鳥島 いのちをつなぐ手紙
宝暦8年(1758年)の8月ごろというから、江戸時代も後期に入ってきたころのことである。
荊を束ねたようなゴワゴワした長髪の男2人が、あてどなく歩みを進めていた。
日に焼けて色黒く、一見化け物のような風体をしているが、彼らはれっきとした人間、日本人である。
やや年かさの方は藤八といい、紀州下津浦(現在の和歌山県海南市下津町)生まれの38歳。
年若い方は幸助といい、塩飽本島生ノ浜(現在の香川県丸亀市塩飽本島生ノ浜)生まれで22歳であった。
彼らが踏みしめている地面はゴツゴツとした火山岩が目立ち、周囲には森どころか低木すらまばらで、ただ茅がそこここに生い茂るだけの見るからに不毛の地である。
彼らには知る由もないが、そこは八丈島の南東約280キロメートルに浮かぶ現在では「鳥島」として知られている無人島であった。
八丈島ですら日本本土からおよそ200キロメートルは離れているから、当時としては想像もつかないくらいの遠隔の島である。
彼らは元々泉州の廻船問屋(現在の海運業者にあたる)が所有する船で働く船乗りであった。
今から5年ほど前の宝暦3年(1753年)1月、彼らの乗った船は伊勢沖で遭難し、運悪くこの周囲約8.5キロ、東西約2.7キロの小さな島に吹き寄せられた。
当初は5人いたが、そのうち3人までは最近までに死に、ついに彼ら2人だけとなっていた。
仲間の死がどのような転機となったのか。
2人きりとなった彼らは島内を探検することにし、まだ足を踏み入れていなかった島の北西部へと向かった。
「藤八どん。あそこに洞窟がある。どうじゃ、入ってみようか?」
「そうだな。何か見つかるかもしれん。」
流木のひとつでも見つかれば、とさして期待もせずに洞窟内部に入った彼らは、間もなく驚くべきものを発見した。
「あっ、藤八どん。鍋がある。」
若い幸助は歓声をあげながら鍋へ駆け寄ると、さらに喜びの声をあげた。
「鍋のなかに金物が入れてある。油に浸かっていたからか、全然錆びとらんぞ。」
幸助は鍋から小さな金属を取り出し、藤八に見せた。
「藤八どん?」
藤八はそばに置いてあった木片を熱心にのぞき込んでいた。
何やら黒々と書かれているものは、文字のようである。
「藤八どん、これは文字か。何と書いてあるんじゃ?」
「ありがたいことぞ、幸助。これは享保の昔にこの島へ流されてきた遠州人と後から流れ着いて遠州人と共に島を出た江戸堀江の船乗りたちが残したものじゃ。いずれここへ同じように流されてくる者があろうと、使っていた道具を残してくれたそうじゃ。」
「では、これは道具か。」
「うん。恐らくそれは包丁じゃろう。よく見よ、刃がつけられておるわ。ほれ、そこに落ちている石は火打石に相違ないぞ。」
「じゃあ、今日から火が使えるのか?鳥の肉を手で裂かなくても良いのか?」
「そうじゃ。この道具のおかげで、わしらは煮炊きもできるし、鳥や魚を・・・楽にさばけるようになったんじゃ・・・。」
「ありがたい!ううう・・・。」
2人の漂着者は、感涙にむせび泣いた。
彼らが偶然洞窟で発見したもの、それはこの時から40年近く前に同じく鳥島に漂着し、実に20年という長きに渡って過酷な無人島生活を生き抜いた「先輩」が「不幸な後輩」のために残した手紙と道具であった。
それまで火も使えず生で食料にかぶりつくしかなかった藤八と幸助は、この発見によってようやく人間らしい生活をいくらか取り戻すことができるようになったのだ。
彼らはこの後さらに6年近くをこの島で生き抜き、後に漂着してきた船に救われて無事故郷へ帰ることができたのだが、それは島に残された「いのちをつなぐ手紙」のおかげであった。
