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夢見る暗殺者  作者: 瀬戸 生駒
暗殺者の嫁入り
34/35

第14話

 自宅に戻って釉葉は少し仮眠を取った。

 日が落ちた頃に起き出して、メイクを決めてブラシを当てて。

 コートはベージュがお気に入りだが、今回はエナメルっぽいネイビーブルーにする。

 と。外はまだ冷えるし、日が落ちれば寒さは厳しさを増すだろう。

 ついうっかり、可愛いというだけで先日購入した赤い小さな手袋に指を入れた。


 マンションの地下駐車場に降りて、停めてある愛車のミラジーノのトランクスペースから、紙袋を取り出す。

 中にはいくつかの乗馬アイテムと、ハンズで買った10メートルのザイルが未開封で入れてあった。

 それを持って、歩いてJR三宮駅前のタクシー乗り場に向かう。

 もちろん、マンションにより近い阪急の前にもタクシー乗り場はあるが、幹線道路の路肩に停める形になり、釉葉が目的地に向かおうとするなら東進してJR駅前ロータリーを利用してUターンをするため、ヘタをしなくても道路を渡るだけで1メーターが必要になる。

 そんな無駄遣いは、釉葉にはできなかった。


 平日だが、午後6時過ぎというのは、タクシーにとってピークタイムの1つだ。

 釉葉が列に並んで順番待ちをしていると、釉葉の前に男が2人割り込んできた。

「横入り、アカンで!」

 きつめに鋭く叫ぶ釉葉に男達は苦笑し、胸元から手帳を出して上下に開いた。

「……はぁ。鈴村さんかぁ。

 自分らも大変やなぁ。時間外、つくん?」

 釉葉は軽く溜息をついて、列を離れた。

 男達も、釉葉のぼやきに自分たちの意図が見透かされているのに気づき、

「形だけ、な。すぐすむから、顔立ててや」

 言われて釉葉の紙袋に手を伸ばすが、なぜかいやがる。

 紙袋は、ビニルコートされた量販品で、駅のキオスクでも売っているヤツだ。

 実はこの手の紙袋こそが、裏献金やブラックマネーを動かすときに使われる。

 ドラマなどである、札束を新聞紙で包んで「煉瓦」にすることは、現実にはありえない。

 新聞紙の断片から、地域も日時も特定されてしまうから。

 そんなメモリアルな記録を持って行っても、相手が門前払いにする。

 対して、キオスクの紙袋は、証拠能力を持っていない。

 それを拒むと言うことは……男達の目から、笑みが消えた。


 半ば強引に、釉葉から「失礼します!」と紙袋を奪い取った男達は、袋の口を開けて……絶句した。

 ロープに鞭に、黒光りするレザーのブーツと手袋。

「……えと……裏にパトカー停めてるから、ちょっと来てもらえる……よな?」


 紙袋の中身がイメージさせるものは、1つしかなかった。

 とすると、コートの下は?

 期待半分にコートを脱いでもらったが、残念ながらスーツ姿だった。

 スーツの襟元からはブラウスも見える。

 これ以上脱いでもらって「任意」は通らない。

 が、ブラウスの下は……おそらく間違いないと、2人の刑事は確信した。


 現職警察官である吉本巡査部長との婚約を機に、警察は柚葉の身辺調査を行ったが、プロフィールに1つ空欄があった。

「趣味」だ。

 勤務先から肉親縁者に卒業校のOBまで。

 本人のみならず会社まで枠を広げて、犯罪歴や非行歴、資産状況なども調べ上げているが、「趣味」の蘭には苦し紛れに「ドライブ」と入れてある。

 と言っても、マンションから東灘への通勤には電車を使っているし、1ヶ月数回実家に戻るのに使うくらいだ。

 10年前の、旧ローバーミニに似せたダイハツの軽自動車を大切に乗っているから「車好き」としただけで、趣味らしい趣味は見つけられなかったのが現実だ。

 が……確かにこの「趣味」は、彼女にとっても極秘だろう。

 考えてみれば、彼女に対する周囲の評価は総じて好意的なものだが、突っ込んで聞くと少なくない人数が「こわい」という。

 具体的に何が怖いのかは、言った本人にもわかっていないようだったが、おそらく本能的に。

 それが彼女からにじみ出る、Sっ気に反応しているとすれば……パズルのピースがピタリとはまる。


 刑事達は、別件のネタがないかと袋をひっくり返してすべて出してみたが、ナイフもハサミもなければ、蝋燭どころかマッチもライターも持っていなかった。

 釉葉はタバコを吸わないので、ライターを携帯する習慣はない。

 ポケットの中からも、ライターは見つけられなかった。


 ちょっとした軽口とカマかけで、刑事達は

「吉本、帰ってきてるん?

