第13話
数日が過ぎて、松永運転手の退職手続きが完了したという報告があって、釉葉は銀行へ向かった。
病院内にも支店が置かれているが、あえて本店へ。
オリハラくらいの会社になると、逆に給与振り込みに使われる銀行は少なくなる。
全国スケールの都銀が1つに、地元の第1地銀が1つ、そしてオリハラの工場や支社のある土地の第2地銀か信用金庫が1つだけだ。
1万人に近い従業員の望む口座にいちいち振り込んでいたら、マンパワーの無駄遣いだし、その手数料だけで、すぐ億の単位になる。
銀行を絞ることによってコストカットというか、たいていは無料にしてもらえる。
それを担保と実績にして、新規融資も得やすくなるというオマケつきだ。
営業職や管理職で全国を飛び回る幹部社員は、振込先にだいたい都銀を希望する。
第2地銀や信用金庫は、地元密着以上に、その選択の裁量を支店長や工場長に預けている。
彼らは、振込銀行の指定を得たい金融機関から接待を受けるだろう。
オリハラとしては、全くコストをかけずに彼らの懐を暖めるとともに、それだけの地位にいる彼らは、やがて本社に幹部として戻ってくる。
接待を受けたという、負い目と義理を一緒に持って。
彼らの抜けた支社や工場では、彼らの実入りにあこがれた若手が切磋琢磨し、ほおっておいても生産性が上がる。
「3番目の金融機関」は、末端従業員の利便性よりも、将来の幹部候補に向けて吊されたニンジンだ。
松永運転手は、本社勤務でもあるし、まず地元地銀で間違いないだろう。
毎月の給与が振り込まれている以上休眠しているはずもなく、ならば本店に行けば一発でたどり着ける。
釉葉は本店に入ると、受付機の「その他」のボタンを押した。
しばらく待つと「資産運用」の札が掲げられたパーティションスペースに案内された。
曇りガラスで左右をふさがれた、それなりにプライベートな話ができる空間だ。
ただ、この程度の機密性では足りない。
対応に座った細面の銀行員に「オリハラの折原釉葉です。店長か……できれば頭取とご都合が合えばと思いまして」と、微笑みかけた。
銀行員の顔色が変わった。
エレベーターホールに案内され、5階に通された。
完全個室の応接室で待つこと少し。
廊下と反対側の奥の扉が開き、本店店長が入室して、深々と頭を下げた。
中央のテーブルを支点にして180度立ち位置を変え、上座に促されて柚葉が座った。
「お久しぶりです」
釉葉が切り出す。
「オリハラ」の名前を出したが、東灘の会社でもこの銀行と取引はあるし、この本店店長との面識もある。
「お世話になっております。頭取は先客がございまして、そちらが終わり次第駆けつけると申しております」
……さすがだな。
柚葉は思った。
釉葉の切り出す話がわからない以上、法律に触れかねない話ならば彼の独断専行にしてしまえるし、断って角が立つのも彼だ。
あまりに些細な話や、逆に銀行の屋台骨を揺らしかねない大きな話ならば「先客が片付いた」で、頭取が出てくればいい。
そのチェックのため、間違いなく盗聴はしているだろうが、それを記録しているかというと、いいとこ五分五分だ。
グレイゾーンの話は、気配だけでつっぱねる清廉潔白さが金融機関の理想だが、それで商売ができる銀行などない。
かすかにリスクをかすめながら、そこを食べるのが銀行の本業とも言える。
そのために、なまじ録音などしていて、問題が露見してから慌てて消去などしたら、証拠隠滅などと責められて、かえって傷が大きくなる。
それくらいなら、初めから記録を残さない方がいい。
オリハラは、地銀とはいえ第1地銀であるこの銀行にとって、取引額は銀行全体の1%にも満たない。
ただし、安定して長期取引ができる1%は、書類データだけでオンライン上を動き、この銀行をトンネルとしてしか使わない一瞬の5%よりも重い。
身構えて息を止める店長に、釉葉はあっけらかんと
「ウチの運転手さん。
そう、お父さんの巻き添えでケガさせてしもうた人、辞めちゃって。
退職金は出すようにしたけど、ウチとしてもお見舞いとかお礼とかいろいろありますやん?
で。振り込みたい思うたんですけど、人事が個人情報とかやかましいから……人事部長、飛ばれしちゃった」
そう言って、笑顔で舌を出した。
が、すぐ真顔に戻り、
「で。こっちでわからないかなって思いまして………」
「まずい!」
その会話を別室で聞いていた頭取は、思わず椅子から立ち上がった。
個人情報ではあるが、退職した運転手なんて、銀行としては何も怖くない。
漏らしたところで、彼女なら情報源としての銀行を晒すことはないだろう。
が、建前上は、顧客の個人情報は、絶対に漏らしてはいけない。
かといって、杓子定規にシャットダウンするならば、取引停止も視野に入っているということを、「人事部長」を比喩に使って宣言している。
「てにをは」に気をつけ、どう「ついうっかり」を演じるか………本店店長とはいえ、いまだ執行役員で 取締役にすらなっていない店長には、これは荷が重すぎる。
もちろん、本店店長を任せられるくらい、同期の中ではトップランナーの位置にいる彼だが、相手はオリハラの次期社長が有力視されているほどで、すでに一部上場企業の監査役に名を連ねている彼女だ。
誠実さと実直さだけでは、かなう相手ではない。
そんなものは求めていない。
それに店長が気づけばいいが……いや。気がつくようなら、とっとと取締役にあげている。
店長がバカな、教科書通りの受け答えをする前に!
