第11話
釉葉の車が会社の駐車場を出るのを確認して、社長は懇意にしている証券会社の法人担当課長に電話を入れた。
内容はとても電話で話せるものではないが、呼び出して直接なら、突っ込んだ話ができるから。
「株券」なんて物はすでに廃止されて久しい。
上場企業のそれはすべてデータ化され、オンライン上で動く「数字」に過ぎない。
呼び出した法人課長の証券会社が、「どこの誰かも知らない」相手の窓口になっていなくても、オンライン上で繋がっている以上、他社であっても調査はできる。
時間は……ない。
釉葉がスタートを宣言した以上、彼女も同じ手段をとることに躊躇はないだろう。
スピード勝負だ。
「社長になってからも、まだ査定か」
彼はひとり愚痴た。
釉葉は愛車ミラジーノを三宮に走らせた。
セカンドバッグから聞き慣れないアラーム音が鳴った。
スマホはマナーモードにしているし、そのほかでアラーム音が出る物と言えばPHSくらい。
PHSにかけてくるのは、病院か警察か会社くらいだが、すべて目的地である三宮にある。
あとは婚約者の吉本巡査部長だ。
釉葉は心なし、アクセルを踏み込んだ。
阪神高速を走行中にPHSをいじるなんて自殺行為だし、もし今も自分に尾行がついていたら、それで別件逮捕もあり得る。
と。釉葉はミラーに目をやった。
さすがにあからさまなマークXはいないが、別車両に紛れている可能性は否定できない。
阪神高速を降りて、信号待ちのタイミングでPHSの着信履歴を見た。
知らない番号だが、「050」の番号から警察と会社、そして吉本の可能性は消える。
としたら病院か。
ひょっとして、容体急変か!
……って、だとしたら、病院の固定電話からだろう。
相手もPHSとなれば、可能性は1人に絞られる。
病院について病室に駆け込むと、はたして、電話の主は父親だった。
固定電話は物理的に電話線が届かないし、携帯電話は使用禁止。
ナースステーションの構内PHSを外線に切り替えて使ったらしい。
父親に不在理由を尋ねられて、釉葉は東灘の会社に行っていたことと、店舗回りを再開したことを伝えた。
もちろん、暴力団事務所を見物に言ったことは伏せて。
折原社長はしばらく釉葉の言い訳に耳を傾けたあと、
「小売りや飲食は専門外やけど、利益率無視して大ざっぱに言うたら、100円の万引きを取り戻そうとしたら、1万円売らないかん。
けど、11000円売ったら、ちゃんともうけは出る。
万引きを逮捕するのは警察の仕事で、追い詰めて強盗になられても困る。
けど、レジからお金を抜くような店員は、10円でも見逃したらアカン」
「10円って今時おらんわ。抜くなら万札やな」
「それも見るんがオマエの仕事や」
ほんの1メートル先には、何人もの看護師がいる。
彼女たちは、仕事の話だと思った。
そもそも、そういう風に思わせるのが、この父娘の常だが。
そう、「常」。
釉葉は父親の口ぶりから、心配された脳障害が出ていないらしいことに安堵した。
運動障害の方はわからないし、ヘタをしたら1ヶ月は歩けないことを考えれば、歩行能力のリハビリには時間を要するだろう。
もっとも、実際にはドア to ドアだし、必要なら車椅子のまま乗降できる車も最近はある。
さすがに数ヶ月で不要になる車を買うのももったいない気がするからレンタカーか……あるいはオリハラのロゴを消さないって条件で介護施設に寄付して、企業イメージを高める方が、中長期ではリターンも多いか?
そう呟いてみせる釉葉だが、父親の本意はつかんでいる。
「襲撃の実行犯よりも、裏で蜜だけ吸ってる方が本命だ」と。
そのうえで、あえて暢気を装い、
「あ。お父さんと一緒に松永さん、運転手さんも撃たれてケガしてん。
いっぺんお見舞い行ったけど、あっちは元気そう。退院もあっちのが絶対早い思うわ。
あした、もう1回お見舞い行って、介護車両のこと聞いてみるわ。
あと、ついでったら変やけど、ちょっと実家に戻るつもり。何かいるモンある?」
「タバコ……って言いたいけど、なんか欲しないんよな」
「そのまま禁煙したらええのに」
翌日、柚葉は久しぶりに芦屋の実家に戻った。
父親が撃たれるずっと以前から、釉葉は三宮のマンションで一人暮らしをしているし、実家に戻るのは本当に1ヶ月ぶりくらいになる。
久しぶりに会う家政婦さんは、釉葉の想像に反して、心なし丸く膨らんで見えた。
考えてみれば、襲撃後3日くらいは警察やらマスコミやら野次馬にも悩まされただろうが、そのあとは洗濯も料理も必要ないし、掃除も最低限で済む。
1日6時間、リビングでテレビを見ながらお菓子を食べるのが仕事のようなものだ。
ちゃんと給料をもらって。
これでは、体型維持が一番の難関だろうし、彼女は超えられなかったようだ。
そんな彼女にプリンを渡すのは気が引けたし、若干とはいえ「心付け」を出すのは複雑な思いだが、ここで小銭を惜しんだために、高価なインテリアを二束三文で流されてはたまらない。
留守の家を安心して任せられる人材のキープは、新卒採用よりもはるかに難しい。
彼女に礼を言って、釉葉は地下のガレージに降りた。
家政婦さんは今頃、トイレにこもって「心付け」の枚数を数えているだろう。
ガレージに併設してある物置を開けると、長く放置していた部屋特有の、濁った空気の臭いがした。
マスクをして、棚をあさる。
10年以上前の、高校時代の思い出コーナーで、馬のシールを貼った段ボールを発掘した。
中には、ヘルメットからブーツ、鐙にウエア、果ては鞭や浣腸器まで入っていた。