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「左太夫どん、島だ。島の影が見えたそうじゃ!」
「落ち着け、甚八どん。島などどこにあるんじゃ?わしには何も見えん。」
「平三郎が見つけたんじゃ。おい、平三郎。島影はどっちに見える?」
「あっちです。」
「うーん・・・やっぱりわからん。仁三郎どんは見えるか。」
「うっすらと黒いものが見えますなぁ。確かに、あれは島じゃなかろうか。」
そうこうするうちに、他の船乗りたちにも明らかに島影らしきものが見えるようになってきた。
「うん、間違いない。あれは島じゃ。ようし、あれへ向かおう。帆桁を持って来よ。帆柱のかわりに立てるんじゃあ!」
「おう!」
船頭(現在の船長にあたる)の左太夫が号令すると、久しぶりに生気を取り戻した船乗りたちは、生き生きと動き出した。
時はさかのぼり、藤八と幸助の時代から38年前の享保5年1月26日(1720年3月4日)。
遠江国敷知郡新居の廻船問屋・筒山五兵衛が所有する鹿丸は、房総半島九十九里浜沖で遭難してからもう56日も大洋をさまよっていた。
鹿丸は全長29メートル、幅7.5メートル。
15人乗りの千石船で、現在の単位で言うと積載重量約150トンの大きな船である。
遠州から江戸、奥州間で米や材木の輸送に活躍し、時には「城米(幕府領の年貢米)」の輸送という名誉ある仕事まで請け負うことがある。
しかし、数十日に渡って打ち続いた嵐は鹿丸をさんざんに痛めつけていた。
特に激しく吹き付ける暴風に耐えかね、転覆するよりはと24反帆(18メートルX20メートルの帆。25枚の細長い布を縫い合わせたもので、縦筋が24本になることから24反帆という。)を備えていた帆柱を遭難初日に切り倒してしまったために、船は巨大なタライのような無残な姿をさらしていた。
このままでは近いうちに沈没する可能性が高かった。
島影が見えてからおよそ6時間後、彼らの必死の働きが通じたのか鹿丸は目指す島に近づくことができた。
彼らには知る由もないが、この島こそ鳥島であった。
ようやく間近で見ることができた島の様子は、実に厳しいものであった。
島の周囲は切り立った断崖がどこまでも続き、船をつけられそうな湊どころか砂浜すらない。
まるで上陸を拒むかのような険しい地形であった。
「仕方ない。とりあえず上陸できる場所を探そう。」
左太夫が言い、船はさして広くもない島の周囲を巡った。
すると、やがて島の北西部に岩礁は多いがかろうじて接岸できそうな場所を発見した。
「よし、あそこに船を着けよう。甚八どん、ご苦労だが艀(小型の船)で島に上がり、人家がないか見てきてくれんか。」
「わかった。」
早速なるべく島に近づくよう船が寄せられ、碇がおろされた。
梶取(船の舵を扱う責任者。船頭に次ぐ地位であり、現在の副船長か主席航海士にあたる)の甚八を筆頭に5,6人を乗せた小舟が慣れた手つきで島に漕ぎ寄せ、上陸を果たした。
そのまま、島の探索へ向かう。
なぁんもない島だった。
人どころか、四つ足の獣もいない。
当然、人家などあるはずもない。
森はなく、グミの木がまばらに生えている程度である。
船の修理に使える木材などありそうもなかった。
他に植物はと言えば、ところどころに自生している茅が目につくくらいで、荒涼とした島だ。
そして、甚八たちを最も落胆させたのは、湧き水のひとつも見つからないことだった。
ただ、島にはおびただしい数の「先住者」がいた。
羽を左右に広げると1.5~1.8メートルもある巨大な鳥で、全体的に白く、羽の先だけ黒い。
現在はアホウドリとして知られている鳥である。
至るところに巣を作って子育て中らしく、黒褐色の幼鳥とおびただしく並ぶ様子は碁石を並べたようだった。
