第10話
吉本巡査部長からの聞きかじりになるが、暴力団員のニュースは、見方を知ってさえいれば「正確」らしい。
事件のあらましは警察の公式発表そのままだが、こと暴力団員個人については、表現を間違えて因縁をつけられてはたまらないので、ガイドラインのようなものがあって上部団体からバッジをもらっていれば「幹部」となる。
たとえ、自分自身が組を率いる組長であっても、組長と併記することはあるが「幹部」が基本になる。
所属している団体からバッジをもらうと、「組員」または「構成員」で、その手前のチンピラや企業舎弟、引退したOBなどは「関係者」。
夕方目を覚ました釉葉が夕刊でチェックしたのは、まずそちら。
はたして、アロハのチンピラには「暴力団組員」となっていた。
会社でいうなら「正社員」で、組織図上は「課」や「部」に所属している。
根っこから狙った枝葉にたどり着くのは難しいが、枝葉が繋がっていれば根っこに戻るのはたやすい。
病院で死亡が確認されたというチンピラの名前を確認して、タブレットでウィキペディアを調べた。
正規構成員なら、ウィキに名前があげられていて、それが連中の1つのステイタスになるらしい。
地方の政治家や音楽関係者に混じって、神戸市長田区にある暴力団の組員がHITした。
今度は、その暴力団事務所そのものを調べる。
日本最大の暴力団の4次団体で、構成員は20人ほど。
「組員」は10人あまりで、そこにアロハの名前があった。
「舎弟」は、会社でいうと「ベテラン技能社員」で、組長や幹部の弟分として一目おかれるが、出世ルートからは外れている。
舎弟にも子分がいることもあるが、その子分は「組員」ではない。
つまり、アロハが「組員」ということは、その上司は「舎弟」ではないから、こいつらを引くと残りは6人。
さらに組長と若頭という、経営者的な立場の人間を引くと、残りは4人かな。
さすがにこれ以上はネットと夕刊、TVニュースだけでは調べようがない。
釉葉は、次のチェックにはいった。
オリハラ本社前での銃撃の瞬間を記録したSDカードを開き、動画をチェックする。
拳銃の知識があればまた変わった見方もあったのだろうが、釉葉は鉄砲なんて全部同じに見えるから無視して、バイクの2人組を凝視する。
白の大型スクーターだが、400ccか250ccかも釉葉にはわからないから無視。
純粋に、人間だけをチェックする。
職人さんが着ていてそうな白の上下ツナギを着て、ヘルメットは黒のフルフェイス。
手袋は……軍手?
確認のためタブレット画面上でスワイプして拡大しようとしたが、元々の動画が640×480サイズでは、ブロックが大きくなるだけで、かえってわかりにくくなる。
「あれ?」
玄関側から写しているので、バイクの左側が写っているが、左手の指が足りない?
バイク用グラブなら立体縫製でたとえ指がなくても形を保っていたりするが、軍手の場合は膨らみがない。
さっき感じた違和感の正体は、これか。
釉葉は、やはり吉本に教わった警察蘊蓄を思い出した。
暴力団の世界では、自分がミスをしなくても、兄弟分をかばったりして小指を落とすことは、今でも時々あるらしい。
そういう指は自分の男気の証で、むしろ勲章になるともいう。
が。2本落とすと、とたんにバカ扱いされる。
それでも普通は、左・右・左(薬指)と落としていくので、バカは3回。
それでも、襲撃時の運転を任されるということは、信用はあるのかもしれない。
まじめだけが取り柄の古参社員をイメージして……もし釉葉の会社が傾いたら、真っ先にリストラの対象にするタイプだな。
あるいは、出世コースから外れているから、「舎弟」かもしれない。
釉葉は、自分が自動車運転免許を取得しようと自動車学校に通っていたとき、1回だけ受けた50ccスクーターの講習を思い出した。
10年近く昔のことだし、スクーターのサイズが違うので同じとは限らないが、記憶に間違いがなければ左側には後輪ブレーキのレバーがあるはず。
指が2本足りないと、親指と人差し指だけでグリップを握り、中指1本でレバー操作ってできるものなのか?
