きっとそうだ。

 自室のベッドに仰向けに寝そべりながら、僕はバックアップを取っておいた先輩の小説をまた読み返した。そうしていると心の深い所の孤独が癒えていくようだった。先輩に近づけるようで嬉しかった。

 

 ……それからも月に一度程の頻度で、先輩は銀色のUSBメモリーを差し出して来た。

 小説の内容は様々だったけど、どれも残酷なまでに冷たい視点と、肉体と哲学の対立という点では一貫していた。素晴らしい作品ばかりだった。

 中でも僕が気になったのは「顔の火傷痕を気に入っている少女が親から火傷痕の治療を強要されるが、拒絶して自ら命を絶つ」というストーリーの作品だった。……もしかしたらこれは、自伝的な作品かも知れない。先輩も主人公の少女のように、火傷の原因を作った母親の涙に苦しんでいるのかもしれない。先輩と少女の面影が重なり合って仕方なかった。心が震えて眠れない日々が続いた。……先輩は、少女のように自殺してしまうのだろうか。


 ◇


「先輩」


「なに?」


 意を決して、買ったばかりの黒いUSBメモリーを差し出す。


「僕も小説を書いてみました。もし良かったら……」


「そう。じゃあ読んでみるね」


 あっけなく先輩は受け取ってくれた。

 僕が書いた小説は、「自殺を決意した少女が、余命いくばくもない老人との出会いをきっかけに自殺を断念する」というストーリーだった。この小説には先輩に自殺して欲しくないという祈りも込められていたが、祈りの為に作品に歪みが出ないように細心の注意を払っていた。稚拙な所もあったが、それでも先輩とはまた違った視点で肉体と意志の対立を描く事が出来ていると思えた。


 そして次の活動の日……活動が始まってすぐ、先輩は僕のUSBメモリーをそっと突き出す。


「また書いたら、読ませて」


 その無機質な声が、飛び上がりたい程嬉しかった。嬉しくて仕方が無かった。その日以来、僕は寝る間も惜しんで執筆するようになった。先輩の境地に少しでも近づきたくて、必死になって書き漁った。もちろん、先輩の小説の猿真似にならないように自分なりの視点も大切にした。そうやって、僕と先輩は互いに小説を読み合うようになっていった。先輩の小説には、先輩の価値観や思想がありありと映し出されていた。先輩は、一般的に価値があると思われているような幸福には価値を見出さず、誰もが目を向けないような小さな些事にもフォーカスを当てていた。一方の僕は、欲望を否定的に描きながらも一般的な幸福にも一定の価値を置こうとしていた。先輩の作品をとことん読み込んだからこそ、実際に自分で小説を書いてみたからこそ、互いのスタンスの違いが陰影を帯びて来たのだった。僕はこの事態が却って嬉しかった。追従し、共感するだけでなく、時には対立する事が真に先輩と向き合う事だと思えた。……だから時には小説を通して互いの相反する思想をぶつけ合う事もあった。僕の遥か上の次元に立つ先輩と地を這うばかりの僕の言葉は噛み合っているとは言い難かったけれど、それでも必死になって食らいつこうとしていた。そんな僕の姿を先輩は高みから見下ろしながらも、決して無視せずに突き刺し、殴りつけ、時には肩を叩いてくれた。


 ◇


 そんな日々が続き、やがて新年度が始まる。先輩は3年になり、僕は2年になった。


 僕と先輩は徐々に距離を縮め、時折会話を交わすようになっていた。先輩は嫌いなテレビ番組の話や、哲学的な話や、散歩をしていて気になった物の話や、読んだ本の話を僕に振ってきた。やはり先輩は独特な視点を持つ人のようで、話していていつも新たな発見が得られた。僕は先輩が興味を持つ話が分からなかったので殆ど聞き役に回っていたけど、たまに好きな本の話をする事があった。僕と先輩は本の趣味が合う事が多くて、それが嬉しかった。