船に戻った甚八たちは見てきた島の様子を報告し、善後策を協議した。
船乗りたちの意見は割れた。
島に上陸し、助けを待つべきだと言う者。
過酷な島の状況を知り、たとえ短期間でも生活していけそうにないから、別の島を探すべきだと言う者。
結論は簡単に出そうになかった。
「船頭は左太夫どんだ。左太夫どんの考えを聞かせてくれ。」
ある程度意見が出揃うと、梶取の甚八が船頭の左太夫の意見を求めた。
左太夫はそれまで何の発言もせず、ただ腕を組んだままじっと皆が話すのを見つめていたのだった。
「わしは島に上がるべきだと思う。嵐にやられて鹿丸は崩れかかっとる。このまま海を走っても、いくらも持つかわからん。それならば、この島に身を寄せ、助けが来るのを待つのが良いとわしは思う。」
「左太夫どんが言うなら・・・」
あれほど真っ二つに分かれていた意見が、きれいにまとまったのだから不思議である。
鹿丸の乗組員12名は艀にまず大事な伊勢神宮のお祓いと下田奉行の下り手形を乗せ、順次米、鍋と釜、斧、火打石その他の道具類を積んでは陸揚げしていった。
ようやく日が傾きだした午後4時ごろにはすべての荷の陸揚げを終えると、そのまま手分けして住む場所を探しに出かけた。
すると、磯辺から100メートルほど登ったところ約4メートル四方の広さの洞窟が見つかった。
また、そこから40メートルほど離れたところにも、さっきよりやや小ぶりの洞窟があった。
とりあえずこの2つの洞窟で一夜を明かすことにし、荷物を運び込んでいるうちに陽が沈んだ。
洞窟内部には窪みがあり、それをさらに掘りくぼめて煮炊きの場とした。
窪みにはかつて火を燃やした形跡があり、炭が残っていた。
それを見た年老いた船乗りが、ポツリとつぶやいた。
「いにしえにも、この島に吹き流されて来た者があったのかのう。彼らは無事に帰ったろうか・・・。」
それは皆が感じていたことだったので、一様に押し黙ってしまった。
「なに、帰ったに決まってるさ。ここには人骨のひとつも落ちてないじゃないか。」
沈黙を打ち破り、皆を力づけたのは左太夫だった。
彼の口調には何の気負いもなく、いつものように穏やかだ。
その様子を見て、仲間たちは少し安心を取り戻したようだった。
その夜、皆はなかなか寝つけなかった。
外からは強い雨風の音が聞こえてきたが、原因はそればかりではなかった。
何とか沈没は免れたという安心と、いつ助けが来るかという不安が交差し、まんじりともしない一夜を過ごしたのだった。
翌朝、事態は一変した。
「ない・・・。鹿丸も、艀も・・・。」
上陸した磯辺へ様子を見に向かった水主(現在の水夫にあたる)の仁三郎と平三郎は、呆然と立ち尽くした。
そこには恐ろしい光景が広がっていた。
つないでおいたはずの鹿丸と艀の姿はどこにもなく、ただバラバラの板切れが磯に打ち上げられているだけだったのだ。
「仁三郎どん・・・。」
「これは夢か、まぼろしか・・・。こんなことが・・・。」
「とりあえず、皆を呼んで来よう・・・。」
若い平三郎が駆けだしていった後も、仁三郎はまだ信じられぬと言った様子で動けなかった。
やがて皆がやって来たが、彼らの反応もまったく同じであった。
無理もない話で、彼らは唯一の脱出手段を失い、ろくに水や木材すらないこの島に閉じ込められることになってしまったのだ。
「こんな結果になってしまったが、今さら後悔しても仕方がない。とにかくこの上は、命をつなぐ工夫をするのが肝要だ。生命を全うし、神仏に祈るなら、また本国へ帰れることもあるだろう。力を落としてはいけない。」
動揺する仲間に語りかけたのは、船頭の左太夫である。
彼とて動揺はあったのだろう、しばらく黙って思案している様子だったが、口を開いたときにはもういつもの左太夫に戻っていた。