 てか、あいつ、こんな趣味あったんや」

 それに釉葉は口をとがらせ、

「吉本さんに趣味があったら私も楽なんやけど……全然で。

 それでも、横にいてくれたら、それなりに辛抱もできたんですけど……どっかに出張中で電話も通じんし」

 刑事2人の顔を相互に睨みつけて

「まだ独身やし、長期出張中で音信不通やし、グレイゾーンってコトで、握っとってもらえんかなー?」

と、舌を出した。

「まー。新婚家庭ができる前に壊したらこっちも夢見が悪いし、上にも……もちろん吉本にも黙っとくわ。

 けど、吉本が帰ってきたら、もうアカンで!」

「アカン思うんなら、さっさと出張切り上げられるように、鈴村さんに言うてよ!」

 ああ。あの一瞬の目か。

 返事の代わりに失笑を漏らすが、鈴村警視にどうこう言える立場に、自分たちはない。

「あ。さっきタクシー待ってたみたいやけど、この車で送ろか?

 ちょっとのつもりが、結構時間取らせてもうたし」

「なら、福原まで!」

「タクシーで行き!」

 釉葉を降ろして走り出したパトカーの中で、2人は堪えきれず爆笑した。


 パトカーを降ろされた釉葉は、本当にタクシーを拾い、本当に福原を目指した。

 おそらく、冗談でその場を終わらせはしたが、車内のやりとりから柚葉の動向は、相変わらず探っているに違いない。

 タクシー無線を集中管理している会社は警察官の有力な天下り先だし、そこを通じて情報が回るだろう。

 なら、変に小細工などせずに福原に行けばいいと、釉葉は考えた。


 夜の福原は、前回昼間に来たときよりも、はるかに五月蠅くケバケバしく、明るかった。

 夜の街らしく、ほとんどの店がシャッターを開け、ネオンも下品に賑やかだ。

 横断歩道を渡ってすぐの酒屋に釉葉は入り、陳列棚から四合瓶を手に取った。

 レジに行って会計をしようとしたら、予想以上に高かった。

 どこか地方の銘酒かもしれない。

 考えてみれば、居酒屋や飲み屋が仕入れるのなら一升瓶で、四合瓶は主に贈答用になる。

 となると、多少プレミアがつく方が、回転が良くなる。

 もちろん、値札シールは剥がしてもらった……というか、レジで何も言わないウチから、店員が勝手に剥がしてくれた。

 それをそのまま受け取り、手に提げている紙袋に入れた。


 通りに戻ると、釉葉は流しのタクシーを拾い、今度は垂水に向かった。

 ここからは、警察も追跡不可能だろう。

 釉葉を見失ったとしても、どこかのホテルに入っている可能性が高いし、それらを総ざらえするとは思えない。

 まして、アングラ系の秘密倶楽部となれば、マンションの一室だったりして、監視カメラでも追い切れない。

 酒瓶1本買っただけでタクシーを乗り換え垂水に向かう可能性まで気がつくとは思えない。

 できるとすれば、名探偵でも名推理でもなく、ただのストーカーだ。

 自分に警察の尾行がついていると知ってから、釉葉の対ストーカーセンサーは、つねにONにしている。


 スマホの地図アプリから、目的地近くのランドマークに郵便局を見つけた。

 その郵便局を運転手に告げる。

 もちろん、この時間に郵便局は閉まっているが、ランドマークとして使う人は多いだろうし、少し歩く羽目になっても、バカ正直に目的地に横付けさせるのは、間が抜けすぎている。


 郵便局でタクシーを降りて、目的の県営団地まで1kmもない。

 もっと近くのランドマークにはコンビニもあるが、地域密着の県道脇コンビニにタクシーで乗り付けるバカはいないし、近くで事件や事故があったとき、コンビニの監視カメラをチェックするのは、もはや捜査の基本ですらある。