そう気がついてリプレイすると、スクーターは減速こそすれ、完全停車はしていない。
動きながら発砲して対象を射殺するなんて、難易度が上がるだけだ。
射殺が目的なら、完全停車してからの方が、確実性は増す。
それができなかったのは、指が足りなくて完全停車ができなかったか、よっぽど射撃に自信があったか、あるいは…?
釉葉は、たった今まで想像すらしていなかった可能性に思い至った。
翌朝、マンションに一時帰宅した柚葉は、久しぶりに愛車ミラジーノのエンジンを起こした。
助手席や後部座席も悪くはないが、自分でハンドルを握ると、やはり楽しい。
エンジン音やロードノイズ、時には渋滞すらも気持ちよく、釉葉は愛車を西に走らせた。
長田で阪神高速を降りて、デパートを目指す。
このデパートには、カフェとして釉葉の会社が店舗を置いていた。
デパートの開店前だったが、会社の社員証を守衛に提示して、従業員駐車場へ。
「おはようございます」で開店準備中の店舗に入り、店長に挨拶した。
ここはカフェに特化していて商品開発をしていないぶん、売り上げの多寡をチェックするだけでいい。
「お客様の声」を紙ファイルでもらい、売り上げの日足、時間足を見る。
「昨日の午後から客足がガコンって落ちてるやん? お土産の高額商品で取り戻してるけど……何かあったん?」
「暴力団の抗争で組員が殺されたらしいです。それで一般のお客様が外出を控えられて、逆に進物が伸びたって感じでしょうか」
「まさかと思うけど、そのご進物ってちゃんと定価で売ったん?
ヘタに気を遣って癒着とか言われたら、あとが大変やで?」
責められているワケではないのは、口調でわかる。単純に心配されているのだ。
40過ぎの店長にとって、釉葉は妹のような年齢だが、それ以上に恩人だと思っている。
本社の役員にこの娘が就いてから、店舗をくまなく回り直接従業員に話を聞いてくれた。
当時パートだった自分を正社員に、しかも店長に抜擢してくれたのも、この娘だったという。
先代社長の時よりも社内の風通しは良くなり、パートやバイトの意見が社内新聞に掲載されることすらある。
それはそのまま従業員のモチベーションとなる。
もっとも、包装紙1枚の横領にも容赦はないし、数字のごまかしは見逃さないし許さない。
そのかわり、無理な目標を一方的に科すようなことはしないし、目標を無理に盛っていると逆にたしなめられることもある。
店長は、おそらく釉葉が次か、その次に自社の社長になると信じていた。
事実、店長会議で本社に行くと、柚葉が座っているのは経営側の端っこだが、会議室から一歩廊下に出ると、社長や専務すら彼女を「お嬢」と呼んでいた。
そもそも、20代にして経営側にいるというのは、実力とバックをうかがわせる。
釉葉が社長の席に着いたとき、自分がまだこの会社のにこっていれば、きっと「夢の会社」だろう。
そう信じているのは店長だけでなく、企業全体の離職率が著しく向上している。
「そのヤクザの事務所って、ここから遠いん? 流れ弾でお客さんがケガでもしたらオオゴトやで?」
「歩いて15分くらいありますし、通りも入り組んでますから、大丈夫だと思います」
「15分か……。ちょっと見てくるわ」
店長は「しまった!」と思った。
徒歩15分というのは、このあたりでは車移動を考える距離だが、三宮を拠点とする釉葉の場合、十分に歩いて行ける距離だ。
店長としては止めたかったが、フットワークの軽さと現認主義こそ釉葉の魅力で、言い出したら聞かないことも知っている。
「あ。私も行きます。案内します」と言って制服のボタンを外し、ダウンコートをかぶる。
駐車場に向かおうとしたが「15分なら歩いてええやん? 健康になるよ?」と言われては、さすがに拒めない。