左太夫の言葉に皆は落ち着き、島での生活を決意した。
皆で行った最初の仕事は、磯に打ち寄せる船板を集め、今後の住居と定めた洞窟に運び入れることだった。
今後は板だけでなく船板に刺さった釘も貴重な道具となるのだ。
こうして、12人による無人島生活が始まった。
それは恐ろしく単調なものだった。
食料を調達し、命をつなぐ。
はっきり言って、彼らの日常はそれ以上でもそれ以下でもなくなったからだ。
幸い、食料や水はどうにかなった。
主食としたのは彼らが「大鳥」と呼んだアホウドリである。
この鳥にはまったく警戒心というものがなく、人が近づいてもまったく逃げるどころかヨタヨタと歩み寄ってくるものまでいるくらいであった。
このため、捕らえるのに何の苦労もいらず、ただ棒や石があれば足りる。
いったい何万羽いるのかわからないくらいおびただしい数がいて、鹿丸の船員たちの口を満たすだけの肉を十分以上にまかなえた。
また、魚も豊富に採れた。
釘を曲げて釣り針をつくり、磯辺でとれたカニなどをエサにして釣った。
このカニは大きいわりに身が少なく、味もまずかったのであまり食用に適さなかった。
それよりも貝の方が好まれ、魚釣りのついでに拾い集めた。
食料に比べれば、水の確保はかなり大変だった。
島内には湧き水がないので、彼らは桶に雨水を溜めて使った。
ただ、桶の数が限られているので、これは主に海水と混ぜて煮炊きに使った。
飲み水は岩の窪みに溜まった雨水を直接飲んだ。
ありがたいことに鳥島は温暖で雨が多く、2,3日雨が降り続くことはざらであった。
10日以上晴れ続けることはめったになく、湧き水がなくても何とかやっていけた。
彼らを苦しめたのは生活苦ではなく、先の見えない焦りや不安であった。
単調な生活は彼らの精神を少しずつむしばみ、いつ終わるとも知れない境遇が彼らの不安をつのらせた。
この生活のなかで、存在感を発揮したのが船頭の左太夫であった。
彼は遭難前から誠実で冷静沈着なリーダーとして仲間の信頼を集めていたが、この逆境においてその真価を最大限に発揮した。
彼は単調な生活になるべく彩りを与え、皆が帰郷の希望を失わないようにつとめた。
伊勢神宮でもらったお祓いを大事に扱い、毎日海岸へ持って出ては皆で天照大神に向かって祈りつつ垢離を取るのである。
その祈りには「何とぞ今一度本国へお帰しください」という彼らの切実な願いが込められていたことは言うまでもない。
また、コメの栽培も積極的に進めた。
ある時流れ着いた漂流船に米俵が積まれていたのを見つけ、総出で洞窟に運び込んだことがあった。
しばらくしてそのうちのひとつから芽が出ているのがわかり、調べてみると籾米であった。
左太夫は「これはきっと産土神より下されたものだ。我々が再び本国へ帰るしるしの種として、決しておろそかにはしてはならない。」と神仏に感謝しつつ、「この籾を土に蒔いてみようではないか。」と皆に提案した。
皆が賛成したので、コメの栽培が始まったのである。
鳥島は火山島なので、土がほとんどない。
ただ、茅が生えているように、わずかながら土は存在した。
左太夫たちは、そのような場所に2,3粒ずつ籾をまき、コメを育てたのだ。
苦労して収穫したコメはほんのわずかでしかなく、普段の食用にはせず病人へ薬代わりに粥として与えるくらいにしかならなかった。
だが、栽培によって四季の移ろいが感じられ、生活に希望が生まれた。
さらに、左太夫は仲間の心のケアにも積極的だった。
絶望した仲間のなかには、自殺を考える者もいた。
左太夫はそうした仲間を磯辺に誘い、ともに魚釣りをしながらまるで親が子を諫めるようになぐさめ、力づけた。
