第12話
翌日、父親の番を秘書室からの応援に任せて、釉葉は松永運転手の見舞いに労災病院に行ったが、無駄足だった。
すでに退院してしまっていた。
最近は病室の回転をよくするため、軽度の加療やリハビリなら、とっとと退院させるのが主流だが、それにしてもせわしない。
オリハラに戻って人事に確認すると、すでに退職届も出されているという。
松永運転手は、秘書室所属の契約社員で、契約期間中の自己都合退職には退職金が出ないが、釉葉は正社員に準じた計算式で退職金を払うよう指示した。
およそ300万円ほどになるらしい。
人事が言うには、退職と同時に貸与している社宅も出たらしい。
なら、折原家からも、慰労金とお見舞いで、幾ばくかの色をつけた方がいいだろう。
転居には、礼金敷金で少なくない現金が必要になるが、あの年齢ではローン審査も厳しい。
あるいは、身一つで子供の家に同居というのもあるだろうが、それにしても幾ばくかの蓄えがあるとないとでは、待遇が変わってくる。
そう言う釉葉に秘書室長は「確かにその通りで、気持ちもわかりますが」と言葉を濁す。
人事部長と経理部長を呼び出した。
退職金に慰労金を加算したいという釉葉に2人は異口同音に、会計処理の煩雑さを訴えた。
退職金はともかく、慰労金は贈与と見なされ、そうなると税率も変わってくると。
って……釉葉は少し苛立ちを覚えた。
「やったら明細分けたらええやん。
ちゃんとした数字出してくれたら、残りは折原家から直接振り込むわ。
口座、わかるな?」
秘書室長と経理部長は安堵したが、人事部長はかたくなだった。
なまじ振込口座を把握しているだけに、ここでよかれと便宜を図ったことが個人情報漏洩ととがめられかねない。
むしろ杓子定規に愚直である方が、おそらく安全だ。
まして釉葉は、社長令嬢とはいえ、会社組織図上では全くの部外者だと判断した。
「個人情報に当たりますので、お答えしかねます」
…………。
しばしの沈黙のあと、釉葉は
「管理本部長呼んで!」
鋭く叫ぶ。
「株主権限で、臨時株主総会を呼集します。
私の個人所有する株式で呼集できますし、明日には委任状込みで70%の議決権を確保できます。
議案は、取締役管理本部長と人事部長の解任について!」
人事部長は言葉を失った。
あるいは思考そのものを失っていたかもしれない。
オリハラは東証に上場しているとはいえ、2部だ。
それは、このような事態が起こりえるから。
それでも、形の上では一人で過半数を保有する株主はいないが、今は釉葉の言うとおり、議決権の70%を彼女が自由にできる。
その彼女に逆らっても愚直であれば安全なんて、そんな担保はない。
ひょっとしたら、社長と直接面識があり、それなりに雑談もできる管理本部長なら、多少序列は落ちても……「管理本部長」の肩書きは奪われても、無所属の平取締役に留任の可能性はある。
が、人事部長が役職をとられたら……たとえ会社に残れても、そう遠くないうちに些細なミスを理由に解雇されるだろう。
そのときは、松永運転手とは逆に、出るはずの退職金も出ない懲戒解雇となるかもしれない。
経理部長と秘書室長は、目の前で1人のサラリーマン人生が終わるのを見た。
「しゃ……社外秘ではありますが………お嬢さんは……」
ようやく絞り出した言葉を遮って
「部外者は退席しなさい!」
「!」
それだけで一礼することも忘れ、ドアノブに手を伸ばした。
その瞬間、タイミングを合わしたように、取締役管理本部長が飛び込んできた。
管理本部長は、人事部長のすがるような目に気がついたが、言葉を出すのを躊躇した。
ただ、ドアを開け放ち、社長室の外からも中が窺えるようにはしておいた。
咎められれば、それから閉めればいい。
社長室のリビングスペースに柚葉が座り、経理部長と秘書室長が背筋を伸ばして直立している。
何が起こっていたのかは今来たばかりでわからないが、仮にも取締役の列に名を連ねる以上、彼には今が失言の許されない状況だとは理解できた。
この並びなら、柚葉が社長の椅子に座り、その前に2人が立つという構図も作れる。
それが社長の椅子を空けて、わざわざソファに座っているということは、略式に見えて正しい席次に従った、正式な会議だということだ。
つい、釉葉の正面を避け、経理部長の隣に直立する。
「というわけで、取締役管理本部長と人事部長の解任を動議します」
今来たばかりで「というわけで」もない。
「それは……社長も同意されているのですか?」
ともかく言葉を繋いで、状況を把握しなければ。
なぜ解任動議が出されたのかはわからないが、一縷の望みをかける管理本部長に
「株主総会の決議は、取締役会並びに代表取締役の意思・決議に優先します!」
とりつく島もない。
役職柄、釉葉の人となりを同業他社や銀行・証券からも聞くが、異口同音に「後継社長の筆頭候補」「ワンクッションとして、専務または常務取締役」が内定しており、その手腕は峻烈で容赦がない。