 しかし……その日の先輩はいつもと様子が違った。僕の投げかけた話題にも曖昧な返事ばかりで乗って来る事はなく、目すら合わせてくれなかった。こんな事は初めてだった。そして、チャイムと共に先輩が立ち上がる。ゆっくりと近付いて来る。


「読んでみて」


「はい」


 先輩はいつもの銀のUSBメモリーを差し出していた。僕が受け取ると、逃げるように部室を去って行った。結局、今日は一度も目を合わせてくれなかった。嫌な予感がしてならなかった。手の中のUSBメモリーが、かつてなく重かった。


 急いで家に帰ってパソコンに向かう。


「なんだ……これ」


 ……顔に火傷痕がある少女が、同じ文芸部の少年にただひたすらに犯される。小説の内容はそれだけだった。あまりの事に、僕は愕然としていた。それは小説と呼んでいいのかどうか……。少なくとも、先輩のこれまで書いて来た小説とは全く毛色が違っていた。思想も哲学も意志も何もなく、汚れ切った欲望と蹂躙される少女が淡々と描かれているだけだった。


 読み終えて、じっと湯舟に蹲る。先輩は、どうしてあんな小説を書いたのだろうか。僕が見出せないだけで、あの小説には文学的価値があるのだろうか。……いや、違う。あれは本来の先輩の作風ではない。何らかの意図を持って書かれている。……例えば、僕を疎ましく思うようになった先輩が、僕を遠ざけるために書いたとか……。あるいは、もしかしたら……もしかしたら……僕の事を異性として意識するようになった先輩が、気持ちの整理の為に書いたのかもしれない。あり得ない話だが、可能性としては考えられる。


 ……可能性。それだけで僕には十分だった。その可能性に想いを巡らすだけで、ぞっとする程どす黒い恍惚が寒気となって全身を駆け巡って行く。先輩が僕の為に震え、僕の為に苦しみ、僕の為に憎悪し、僕の為に懊悩する。その可能性を想像するだけで、僕はどこまでも幸福になる事が出来た。出来てしまえた。そんな自分が恥ずかしくて堪らなくて、苦しくて嬉しくて堪らなくて、僕はどうにかなってしまいそうだった。僕は僕の気持ちを誤魔化す事にした。


 ……僕は初めて先輩をオカズにオナニーをした。


 頭の中の先輩は甘えた声で僕に覆いかぶさり、何度も口づけてきた。

 その姿は普段の毅然とした先輩とはまるで違って、発情した動物そのものだった。

 そうだ……僕は、先輩を神格化し過ぎていたのかもしれない。

 先輩だって動物だ。神様じゃない。太古からずっとあの手この手で生き残り、醜く命を繋いできた。僕も先輩もその結果でしかない。だから……こういう事も可能性としては十分考えられるじゃないか。




 終わってから、僕は打ちひしがれていた。最も大切な何かを喪ってしまったような、そんな気がしてならなかった。……しかし、こうするしか無かった。いずれはこうなるしか無かったんだ。自分に言い聞かせながら、僕はぼんやりと先輩との逢瀬を思い浮かべてみた。初めてのデートは水族館なんかが良さそうだ。先輩はクラゲが気に入って、興味深そうにじっと眺めている。イルカショーとかには興味を持たないだろうな。じっとクラゲばかり見ているんだ。僕も先輩の隣でクラゲを眺めて、おめかしした先輩を眺めて、そしてたまに目が合って微笑み合ったりする。胸がどきどきしてくる。お昼はレストランで冷製パスタを食べて、最後に展望台で綺麗な夜景を眺めるんだ。手を握り合ったり、キスしたりもするかも知れない。そうやって距離を縮めていって、そのうちセックスも散々して……やがて身内だけで小さな式を挙げて結婚するんだ。……そして先輩は母親に、僕は父親になる。大きくなっていくお腹を二人でさすり合って、きっと幸せだろうな。