当時は空前の競馬ブームで、勝てない地方競走馬の映画が作られたりもしたほどだ。
高校が少し上流ぽい校風だったのもあって、柚葉もちゃっかり流行に乗ってウエア一式を揃えて仮入部してみたが、落馬の危険があるとかで走らせてはいけないとか言われ、サッカーグランドくらいの馬場をひたすら1時間歩くだけっていうのを1週間続けたところで、退部届を出した。
ただ、道具がなまじ高価だったことと、下取りに出したのがオークションに流され、中年オヤジの手に渡ることを想像して身震いし、封印した。
そのまま忘れていたが、今の自分の立ち位置を考えると、こういうアイテムが有効だろう。
コンビニで購入した、ビニルコーティングの紙袋に詰めて閉じた。
そのまま、ミラジーノのトランクスペースに入れた。
翌日、折原社長はICUを出て、一般病室へ移った。
面会謝絶のフダが外される。
まだ腕には点滴のチューブが繋がったままだし、上体を起こすのにもベッドのリクライニングの助けが必要だが、少なくとも頭ははっきりしているようだ、
ただし、油断はできない。
経営者として込み入った話になったらヒートアップもあるだろう。
脳はともかく血圧が上がって、せっかくふさがった血管が開いたら、またICUに逆戻りだ。
エスカレート防止のため、しばらくは釉葉も同席することにした。
釉葉に誤算があったとするなら、昼間の自由時間がほとんどとれないことと、社長に同席して見舞客との会話をリードする自分を、相手が次期社長、あるいはワンクッション置いたあとの後継社長と誤認するリスクまで思慮が及ばなかったことだった。
単なる置物くらいにしか認識されていなかった自分にも、よそ行きの仮面をかぶりだすようになる。
そもそも、柚葉自身には、オリハラを次ぐつもりなど毛頭なかった。
「持っている人間の無い物ねだり」と誹られるのがわかっているから黙っているが、彼女の希望はオリハラとは一切関係ない中小企業のパート事務員だ。
すでに保有している株の配当だけで、彼女の年収はそこらの中小企業社長を凌駕する。
逆に言えば、給与はどうでもいい。
ただ、今回の事件で改めて自分が「父ばなれ」できていないことを思い知らされて、強く思うようになった。
秘書室長にあらかじめ作らせておいた面会希望者のリストから、順番や時間を決めるのは、自分の結婚披露宴の席次を決めるのにも通じるようで、苦痛ではあったが予行演習と割り切ることができる。
少しでも父親が無理をしている様子がうかがえれば、そこでストップして退席願い、ベッドを倒して時間を空ける。
あるいは釉葉が横で寝ている父親に代わって、応対する。
それがさらに「後継者」の誤認を相手に強く与えてしまうので……重要な相手が一巡したあとは、秘書室から適当な人材を回してもらえるよう、秘書室長に話しておこうと釉葉は考えた。
面会許可が出た翌日は自社グループの幹部連中で、釉葉も油断していたが、父親も遠慮なく数字を詰めようとし、答えに窮して慌ててポケットからスマホを取り出すのを釉葉が叱りつけるという立ち位置になってしまって、アホほど疲れた。
そのうち父親が「俺のパソコンもってこい!」とか言い出したのを「アホウ!」とたしなめて、2倍疲れた。
翌日。
銀行や証券、生保といった金融がらみの会社と、政治家やクライアントをこの日に集中させた。
この日を乗り越えれば、あとは下請けや仕入れ先がメインになって、それは秘書室からの応援でもやり過ごすことができる。
文字通り、折原社長の顔色伺いばかりだから、ただのタイムキーパーでいい。
が、この日ばかりは、釉葉が必ず同席していなければならない。
話術に長けた連中ばかりで、話に引き込まれてしまうと、タイムキープがおろそかになる。
かといって時計ばかり気にしていると、言葉にできないニュアンスを見逃してしまう。
そもそも、相手にしても半分は折原社長の見舞いだが、残り半分は釉葉の値踏みだ。
普段自分がやっている査定を、自分が受ける。
後継社長と誤認されている釉葉が無能と見なされれば、オリハラの将来性が危ぶまれ、中長期的には会社そのものがじり貧になる。
逆に有能をアピールしすぎると、いくら「その気がない」と言っても逃げられなくなる。
「なんか私、こんなんばっかやなー」
愚痴る釉葉だが、彼らが一巡したあと、釉葉の背中には、A4茶封筒が残されていた。
夜。個室の付き添い者用ベッドの間仕切りカーテンを閉めて、ジャージに着替えあぐらをかいた釉葉は、ベッド上で頭を抱えていた。
茶封筒は、証券会社の支社長から渡された物。
オリハラがM&Aなどで大きなお金を動かす寸前に、目的銘柄をピンポイントで買い逃げ・売り逃げしている連中が列記されている。
もちろん、タイミングが偶然同じになることはあるだろうが、合致率が6割を超えていれば「あやしい」と思うくらいはいいだろう。
8割一致は1ダースほど。
釉葉の会社の社長をはじめ、4人は知った名前だ。
5人は知らない女性名だが、証券や銀行の担当者や支店長が愛人の名義を利用して動かしているくらいはわかる。
残りのうち2つは、アルファベット3文字で、これまた一目でわかるペーパーカンパニーだ。
最後の1人。
会ったこともない男性だが、名前は長田で記者に見せられたリストにあった。
あの暴力団の幹事長だ。
…………。
少しはひねれ!
カモフラージュしろ!
その堂々とした男らしさに、釉葉はあきれ、怒りすら覚えた。
これじゃあ、かえってやりにくくなるじゃないかと。