 それくらいなら、ほんの少しくらい余分に歩けばいいと、釉葉は……垂水という土地を油断していた。

 海岸線に張り付くように、ほんのわずかの平地部分に鉄道のレールや国道が走り、国道の両脇に商店や会社がならんでいるが、民家となると、昔からの旧家や職住隣接の会社兼住居以外は、ひたすら山だ。

 アプリ地図の平面図ではわからないが、坂を上り続けるのは、さすがにきつい。


 それさえ耐えれば、垂水の住所、まして県営住宅は、一見さんにも優しかったりする。

 というのも、山を削って少しの平地部分を作っては家を建てている、いわば段々畑の住宅地バージョンで、下から上に番地が大きくなるのと、横並びの家は番地の上数字が同じだ。

 東から西に番地の下数字が大きくなる。

 いわば、斜面に作られてはいるが、京都と同じ定盤制だったりする。

 もちろん、やはり京都と同じようにローカルルールで例外が散在するが、こと県営住宅には例外がない。

 たとえば「県営住宅 3-7」とあれば、下から3段目、東から7軒目の家とわかる。


 釉葉は目的地の住所、住宅の前で足を止めた。

 この住所は、以前(元)人事部長が離職票を持ってきたときにチェックしている。

 会社でも経営側に立てば、地位が人を作るというか、名刺の住所を一瞥すればしばらく記憶を保てるようになる。

 短時間であれば、番地はもとより、7桁しかない口座番号くらいも覚えていられる。


 目的の家は、小さな庭のある戸建てだった。

 庭はあるが門はなく、チャイムは玄関脇にしかないらしい。

 釉葉は少し考えて、紙袋からブーツを取り出し、今まで履いていたパンプスと履き替えた。

 パンプスは紙袋に戻す。

 赤い手袋をした指で、玄関チャイムを押した。

 家の奥からピンポーンという音が響いたが、反応はない。

 が、外から見た限り、窓に明かりはついていた。

 2回、3回と押してみたが、やはり反応がない。

 留守か居留守か、無駄足らしいのできびすを返したところで、背後に気配を感じた。

 首をひねると、玄関ドアののぞき穴が、白から黒に変わった。

 陰が室内灯の光を遮っている。

 こっちを見ている。

 釉葉はのぞき穴に向かって深々と頭を下げ、営業用スマイルを浮かべて「こんばんわ」と首を倒した。


 それから身体を起こし、紙袋から福原で買った四合瓶を取り出してラベルを見せた。

「お見舞いと思ったんですが、お忙しいようでしたら………でなおしますけど?」

 釉葉がそう言うと、ガチャという鍵の開く音がして、程なく玄関ドアも開かれた。

「おじゃまします」

 玄関に入り、後ろ手にドアを閉めた。


 戸建てではあるが、玄関ホールの広さは柚葉の住むマンションと大差ない。

 玄関ホールと言うよりも、単なる靴脱ぎ場とスリッパ置き場だ。

 が、スリッパの代わりにコンビニの袋にゴミが詰められて、廊下の両端を埋めている。

 人一人がやっと通れるくらいは床が見えるが、とても妻帯者の住処には見えない。

 釉葉は

「お世話になりました。こちらつまらない物ですが……お怪我にさわらないのでしたら、どうかと思いまして」

 四合瓶の口をつまんで右手に持ち、それから少し声のトーンを落として

「失礼ですが、奥様は?」疑問を口にする。