10分ほど歩いたところで、前方に人混みが見えた。
人をかき分けて最前列に出ようとすると、そこにはいくつものカメラがならび、その前には制服警官が 進入防止のポールよろしくならんで立っていた。
道路を挟んだ向かいのビルには、1階部分にジュラルミンの盾を外向きに並べて警察官が大勢いる。
その前後には、サイレンを消して赤色灯を回しているパトカーが4台。
「テレビとかで見た、まんまやな」
店長の心配をよそに、まるっきり野次馬のような声を上げる釉葉に、店長ではなくグレイのスーツを着た男性が声をかけた。
「あれ? 折原……さん? なんでこんなとこに?」
いきなり名前を呼ばれて戸惑う釉葉だったが、出された名刺に地元新聞社の社名と「記者」の肩書きを見て、釉葉の記憶も繋がった。
「おひさ……てか、自分、経済部ちゃうん?」
問う釉葉に
「去年から報道部や。自分は?」
「この先のデパートに、ウチのカフェが入ってん。で……見物?」
釉葉は小さく舌を出した。
「そう言うたら、大通りの百貨店に入ってたかな。
てか、お父さん大丈夫なん? 自分こそ来て大丈夫なん?」
さすがに報道部。知っていたか。
「もう意識も戻って、あさってにはICUも出られるって。
で、仕事休んだ分取り戻そうとして店舗回りしてたらコレやん。もったいないやん?」
記者は「もったいない」とかいう話ではないとたしなめようかとも思ったが、動きのなさそうな暴力団事務所の前に突っ立っているより、こちらの方が面白そうだという好奇心が勝って、少し通りを戻ったファミレスに移動を提案した。
少し距離はあるが、大きな動きがあればわかるし、相手の正体がわかっているぶん安心できる。
何より、聞きようによっては蓮っ葉ともとれる釉葉の身も蓋もない話は、含みや嫌味ばかりの現場ばかり回っている記者にとって心地よかったから。
窓際の席をキープして奥の席に柚葉と店長が座り、手前側の直接事務所が見える席に記者が座る。
全員がオーダーを済ませて各自ドリンクバーを取って戻ってきたところで、ストレートに釉葉が切り出した。
「鉄砲が撃ち込まれたん?」
「鉄砲玉が、討たれた、かな?」
「引っかけ?」
口をとがらす釉葉に記者は
「鉄砲玉……下っ端組員がな、刺し殺されてん」
「昨日の三宮みたいのが、こっちでもあったん?」
記者は、笑うところではないという自覚はあったが、堪えきれず苦笑して
「いやいや。昨日三宮で殺されたんが、ここの組員なんよ」
それを聞いた釉葉の答えは、記者のボリウム調整をはずさせるのに十分だった。
「それなら私、ちょうど阪急の2階にいてて、上から見てたよ? スマホも撮ってるし……見る?」
「なんやてー!」
本社に詰めていた記者が事件の報を知り、現場に駆けつけたときにはすでに道路の中央部にブルーシートのテントが組まれたあとだった。
2車線から1車線にはなるが、左右の道路は車が通れるようになっていた。
カメラを向けても、「KEEP OUT」の黄色テープとブルーシートしか撮影できず、今朝の朝刊にもヘリからの航空写真しか用意できなかった。
対して、釉葉が見せてくれたスマホの画面には、血だまりの真ん中に倒れている男の姿が、はっきり写っていた。
スクープだ!
「これ、他のマスコミとか…ツイッターにアップしてるん!?」
記者の興奮に、むしろ釉葉はきょとんとして、
「いあ。私ネットじゃスイーツ系やし……猫ならともかく、こんなグロいんは自分NGや」
記者は思わず「買う!」と叫んでから、気がついた。
この娘は、こう見えて資産家で、その関心を独占できるほどの予算を自分は用意できない。
会社で稟議を上げても、おそらく通らない額になるだろう。
とすれば、現金以外に取引できる物は?