それでいて末端社員や現場からの支持は強く、真ん中に挟まれて対立すればつぶされる。
株主としての臨時総会呼集なら、わずかだが時間はある。
時間はあるが、わずかしかないと言うべきか。
時間に余裕があれば、彼女の怒りをなだめることも、あるいは冷めるかもしれない。
状況を把握し、整理して、彼女の望む着地点に至れる可能性もある。
しかし、そんな余裕はなさそうだ。
「難しい話か?」
隣の秘書室長に小声でささやくのを聞き逃さず、釉葉は
「難しい仕事はイヤだ、簡単な仕事しかしたくないのなら、そうしてあげましょうって話です!」
ビクン!と管理本部長の背筋が伸びる。
と、ふっと釉葉が息を吐いた。
「頭に血が上って急いても、ろくな結果は出んわなぁ。10分休憩」
秘書室長・経理部長・管理本部長と(元)人事部長の4人は役員用男子トイレに駆け込み、事情を話した。
管理本部長は、膝から崩れそうになった。
ここがトイレでなかったら、本当に膝をついたかもしれない。
「そんな些細なことで………」
しかし、一度「できない」と言ってしまえば、「やっぱりできました」は言えない。
どう立ち回り、相手が望む情報を伝え、失地回復を図るかがテクニックだ。
(元)人事部長が「私が土下座してすむのなら」と、おずおず言ったが、それは下策に過ぎる。
もしそれで伝えようとしても、聞いてくれる相手ではない。
10分後、社長室に戻った3人に釉葉は
「お疲れ様。返事は明日の午前中でええよ」
とだけ告げて散会を宣言した。
そもそも聞く耳なんて持っていなかった。
翌日、釉葉は父親の病室で、ひたすら暇をつぶしていた。
見舞いも一巡して、VIPクラスは来ない。
ネットとパソコン使用の許可は出たが、機密レベルの高い情報をスクランブルもかけずにネットに流すバカはいないし、新聞はたとえ経済紙であっても「後追い」で「答え合わせ」以上の意味を持たない。
外国人がしばしば「日本ではまだファックスが現役なのか!」と驚くっていう小咄があるが、指向性と機密性では、まだファックスに一日の長がある。
もちろん、経済紙や業界紙に大きな見出しで「A社とB社が業務提携」とあればチェックをするが、調べるのは当事者そのものではなく、仲を取り持ったのが銀行か証券か商社かだ。
A社、あるいはB社が独立系ならともかく、どこかの系列であれば、そのグループの動向を読む。
幸か不幸か今は時間だけはあるので、グループのボトルネック、あるいはハブになっている証券や商社を突き止めることができないかと探る。
総合家電やインフラ系の大企業には手が出せないが、ハブは案外小さかったりする。
直接そこを狙うこともあれば、大手にツナギをつける窓口に利用できることもある。
欲を言えば、この手の提携話はしばしばチームではなく一人のエースの活躍があったりするが、そこまでは病室からネットや新聞では調べようがない。
「退院してから調べるリスト」に追加して、新聞記事を切り抜き、ノートに貼り付ける。
そうしてノートは厚みを増していく。
他方で、三面記事から折原社長襲撃事件の記事を探すが、こちらは全く何もない。
捜査が佳境に入り、マスコミへのリークを絞っている可能性は、ある。
鈴村警視が釉葉に「鍵」の可能性を疑い、万一の情報漏れを避けるため婚約者の吉本を東京に「出張」させているのも知っている。
それは、一般の捜査では有効な手法であり定石でもあるが、残念ながら釉葉には逆効果になる。
そもそも、「捜査本部」はカッコつきで(臨時)がつく。
自前の専従職員は持っていない。
いくつかの所轄署からエキスパートスタッフを引き抜いて作られる。
彼らの抜けた穴は、残った署員が埋めるが、エースを抜かれて残った署員の負担は増え、愚痴もたまる。
それが仲間内で交わされている間は「所轄署を超えた交流」で、県警全体の結束を固めるが、それにも限界はある。
あふれた愚痴が向かうのは、当事者能力があるようでないような人物。
旧知で、社会的信用のおける人物。
となると、コアになる三宮署はもとより芦屋署や西宮署員にも接点を持っていて、しかも警察官を婚約者にしている釉葉が浮上する。
鈴村警視が釉葉のことを「部外秘」にしているのもあって、残された署員はむしろ積極的に彼女に愚痴をこぼす。
あるいは、釉葉の隣に吉本巡査部長がいれば、上層部批判ともとられかねない「愚痴」は、控えられただろう。
もっとも、愚痴を言う方も警察官だし、捜査本部から見れば「部外者」で、直接的に有効な情報は漏らさないし漏らせない。
それでも、人事の動向はつかめる。
暴力団対策課はともかく、生活経済課などの経済犯罪部門からの出向が戻され、そのぶん刑事部や地域課からの引き抜きが増えているとなれば、広域の経済犯罪ではなく、ごく身内の犯行と見なしつつあることはわかる。
動きにくい。
いや!