 松永は

「ああ。熟年離婚とかやなくて、実家の和歌山の方に帰ってますんや。

 自分も誘われたんですが、この歳で和歌山の田舎暮らしができるか不安ですし、ちょっと垂水で一服して、いけそうなら追々と」

 なるほど。

 釉葉も同世代の中では出張が多い方で、東京には月に1回、大阪ならそれこそ日帰りで何度となく行っている。

 アメリカにホームステイもしたが、終の棲家を考えると、やはり神戸しか思いつかない。

 適当に田舎で適当に都会で、気候も温暖だし、四国のような干魃もない。

 頷く釉葉だが、用件は済ませておこうと考えた。

「お見舞いと慰労金で、ウチの方から、オリハラの退職金とは別に、少しですが包ませていただきました」

 そう切り出す釉葉に

「まぁ、玄関先で立ち話というのも何ですから、上がってください。

 っても、ご覧の通り散らかっていて、お客様が座れるか……わからんですけど」

 自嘲を浮かべる松永だが、やはり玄関先で金の話は、ご近所が聞いていないとも限らないからイヤだろう。


「じゃあ、お邪魔します」

 そう言うと、釉葉は瓶を右手に持ったまま、ブーツの左足のヒールを、右足のヒールで押さえた。

 と、いくら左手を壁に添えているとはいえ、その手首には紙袋がぶら下がっている。

 それで実質ヤジロベエのように1本足で立ち、慣れないブーツをいじりながら会話も途切れさせないなんて芸当は無理がある。

 バランスを崩し、とっさに右手を振ってバランスを保とうとしたのがいけなかった。

 あるいは右手だけなら、何とかなったかもしれないが、右手の先には四合瓶という「重さ」と「長さ」がある。

 靴箱の角に四合瓶を打ちつけてしまった。

 それも、結構な勢いをつけて。

 瓶の下1/3ほどが砕け散った。


「あちゃ!」

「大丈夫ですか!?」

 何を心配しての「大丈夫」か、とっさに口にした松永にもわからないだろう。

 つい、口から出た。

 ついといえば、思わず足が出て、釉葉に駆け寄り、釉葉の身体に手を伸ばす。

 その手の下をかいくぐって、釉葉の右手が伸びた。

 割れて底の抜けた四合瓶を持ったまま。


 すっ


 手応えも抵抗も全くなく、本当にすっと松永の腹に、四合瓶の半分が埋まった。

 現実に日常レベルで、割れたガラス片よりも鋭利な物は存在しない。

 ほんの少し前、電子顕微鏡が今ほど高性能でなかった時代には、板ガラスを割って破片をピンセットでつまみ、それで検体を削るのが、生物系学部1年生の主な活動だった時代さえあった。

 細胞を破壊することなく切断するという目的に限れば、ガラス片は日本刀をはるかに凌駕する。

しかも、硬度は鉄と同じ「7」。

 それが衣服や人間の身体に向けられたときには、骨すらもあっさり切断する。


「え……?」

 松永に痛みはなかった。

 ただ、自分の腹に突然刺さった四合瓶が信じられず、とっさに抜こうと手を当てたが、釉葉のブーツのつま先がそれを制して瓶の頭を押さえた。

「抜いたら死ぬで?」

 何を言っているのかも、何が起こっているのかも理解できず、松永は声の方を見た。

 釉葉は顔色一つ変えず、幾分声は抑えているが淡々と、きわめて冷静に告げた。

「この前、三宮の横断歩道でチンピラが死んだやろ?