残念ながら、自殺者を完全に防ぐことはできなかったが、生き残った者たちは左太夫に絶大な信頼を寄せ、「左太夫どんが生きているうちは万に一つも故郷へ帰る機会があるかもしれない。」と希望を持ち続けたのだった。
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しかし、彼らの精神的支柱も倒れる時が来た。
漂着から11年が過ぎたころ、左太夫の身体に異変が起こった。
喉がつかえるような症状があらわれ、食事も進まなくなって日増しに衰弱が進んだ。
仲間たちは薬代わりの粥を飲ませたが、それすらもやがて受けつけなくなった。
「平三郎。お前に託したいものがある。」
ある日、力なく横たわった左太夫は、生き残った6人のなかで最も年若の平三郎に語り始めた。
その眼は何かを決したように鋭かったが、弱々しいながらも口調はいつものように穏やかであった。
「お前に託したいのはこの四品だ。」
左太夫が平三郎に託したのは、下田奉行の「下り手形」、金子2両、銭100文、算用帳であった。
特に下り手形は幕府が発行した鹿丸の身分証明書のようなもので、もし仲間が本土へ戻ったときは、百万の言葉よりも身元を保証するものである。
また、左太夫の私物も平三郎に譲られた。
「左太夫どん、これは何じゃ。これは左太夫どんが持つべきものじゃないか。頼むから、気を強く持ってくれ。」
「いいや、わしはもうこれまでじゃ。皆と故郷へ帰りたかったが、ついに果たせなんだ。せめて残った者たちが無事に帰れることを願い、お前にこれらを託すのだ。」
「・・・」
左太夫が死んだのは、それから間もなくのことであった。
それまで5人が自殺し、1人が病死したものの、左太夫を中心に残った6人の結束は強かった。
ところが、精神的支柱であった左太夫が死に、残る5人は空気が抜けたように気力を失ってしまった。
左太夫の後を追うように、2人が死んだ。
残ったのは梶取の甚八、水主の仁三郎と平三郎の3人だけとなった。
その残った3人も故郷へ帰る望みを完全に捨ててしまった。
生命を維持するために食料を集め、毎日の祈りも欠かさなかったが、それは規則正しいと言うより惰性的なものとなっていった。
自暴自棄になり、あるとき酒樽がたまたま流れ着くと、「このままうかうかと生きていても無益なことだ。この酒をたくさん飲めば死ぬことができるだろう」と言って皆で正体をなくすほど飲んだ。
しばらくして何事もなく目覚めたので、とにかく「飲み死にしよう」とまた痛飲したが、命に別状はなかった。
甚八たちは「自分たちは死ねぬ定めなのだ」とあきらめ、もとの単調で惰性的な生活に戻った。
いさかいも起きた。
まだ30代の平三郎は50代にさしかかった他の2人よりも敏捷で、それをいいことに死んだ仲間の衣服や流木などを甚八や仁三郎に渡さずに独占した。
あまりに露骨な振る舞いに、仁三郎がわがままを咎めると激高し、「打ち殺してやる!」と言って仁三郎を殴りつけ、眉間にケガを負わせたうえに半死半生の状態にさせた。
大したパンチでなくても、極限状態にある彼らには命に関わる負傷になりかねないのである。
幸いなことに仁三郎は持ち直し、「こうして3人だけが生き残ったのだから、助け合っていかなければ」とそれ以上平三郎を咎めることはせず、表面上は元の関係に戻った。
平三郎も普段は善良で親切な男であり、それだけ余裕がない状態に皆が追い込まれているのだ。
こうして3人は何とか生き残り、さらに9年の歳月を重ねた。
彼らはアホウドリをとり、魚を釣り、コメを栽培しながら、いずれ来る自分の死期を待っていた。
かわす言葉も事務的なものだけとなり、かつて左太夫がかろうじて与えていた生活の彩りは色あせ、いつしか消え失せていた。