釉葉はかぶりを振った。
そもそも動く必要はあるのか?
日本の警察力なら、ほどなく実行犯は特定され逮捕されるだろう。
いくら肉親が殺されかけたとはいえ、下手に動いて自分が逮捕されるようなことがあれば、せっかく助かった父親が悲しむ。
かといって、傍観していたとして……暴力団はトカゲのしっぽ切りが得意な組織だ。
言い逃れのできない実行犯はともかく、裏で画策した黒幕にたどり着けるだろうか?
たどり着けたとしても、今回死者は出ていない。
実行犯は銃刀法違反と殺人未遂でそれなりの懲役は受けるだろうが、黒幕はヘタしたら執行猶予すらある。
それが釉葉には我慢できなかった。
なまじ時間があるだけに、かえって焦りや堂々巡りの思考に悶々としている釉葉をたしなめるかのように、病室のドアがノックされた。
「はい」と応えると、「失礼します」と、昨日の取締役管理本部長と、(元)人事部長が入室してきた。
つい、舌打ちが出る。
昨日、釉葉がオリハラ本社で暴君のように振る舞ったことは父親に伝えているが、ここで社長に釈明して、処分の取り消しを求めるつもりだろう。
もっとも、一度「無能」の烙印が押されれば、仮に地位にとどまれたところで、未来はない。
暴君としてなら、まだ直接的な釉葉よりも、真綿で締め付け、乾いた雑巾を絞るような父親の方が、結果としては苛烈だ。
それを知って、可能性に賭けるのも……サラリーマンとしてはともかくビジネスマンとしてなら、リスクを取ってリターンを狙うのはありだ。
お手並み拝見と行くか。
小さく舌を出して、唇をなめた。
二人は折原社長に深々と一礼し、管理本部長がブリーフケースから1枚の書類を出してきた。
松永運転手の離職票だ。
住所も過去1年の給与も書き込まれ「退職理由」だけが空欄になっている。
「松永運転手ですが……現実には「本人都合」ですけれども、それだと給付開始までに時間がかかりますので、お嬢さんのお心遣いから「会社都合」としても……」
やばい!
父親が口を開く前に、釉葉が怒鳴った。
血圧を上げて、殺すつもりか!
「だぼっ!
このご時世に会社都合にしたら、助成金や補助金止められかねんし、求人もきつうなるんがわからんの!
公的書類はファクトベースで……やから内輪で判断できる退職金の話したんやんか!」
機先を制された形になった折原社長は、冷静さを取り戻して咳払いして。
「退職理由の改竄は、いま言うたとおり、アカン。
てか、そんなモンの確認に、わざわざここまで来たんか?
電話1本、メール1つですむやろ。
自分ら、そんなにヒマなんか?」
管理本部長の顔から血の気が失せる。
素早く書類を完成させ、直接足を運ぶことによって忠誠をアピールしようという目論見は、全くの裏目に出た。
「終わった……」
絶望にうちひしがれる彼に助け船を出したのは、意外なことに釉葉だった。
「松永さん、これの住所垂水になってるやん?