 あれな。刃物抜かずに病院に駆け込んでたら、たぶん助かってん。

 でな。今の自分もソレ抜かんと、すぐ救急車呼んだら、たぶん助かるよ?」

 入院中と退職後、松永は暇にあかしてひたすらTVを観ていた。

 ワイドショウやニュースで言っていたチンピラの死因は「失血死」で、刃物を抜いたことが致命的だったと専門家とやらが言っていた。

 昔観た映画かドラマでも、似たような台詞があった気がする。

 ただ、「今なら」だ。

 医学知識のほとんどない松永に、「今」がどれほどの猶予があるのかわからない。

 自分の腹に刺さった瓶の周辺は、目で見てわかるほどにシャツに赤いシミが広がっている。


 自分が気にしているからかとも松永は思ったが、最初は全く何も感じなかった腹が、今になってうずく気がする。

 ただ、耐えられないほどの激痛ではないから、釉葉が自分に拷問を加えようというのではないだろう。

 殺すつもりならば、自分が抜こうとしたとき、つま先で制さなければ、今頃は三宮のチンピラと同じように、自分は死んでいた。

 つまり、殺そうとも思っていない。

 単にタイムリミットを設定しただけで、形の上では「誤って、割れた瓶が刺さっただけ」であり、傷害事件になるかすら妖しい。

 問われることに答えれば、あるいは逆に「示談金」名目で「謝礼」すらあるかもしれない。


 社長の運転手として、釉葉の言動は、それなりに知っていると松永は思っている。

 釉葉は、しばしば手順と結果を逆にする。

 今回も、先に瓶を割って「刺すぞ!」と言えば、こちらも大声を出すなり身をかわすなり逃げるなり、対応はいくつも思いつく。

 が、先に刺してしまえば、「抜いたら死ぬよ?」で、いざとなれば本当に抜けばいい。

 相手に選択肢を与えない、普段の、つまりは冷静なときの釉葉だ。

 冷静と言えば、松永は自分自身が今、冷静なことに驚いていた。

 鈍い痛みはあるし、死の恐怖もある。

 しかし助かる方法もあれば、助けてくれる人物が目の前にいる。

 彼女は、最短で回答を得たいだけで、命乞いも、まして自分の命も欲していない。

 彼女に納得のいく「回答」が得られれば、それ以上は望まない。

 ならば……松永は目で、釉葉に「質問」を促した。


 ドラマや映画で名探偵が、終盤に長々と推理を披露する気持ちが、釉葉には今、少しだけわかった気がした。

 相手は目でそれを促し、黙って聞き入ろうとしてくれる。

 それも、本気で、必死で。

 ドラマの名探偵を別にすれば、こんなチャンスは、人生でもそう多くはない。


「鉄砲撃った実行犯は、長田の暴力団の幹事長やろ?

 バイク運転してたのは、舎弟頭とかいう人。

 松永さんの通帳控え、ちょっとした筋から見せてもろうたけど……自分インサイダーやってたよな。

 てか、インサイダーやってる人に情報流して、情報料もろてた。ちゃう?」

 松永は黙ってうなずいた。

 ここまでは、実行犯も含めて間違いはない。

「で、インサイダーやってたのがその暴力団。

 こっからは多分になるけど……この前大阪の会社買おうとして、ワリが合わんくなってやめたやん。

 ウチが本気で買い入れる直前にアホほど高騰して、な。

 あれ、味見に1万株買ったところで暴力団が先走ったんちゃう?

 結果、暴力団は高づかみして、大損出した、と」


 松永は膝をついたまま、腹に刺さった瓶を押さえて、額から吹き出す脂汗に目を開けることすら苦しくなってきた。

 助けを呼ぼうと、あるいは釉葉の問いに答えようとしてでも、口を開けば、そこから出るのは声ではなく、血か……あるいは内臓か。

 瓶を押さえているのは自分だが、その「重さ」は、石というより岩のようだ。

 もちろん、押さえている手を離せば「重さ」から解放されるだろうが、そこから吹き出すのは、可能性ではなく、口から出そうに自分が思っている物。

 顎をがくがくさせて、肯定を伝える。

 それを見て釉葉は、

「動機は逆恨み……やな?」

 松永の動きに変化はない。

 顎を上下にがくがくさせているだけだ。

「したら、逆恨みされたんはお父さん?松永さん?」

 待望の「質問」、それも簡単な二択だが、松永は返事ができない。

 口を開けるのがコワイ。

 それを見て釉葉は、

「瓶の中にたまった血が、おなか押してるんよ。瓶の蓋開けて少し血を逃がしたら、たぶん楽になるよ?」

 言われて松永は四合瓶のスクリューキャップを回そうとしたが、指に力が入らない。

 親指と人差し指の又を使い、指ではなく手首の、腕の力を振り絞って、ようやく回せた。


 少し回しただけで、瓶の蓋は勝手に回り、勝手に飛び出した。

 シャンパンのコルク栓のように。

 そして、やはりシャンパンのように、血が噴き出す。

 蛇口ではなく、口をつまんだホースのような勢いで。

 慌てて掌で蓋をする。

 この血は、目に見える「自分の命」だ。

 彼は老境になって、生まれて初めて自分の命が減っていくのを、その目で見た。


 拷問じゃない?

 確かにそうだ。

 釉葉が求めているのは、回答ではなく、自分の推理を黙って聞いてくれる相手。

 腹の四合瓶は、「重さ」だけではなく、今では焼けた鉄のように熱く感じる。

 が、はなせば……自分は死ぬ。

 殺す気はない?