そんななか、ついにそのときはやってきた。
彼らの無人島生活に終止符がうたれるときがやってきたのだ。
だがそれは、彼らがもう思いもよらなくなったかたちであった。
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その日、元文4年3月29日(1739年5月6日)は甚八たちにとって生涯忘れえぬ日となった。
だが、無気力になって暦すら把握しなくなった甚八たちにとって、当初はいつもと変わらぬ一日でしかなかった。
甚八と平三郎は耕作のために外出し、仁三郎がひとり洞窟内でアホウドリの肉を調理し、食べていた。
時刻は午後2時過ぎ、遅い昼食であった。
ふと仁三郎は何者かの気配を感じた。
何やら外で人の声らしきものも聞こえる。
仁三郎は椀を持ったまま、洞窟の外へ出た。
そこには見慣れぬ風体の人間が3人いた。
いずれも髪やひげが異様に長くのび、ボロボロの衣服をまとっている。
仁三郎を見てギョッとしたようで、40センチほどの鉈を構えた。
「何者か!」
聞こえてきた声は日本語である。
普通の精神状態ならそこで何か感じ取れそうなものだが、相手を薄気味悪い存在としか思わなかった仁三郎は言い返した。
「そちらこそ何者か!!」
「わしらは船乗りだ。房総半島沖で嵐に巻き込まれ、ずっと南方まで吹き流され、ようやくこの島までたどり着いたのだ。」
「ああ、船乗りでおわしたか・・・!」
ようやく仁三郎の感情が動いた。
彼らもかつての自分たちと同じ漂流者なのだ。
ここまでたどり着いたということは、彼らには船があるに違いない。
これで帰れる、と思うと仁三郎の目からはとめどなく涙が落ちてきた。
「仁三郎どん、どうした?」
そこへ声を聞きつけて平三郎が戻ってきた。
とっさのことで状況が飲み込めないらしく、右手に持った杖は固く握りしめられている。
3人の正体不明の船乗りたちも、再び警戒を強めた。
「平三郎、このお人たちは船乗りだそうじゃ。わしらと同じようにこの島へ流れ着いたらしい。」
「船乗り?いったいどこの船か?」
仁三郎と違い、平三郎は容易に信じようとしない。
目の前の怪しげな者たちが日本人にはどうしても見えなかったのだ。
もっとも、平三郎たちこそ髪は縮れて長く、色黒く、おまけに着るものがなくなったためにアホウドリの皮を干したものを着ており、まるで羽衣をまとった天狗のような異様な格好をしているのではあったが。
「わしらは江戸の船の者じゃ。」
「江戸?江戸のどこじゃ?」
「堀江町じゃ。」
「面妖な。堀江町には船はないはず。本当に江戸の船乗りか?」
「何を言う。わしらは堀江町の船に間違いはない。南部八戸(南部藩の藩庁がある八戸のこと)通いの船じゃ!」
容易に相手を信じようとしない平三郎とこちらの正体をいぶかしむ相手との間は、徐々にヒートアップしていく。
オロオロしながら見守っていた仁三郎は、いたたまれずに甚八を呼びに行った。
「江戸の船乗りと言うが、御身らはどこの国の人か。どうも蝦夷人(北海道に住むアイヌ)か何かにしか見えぬ。」
「大坂者もいれば、伊勢の者、越後瀬波の者、南部宮古の者もおる。かく言うわしは、宮古の治郎兵衛という者じゃ。」
南部宮古という言葉を聞いた瞬間、平三郎の表情に変化があった。
かつて平三郎は南部藩領の廻船に乗り、南部から気仙沼まで航海したことがある。
そのうえ宮古には知り合いも幾人かおり、南部藩領はなじみの土地であった。
目の前の治郎兵衛という男に覚えはないが、平三郎の知り合いのことを知っているかもしれない。
そう思って、その知り合いのことについて幾人か聞いてみると、共通の知り合いがいることがわかった。