「第9応接室」のプレートがかかったモニタールームを飛び出し、頭取は廊下を走った。
BMIが40に迫ろうかという腹回りと、年齢相応の足が、気持ちに追いつかない。
とっさにつかんだタブレット端末が重い。
ほんの20メートルも離れていない、釉葉達のいる応接室が遠く感じた。
それでも完走し、扉の前で息を整えて笑顔を作り、ドアをノックする。
返事を待たず、ドアを開けた。
「先客が長引いてしまって、申し訳ありません。
お手数ですが、もう一度お話をうかがえますか?」
釉葉は、店長にしたのと同じ話を繰り返した。
実のところ、「同じ話」というのが重要になる。
ウソを言う者は、ウソに説得力を持たせようと、話を繰り返すたびに表現が詳しくなったり、事象の前後が変わったりする。
逆に全く同じ話ならば、「完成させられた作文」で、やはり嘘とわかる。
わずかに表現を変化させつつ……それは「店長」と「頭取」という肩書きの違いによるアレンジ、または「現場」と「経営者」に対する具体性の違い、つまり誤差の範囲で収めつつ、趣旨を変えてはいけない。
銀行員という者は、このウソと表現についての嗅覚が鋭く、そのトップにまでたどり着いた頭取というのは、銀行で1番の嗅覚の持ち主だ。
話を聞いて頭取は、自分だけが見えるようにタブレットを傾け
「松永さんの口座は……ほかの支店で口座開設されたようですが、確かに当行で間違いありません。
本店の端末でも確認できますが……たしかに、今朝の開店と同時に入金が見えますが、残念ながらこれ以上は顧客情報になり、守秘義務が発生しますので、お嬢さんでもご覧に入れられません」
そういう頭取を、釉葉は無言で見ていた。
怒りも諦めもなく、ただ眺めるだけ。
「………」
「…………」
突然、頭取が胸を押さえ、胸ポケットからスマホを取り出して、数回相づちを打ったかと思うと
「すみません。先ほどの客がまだ何かもめているようで、ちょっと店長をお借りします」
そう言うと、店長を伴って応接室を出た。
釉葉が見たところ、頭取の手は、スマホ画面のバックライトに照らされて白く……なっていなかった。
釉葉は、オリハラという上場企業創業者にしてワンマン社長の一人娘だ。
その社長の入院中は、事実上のトップと言っていい。
あくまで一時的な代行だろうが、オリハラは代が変わるたびに方針も変わる、フレキシブルな企業ではない。
そして彼女は、数年前にM&Aをまとめ上げ、結果的にではあるが吸収先の社長一族を一家心中にまで追い詰めておきながら、それに同情するどころか、反動の芽が消えたことを喜んだという。
そこまで追い詰め、追い詰めるためのレールを引いたのは「たまたま」ではなく、彼女が意図して。
そのときの仲介をしたのがこの銀行であり、その縁でその会社のメインバンクにいるが、そこの監査役についているのが彼女だ。
そのルートに依れば、現場や支店を中核にしてシンパを多く持ち、非公認ではあるが彼女の「派閥」は、やはりオリハラから落下傘で就任した新社長のそれを凌駕しているとも聞く。
それでいて、新社長との関係も悪くないというか、2人がタッグを組んで現場と中枢が団結しているからこそ、その会社のV字回復があったと言っていい。
銀行としては、無碍に、杓子定規にあしらっても、メリットは何もない。
むしろ「ついうっかり応接室に忘れてしまったタブレットを釉葉が勝手に見てしまった」という、銀行としては「過失」、釉葉としては「故意」を演出して、恩を売っておく方がいいと頭取は判断した。
「故意と過失」というお互いのミスを共有することによって、双方の結びつきは強くなる。
もちろん、釉葉の前に伏せられたタブレット画面には、松永運転手の口座記録が閉じられることなく表示されている。
頭取達が退室してすぐ、釉葉はタブレットをひっくり返した。
ほんの数秒間、さっと見ただけで、元のように伏せた。
が、予想外に……数分間だが、頭取が部屋を開けた時間が長い。
もう一度見直そうかという誘惑もあったが、その場面を見られたら、舌を出しただけですむハズもない。
3分ほどで戻ってきた頭取に、
「先日はお父さんのお見舞い、ありがとうございました。
ご存じのように仕事人間で、ほおっておいたら手加減ができませんので、お時間がございましたら、またラウンドにでも誘ってやってください」
頭を下げる釉葉に頭取も、
「こちらこそ、今日はご足労いただきましたのにお応えできず、申し訳ございません。
凝り性の社長ですから、ゴルフもハマったら、すぐシングルになるかもしれませんね。
あ。私のハンディは20です」
「忘れないよう、メモしておきますね」
手帳を開き、釉葉の手にしたペンの頭が7回動く。
それを見て、頭取は釉葉がメモしたのが自分のハンディではなく、松永の口座番号だと気がついた。
釉葉が目を上げたところで、頭取と目が合った。
「振り込みでしたら、ここで手続きできますが?」
カマをかける頭取に釉葉は
「会社のお金じゃなくてウチからの個人的な振り込みですから、ちゃんと下で順番待ちますよ」
とかわす。
頭取は苦笑して、ポケットから「1番」の番号が振られた整理券、それも硬券を差し出した。
「では、こちらの番号でお待ちください」
そう言うと、たまらず失笑が漏れた。
柚葉も苦笑で返す。
釉葉をエレベーターホールまで見送り、扉が閉まってフロアを示すデジタル表示が1階に停まるのを見届けて、頭取は店長に言った。
「あれでまだ30前や。勝てるか?」
問われて店長は戸惑いしかなかった。
勝てるも何も、「勝負」なんてしていたのか?