 それもそうだ。

 ただ、「わざわざ」がつく。

 勝手に死ぬのならば、それを停める義理は彼女にはない。

 殺虫剤の直撃を受けたハエや蚊、あるいはゴキブリを見る目をしている。

 自分が、人間一人死んだくらいで動揺する娘ではない。

 むしろ、手を汚さずに勝手に死んでくれれば、ラッキーとすら思うかもしれない。

 そもそも、人を殺すということに、気負いも恐れもないから、殺気も怒気もなく無造作に手が下せたのだ。


 掌と瓶の隙間、瓶と腹の傷口から漏れる血は、跪いた松永のズボンを濡らし、トマトジュースの入ったコップを倒したように、床に広がっていく。

 血とともに薄れそうになる松永の意識をつなぎ止めていたのは、皮肉にも腹の激痛だった。

(早く問うてくれ!)

 そう願う松永だったが、釉葉は眺めているだけだ。

 と……「問い」は放たれていた。

 柚葉は回答を待っているのだ。

 その「問い」とは………

「自分へのケジメと脅しで………

 それで社長が巻き込まれても……くらいかと……」

「ふーん。そのケジメの1番目が自分の口座から、情報料を利子つけて、全部抜いた。

 お金の動かし方から思うんに、通帳とはんこは暴力団で、松永さんがキャッシュカードやな。

 けど、組が出した損のが大きいから、もっと追い込みかけたのが、銃撃?脅し半分の。

 したら、松永さんがばっくれた、と」

 松永は激しく首を上下に振った。

 腹から下には全く力が入らなくなっているが、そのぶん上半身は、大げさすぎるほど動き、自分でも抑えが効かない。


「うん、ありがと」

 釉葉は、血の海に座る松永に、暢気すぎるほどに軽い返事を返し

「救急車呼ぶわ。ケータイどこ?」

 助かった?

 松永はかすかに息を絞り出し、

「奥の布団。枕の横に………」

 携帯電話を手にする釉葉だが、「119」を押す前に何か気がついたのか

「暴力団の担当、なんて登録してんの?

 もう松永さんに手を出さないようにしてあげる」

 松永への「示談金」を相手に回して、それで双方を黙らせるつもりか?

 それで暴力団が満足するとは思えないが、暴力団の矛先が釉葉の方に向かえば、たしかに自分は自由になる。

 頭が回っていない。

 その場をしのぐことしか考えられない。

 と………

「カンジチョウです」


 暴力団関係者を本名で携帯電話に登録するバカは、普通はいない。

 いたとして、釉葉は幹事長のフルネームを覚えていない。

 ならば、登録した本人に尋ねればいいと、単純に考えた。

 そしてコール。

 数回の呼び出し音のあと、こちらが名乗る前で怒声が聞こえた。

「おら、松永ぁ!どこに隠れとんじゃぁ!どこでも追い詰めてケジメ取るぞぉ!」

 それに釉葉は抑揚を押さえた営業トーンで

「申し訳ございませんが、松永はお会いしたくないと申しております。

 些少ではございますが、お預けしております口座に手切れ金を用意させていただきましたので、それでご了解ください」

「だれじゃぁ!わりゃぁ!」

 それには答えず、釉葉は電話を切った。

 リダイアルがあると面倒くさいので、通話ボタンを押し、ガラケを開いたまま松永の前に置いた。

「あっちは終わり。

 指1本動かせたら、救急車呼べるやろ?」

 松永は携帯電話に覆い被さるようにして、瓶を押さえたまま掌をいっぱいに広げ、小指を棒のようにして、身体全体を使ってダイヤルしようとした。


 ぐに。


 いつの間にか立ち上がっていた釉葉は無造作に、何の躊躇もなく、うずくまる松永の首の付け根を踏みつけた。

(え?)

 その意味と結果を、松永が理解することはなかった。

 底の割れた四合瓶が背中に抜けたから。

 瓶の中には、生態サンプルというよりも、地質調査のボウリングサンプルのように、肉が層を作っていた。

 あふれ出す血は、程なく勢いを失った。


 釉葉は玄関を出ると、ブーツからパンプスに履き替えた。

 ブーツに付いた血を手袋でぬぐい、その手袋をブーツに詰める。

 JR垂水駅前でタクシーを拾い、芦屋の実家に帰って、自宅の焼却炉で紙袋もろとも燃やした。

 それが灰になったのを確認して、三宮のマンションに戻った。

「めんどくさー」

 シャワーを浴びて一言愚痴て、ベッドに倒れ込む。

 疲れもあるが、自分のベッドはやはり安らぐ。

 朝まで熟睡した。

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