芦屋の社宅で登録してるんちゃうん?」
「離職票を提出するのは、住居地を所轄するハローワークが原則です。
もちろん、退職と同時に転居した場合などでは、旧住所でも受理されますが、後日新住所の住民票が必要になります。
松永運転手は、退職と同時に社宅を出ていますが、支給が早まった場合……社長の許可をいただいてからですが、住民票の移動手続きが間に合わなかった場合、それまで支給は開始されません。
ですから、新居を聞き出して、そちらを記入しました。
それを調べてくれたのが……こちらの人事部長です」
折原社長は、あきれたように長く息を吐いた。
退職理由の捏造・改竄は許されるはずもないし、本人都合の退職なら支給開始は3ヶ月先になる。
いくらお役所仕事とはいえ、住民票の移動は選挙権ともリンクしていて、3ヶ月も放置されることはない。
全く無駄にマンパワーを使い、それに気づかないどころか、むしろアピールポイントと考えているとすれば、バカだ。
少なくとも娘の言うとおり、人事部長の方は人間相手の仕事に適性がない。
が。人事部長や管理本部長というオリハラの中枢を知る人間の処遇は、慎重でなければならない。
「無駄な調査するほど……コイツに肩書き外されてヒマなんか?自分ら。
たしかに人間相手は不得手みたいやけど、いきなり管理本部長を任せられるヤツも思いつかんから、管理本部長は空席で、自分は管理本部長付けでどや?
臨時株主総会の方は、めんどくさいし、俺もこんな身体やから却下。6月の株主総会までは取締役に残しとく。
それで結果が出せたら首は残すし、適性があったら「付け」も取ってやるぞ。
アカンかったら……アカンかったってわかるな?」
ついで、人事部長に顔を向け
「人事部長が人間相手の仕事に適性がないんは、ちょっとムリやな。
管理本部長付けの下に、ただの「部長付け」ゆーんはアカンか?
外に向けても、社内でも「部長」使うてええぞ」
うまい!
釉葉はうなった。
6月までの株主総会までに目に見える結果が出せなければ管理本部長はすべてを失うが、成果を出せば元に戻れる。
がむしゃらに働くしかない。
そのための駒として人事部長を直属とするのは、マンパワーの補充だ。
無所属の「部長付け」であれば、逆に職掌に縛られず、便利に使える。
馬車馬のように、管理本部長がこき使うだろう。
それによって人事部長が疲弊しても、その恨みは管理本部長に向かう。
オリハラは全く失うものがなく、2人にハッパをかけて結果を出させる。
本当に無能コンビだったら……6月末というリミットも切ってある。
「管理本部長付けの部長」という肩書きは、鎹に見えて楔だ。
コンビはコンビだからこそ力を持つので、楔を打ち込んで割ってしまえば、何の力もない。
漫才のコンビでも、舞台上では仲良く見えて、プライベートでは食事すら一緒にしないという話を聞く。
コンビが解散し、ともに落ちぶれたときは、それぞれの憎悪はオリハラよりも相方に向かう。
うまく結果を出せば、元に戻れるという希望は、温情に見えて「パンドラの箱」だ。
一般には「厄災が飛び出したあと、最後に残ったのが希望」ととらえられているが、「希望こそが、最後で最大の厄災」とも言われる。
なまじ光が見えるからこそ、ムリや無茶、我慢もするが、その「光」は昨日までの立場に戻ること、つまり上積みされるリターンはない。
「そら、撃たれもするわな……」
釉葉が小さく呟いたのを、2人が聞き返したが、それには応えず
「で。本命は?
こんな報告で足運んだんとちゃうやろ?」
釉葉の問いに人事部長は背筋を伸ばし、
「お嬢さんが問われていらっしゃいました松永運転手の退職金が確定しました。
そのご報告と………口座もお伝えできれば……と」
そいや、そういう話がこじれたんだったっけ。
「ふーん。いくら?」
「約280万円です。口座は……」
「個人情報な。漏らしたら、いきなり減点やで。自分ら」
二人は思わず口をつぐんだ。
社長の目の前で、さらにこの父娘がそろっているところでの失点は、いきなり致命傷になる。
「申し訳ございません!」
この程度では失地回復させないつもりだ。
本業で、目に見える数字をあげなければ。
営業部であれば売り上げという数字をもっているが、管理本部ではそうもいかない。
舌先三寸で切り抜けるには、この父娘は手強すぎる。
管理本部長は、おもわず人事部長を睨みつけた。
こいつのせいで!
その様に、父娘は内心ほくそ笑んだ。