そんな店長に頭取は、取締役までまだ遠いと感じた。
銀行1階のフロアで、釉葉は案内係の女性に、頭取から預かった硬券を渡した。
すぐ、この銀行に入って直行したパーティションスペースに戻された。
手帳を開いて、先ほどメモした口座番号を振込用紙に記入する。
支店名なんて、メモしなくても覚えている。
「720万円」という金額に、応対した若い男性銀行員が使途を尋ねてきた。
振り込め詐欺が多発しているので、マニュアルにあるのだろう。
釉葉は「退職した専属運転手さんへの慰労金で、お父さん……小さな会社の社長ですけど、了解をもらっています」と答えた。
やりとりが面倒くさいが、この金額ではATMが使えない。
釉葉は単にオリハラからの入金が280万円と端数だったので、足したら1000万円になると考えただけだ。
ただ、この銀行員の応対から、先ほどのやりとりは上層部で抱え込み、末端銀行員には伝えていないことがわかった。
さすがと言うべきか。
時計を見るとまだ午前中だったので、オンラインで即時入金がされているだろう。
となると………今夜か。
釉葉は窓から外を見た。
曇ってはいるが、雨が降る気配はない。
小さくルージュをなめた。
現場で預金通帳に日常から触れる銀行員は、たぶん気がついていない。
松永運転手の預金の動きが不自然なことに。
サラリーマンの口座への入金は、普通は1ヶ月に1回だ。
副業や株、あるいは先物やオークションをやっているのなら入金回数は増えるが、必ず端数が出る。
それが不定期に10万円ぴったりとか5万円ぴったりとなると、それは「誰か」が入金しているという意味になる。
そして先ほど、釉葉が「280万円と端数」とすぐわかったのは、その入金の前に口座残高が「端数」しかなかったから。
直前にほぼ全額が引き出されていた。
転居や引っ越しがあれば、むしろ口座に残高は残す。
松永ではない「誰か」は、何を意図したのか。
釉葉は、ようやく「本丸」の影が見えた気がした。
病院に戻った釉葉は、父親に振り込みが終わったことを告げた。
「どんなや?」
父親の問いに釉葉は部屋の隅に目をやった。
オリハラから回されてきた秘書室の職員が、聞き耳を立てている気がする。
「まー、日本地図のパズルみたいやなー」
その返事に、折原社長は「うん?」といぶかしむが、釉葉は
「全体の形はわかってるし、関西とか……北海道や沖縄もわかるんよ?
関東でも千葉はわかるけど……群馬や栃木や山梨なんて、ひっかけやん?」
「……できるか?」
「ショウがみたいのが岐阜で、サツマイモみたいのが長野やろ?
長野ならツテはあるし、ちょっと行ってみようかって思うてん」
もちろん比喩だ。
他人が聞き耳を立てている中、バカ正直にリアルな話をするような父娘ではない。
聞いた方は、2人の立場を考えるなら関東進出を考えている可能性か、あるいは長野と岐阜の県境あたりにICの工場を建てるつもりかと考えた。
岐阜と長野の県境は、潤沢できれいな水があり、「日本のシリコンバレー」と呼ばれて久しい。
関東進出の拠点が千葉。
都内に土地を買って会社を建てる予算があれば、千葉なら集積ステーションも可能だ。
交通インフラで、都内との時間差は、誤差でしかない。
群馬や栃木といった北関東は、東北や北陸への進出拠点になる。
もっとも。もっと単純に日本地図を覚えようとしているだけかもしれない。
もちろん、その後に含みはあるだろうが、関西人は少なくない比率で、北関東を覚えていない。
実は九州や四国も、県名は覚えているが、位置関係があやふやだったりする。
「ゆーワケで、今日の夜、ちょっと長野に行ってみようかなーって」
言う釉葉に、折原社長はわずかに口角を上げた。