 子供は最初が男の子で、二人目が女の子。二人とも先輩に似て、頭が良くてとても可愛かったりするんだろう。


「違う」


 違う。やはり違う。絶対に違う。先輩と僕が、そんな関係になる事はあり得ない。先輩の小説を読んで来た僕には分かる。先輩はきっと幸福を恐れている。欲望を綺麗にデコレーションして汚い部分から目を逸らす事を恐れている。肉体の為に心を歪められる事を恐れている。だからこそ、小説の中で僕に犯されたんだ。いつまでも幸福を恐れ、欲望を恥じ、心の一番奥深くを守る為に。


 ◇


「先輩……あの、これ」


「うん」


 僕が差し出した銀のUSBメモリーを、先輩は何でもないように受け取った。

 その日以来、僕と先輩が会話を交わす事は無くなった。小説の読み合いも止めてしまった。

 先輩は知らないけど、僕は小説を書く事自体止めてしまった。全く書く気が起こらなかった。

 それでも僕も先輩も、週に二回の活動の日は欠かさず部室に足を運んで本を読んだ。


 やがて文化祭が終わった。文芸部としての出展は無かったが、文化部の3年生は文化祭までで引退となる。だからその日は先輩との最後の活動だった。

 僕は棚の本棚を眺める振りをして先輩の横顔を……火傷痕をぼんやりと視界の隅に浮かべていた。その鮮やかさを心に刻みながらも、発作のように先輩の書いたあの小説を思い出す。小説の中で、僕は獣になって先輩を犯していた。先輩は殆ど抵抗せずに、呻き声を上げながらされるがままに蹂躙されていた。今……もし僕が小説と同じように先輩を突き倒したら、どうなってしまうのだろう。先輩は抵抗するだろうか。それとも、僕を受け入れてくれるのだろうか。先輩は、僕の事をどう思っているのだろうか。先輩は僕とセックスしたいのだろうか。先輩は、本当は僕に犯される事を望んでいるのではないだろうか。僕が好きで堪らないのではないだろうか。心も体もズタズタに打ち砕かれて、快感に溺れて、幸福に絆されて、人に合わせて笑うような普通の人間に生まれ変わりたいのではないだろうか。その為に、あんな小説を書いたのではないだろうか。またあの邪悪な恍惚が悪寒となって僕の全身を震わせていく。……しかし僕は振り払った。


 我に返って、恥ずかしさのあまり顔がじんわりと熱くなった。赤くなっているかもしれない。やっぱり僕は最低だ。僕は悪い人間だ。僕は先輩を自分の欲望の為に利用する事しか考えていない。ずっとそうだった。ずっとそうだったんだ。……僕に出来るのは、自分の中の欲望を恥じる事だけだった。


 机に俯くと、本が広がっていた。

 ぼやけた記号の羅列が並んでいるだけで、内容は全く頭に入ってこない。情けなくて泣きたくて仕方なかったけど、何とか涙を堪える。僕は必死の想いで本を読み進めた。時折思い出す自分の醜さを見つめながら、少しづつ読み進めて行った。


 そして……最後のチャイムが鳴る。


「秋山君」


「はい」


「……さよなら」


 それは初めてのさよならで、きっと最後のさよならだった。


「――先輩!」


 背を翻す先輩を、僕は呼び止めていた。先輩が振り返る。僕をじっと見つめている。


「なに?」


「僕……あの……先輩の……」


「…………」


「先輩の火傷痕が……ずっと好きでした」


「……そう」


 先輩は軽く俯くと、左頬をそっと撫でた。また背を翻し、扉を押し開く。扉の締まる音。


 一人取り残されてからも、僕の目には先輩の小さな背中……ブレザーの紺色が焼き付いていた。白い鉄扉に映して、ずっと見つめる。段々とぼやけていく先輩の背中は寂しそうでもあり、嬉しそうでもあり、哀しそうでもあった。


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