猫
彼が主人に抱くイメージの中で、最も強烈なものは多量の鼻血を流す姿である。
その際の出血が余りに多量であったために主人は死んでしまった。
生まれたばかりの身体をただ成長に任せているだけではほぼ間違いなく病魔に殺されることとなることを主人は重々了解しており遂に了承しただけに過ぎない。
そう思える、彼の頭脳は妙に詩的と言える。
彼の主人が自分自身にかける以上の情熱をもって彼に施した道楽によって、彼は多少の言語を理解できる。
猫の額であるので、流石に言語を操る事までは出来ずに彼自身がとても悔しく思っていることを何よりも驚くべきであるのに、彼の主人はもっと別のことを評価していた。
表情筋等持ち合わせていないだろうに、したり顔をしてみせることを。
「世界が猫を嫌っても、猫を嫌わない自信を私は持たない。よって、独りで生き抜いてくれたまえ。どうせ私のほうが先に死んでしまうのだろうけれど」
彼の主人が物心ついて以来決して行く事のなかった場所がある。
病院である。
病院で一夜でも過ごそうものなら、体内に毒を仕込まれて、予定年齢に達するとじわじわと 体内を犯すことになると彼の主人は信じて疑わなかった。
そんな妄念に浸っている彼の主人に対して、彼はしたり顔で鳴いてみせるのだが、そうすると今晩の彼の食事はとても豪勢になる。
確かに望まれなかった道楽に対しては永続的に贖う必要があるのだ、という彼の考えを彼の主人に聞かせることが出来たならきっと彼の為に別荘を購入しかねなかっただろうが。
どれほど脳に色々と改造を加えられたといっても彼の種族の性とも言える、その淡白質によって彼の主人の事を過去にとても良くしてくれた人といった程度の印象のみで置き去りにすることに決めた。
孤独死というが、寄る辺ない病室で息を引き取るよりは良く馴染んだ部屋で血を吐いて死んでいる方が幾らか楽しげだと彼は考える。
この部屋を使う者と言えば彼か彼の主人だけであったから、彼はもうその部屋に居る事はないであろうから、血が消えないなら取り壊せばよいのだ。
彼は、窓の桟に勢い良く左手を乗せて空ける。
それから、勢い良く地面に飛んで行く。
今の人間であれば良くて捻挫、悪くて骨折するほどの衝撃でさえも彼の肉球をもってすれば何という事はない。
そもそも彼は人間ほど鈍重ではないのである。
窓から降りた先には何もないのだが、気にするほどのことではない。
自分も若くは無いのだから、それに特に拘りのある場所があるわけでもないのだから野垂れ死にも素敵だと彼は思う。
これ以上も無いほどの人間的な世界で野垂れ死ぬことをいっそのこと誇りに思うべきであろうか、それとも人間に嘲弄されるかもしれない事を悔やむべきなのであろうか。
それよりも何よりも、彼は己が交尾をしていないことに気付き、とても気に病んだ。
彼は彼の尊厳にかけて去勢されることを許しはしなかったが、彼は彼の主人から聞かされていた。
もう猫なんてどこにも居ないのだと。