治郎兵衛という男が宮古の人間だというのは間違いなかった。
「そうか、南部の人であられたか!!」
それだけ言うと、平三郎は絶句した。
そこから先は言葉が詰まって何も言えない。
間もなく仁三郎が甚八を連れてくると、彼もたちまち大粒の涙を流した。
20年ぶりに仲間以外の人間に会えて、感無量となったのだった。
その様子を見ていた治郎兵衛ら3人は、ようやく警戒を解いた。
格好は異様だが、平三郎たちが自分たちと同じ日本人の漂流者であることを悟ったのだった。
やがて治郎兵衛たちが海岸に待たせていた14人の仲間も合流し、今度は平三郎たちについて尋ねた。
平三郎たちは自分たちが遠州新居の船乗りであること、九十九里浜沖で遭難して享保5年にこの島へ漂着してからずっとこの島で生活してきたこと、その間に9人が帰郷を果たせず死んでしまったことなどを話した。
こうしてお互いの身の上がわかると、両者は急速に打ち解けた。
さらに治郎兵衛の仲間に、かつて平三郎と一緒の船に乗ったことがある者が2名もいることがわかり、いよいよなごやかな雰囲気となった。
ひとわたり話が終わると、平三郎たちは治郎兵衛たちに水を分け与えた。
また、島での食料の取り方を伝授し、治郎兵衛たちが乗ってきた伝馬船と呼ばれる小舟の修理が終わるまでの1ヶ月間、彼らの生活を支えた。
平三郎は器用な男で、これまでも無人島生活で手製の道具をいくつもつくってきたが、船の修理にも力を発揮して治郎兵衛たちを喜ばせた。
修理が終わると、合わせて20人となった一行は順風を待ち、出帆することに決めた。
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出帆間近となったある日、平三郎は使い残した船板に炭を使って何やら書きつけ始めた。
めしを食うことも忘れたように、一心不乱に何かを書き続けている。
「平三郎、何をしとるんじゃ?」
気になった甚八が問うと、平三郎は恥ずかしそうに顔を上げた。
「次に流されてきた者たちのために、わしらの身に起こったこと、島で生き残るすべについて書き残そうと思うのよ。」
「おう、それは良いことに気がついたの。」
「ここ数日、亡くなった左太夫どんのことばかり思い出されてな。左太夫どんは最後まで仲間のためを思い、わしに色々託してくれた。だが、わしは甚八どんや仁三郎どんに辛く当たり、左太夫どんの想いに背くことばかりしてきた。今さら許してくれとは言えん。せめて後の世の者たちの役に立つことで、罪滅ぼしをしたいんじゃ。」
「平三郎・・・よく申した。よし、わしも手伝おう。そうじゃな・・・わしはなるべく多く籾を蒔きつけてくる。」
甚八は久しぶりに笑顔を見せ、籾米をひっつかむと外へと出て行った。
仁三郎はふたりのやり取りをじっと見ていたが、やがて意を決したように平三郎に声をかけた。
「わしはお前のことがどうにも許せん。だが、後の世の者には何の罪もない。」
そう言うと、鍋いっぱいにアホウドリから絞った油を注ぎ、そのなかに手製の包丁など金物を入れていった。
次に人が来るのは何年後かもわからない。
少しでも長く寿命をのばすため、油に浸して錆びないようにしようという配慮だった。
元文4年4月27日、待ちに待った順風が吹いた。
当初予定した日より10日ばかり早かったが、これを逃すまいと出帆することに決まった。
平三郎たちが心血を注いで準備した手紙や道具は洞窟のなかに残された。
20人は歓喜とともに帆を上げ、ついに鳥島に別れを告げた。
順風に恵まれ、島はみるみる遠ざかっていく。
平三郎たちにとっては、20年閉じ込められ続けた島の最後の姿である。
その景色と湧き上がる喜びは、無事故郷に帰り着いても一生彼らの心から離れることはなかった。