そう考えて、釉葉が「見物」「もったいない」と言ったことを思いだした。
情報を情報で買えないだろうか。
「その写真くれたら、見返りに今までの取材情報出すけど……いる?」
二つ返事で釉葉は応諾した。
「殺された若衆は……まー、大ざっぱに言って、下から数えた方が早い下っ端やな。
兄貴分は、若頭補佐っていう幹部様や」
言う記者に釉葉は
「若衆って若頭? 若頭ってナンバー2よな? それがなんで補佐の下なん?」
記者は「そこからか」と頭を押さえて
「組員のことを若衆って言うんよ。若衆の一番頭やから、若頭」
「労組の委員長みたいな感じ?」
「ヤクザに労組はないわ! さすがにここじゃ言葉選ぶけど、ヒラやな」
そう言うと記者は、黙って聞き役に徹していた店長に顔を向け
「店長さんでしたっけ? あなたが有給とったときはどうなります?」
「いちおう、次長・班長が穴を埋めてくれます」
「な? 失礼かもしれんけど、小さいとこかて次長や班長が決まっててん。それとは別にバイトのグループ長とかもいてるでしょ?」
なるほど。釉葉はようやく合点がいった。
今の会社は大きすぎて組織図もアホほど大きいし、前の事務所は小さすぎた上に「秘書」と「事務長」の2ルートがあって、これまたややこしいが、店長のカフェなら、シフトのバイトやパートさんも入れたら、ちょうどスケールが合う。
店長=組長とすると、次長=若頭、班長が補佐だな。
バイトやパートのリーダーがグループ長で、暴力団だと舎弟頭になる。
ややこしい業界用語を使わなければ、組織図はシンプルだ。
記者も、釉葉達と話すのが楽しくなってきた。
人間、相手が知らないことをひけらかすのは快感だし、そもそも記者なんて、それが職業になったような人種だ。
それでも、1から10まで説明するとなると面倒くさいが、3つくらいで察してくれると楽しくなる。
文脈を読む勘の良さとセンス、時々ずれるのも愛嬌で、それをチェックして修正するのも面白い。
記者が経済部にいた頃、社長インタビューで釉葉の会社を訪ねたときのことを思い出した。
細かい数字をにおわせつつ、結局は「経営秘密」でごまかそうとする社長に対し、同席していた釉葉は「まずは物販よりもカフェ部門に注力して接客スキルを底上げして、お客様目線で物販にフィードバックし、顧客満足度の向上を目指します」と言い切った。
デスクにも褒められたし、読者の受けも良かった。
そして実際釉葉は、こうやって店舗を回り、店長とファミレスにいる。
少しは礼を返しておこうかと、記者はショルダーバッグからノートパソコンを引っ張り出した。
「取材秘やけど」と前置きして、さらに「住所とか細かいところは見なかったことにして」と念を押して、ファイルを開く。
そこには、組員全員の顔写真とプロフィールがならんでいた。
「今回の被害者は、若頭補佐の下やけど、実際には幹事長っていう幹部の派閥なんよ」
「いあ。そんな他人様の人事とかどうでもええから……この組、どっかと抗争してるん?」
「どっかも何も、一番上が分裂してるやん」
「あ」
さすがにそのニュースは釉葉も聞いたことがある。
ただ、そのレベルでの抗争なら、こんな末端組員のチンピラなんて、命の重さは消費税以下だ。
そう言うと記者は
「消費税以下は言い過ぎ……って立場上言うけど、そやな。本命は別らしいわ」
かなり声のトーンを落として
「まだニュースになってないから、秘密な。マジで」
なるほど。ここからが「写真代」か。
てか、その前の説明で釉葉が納得していたら、言わずに済ますつもりだったかもしれない。
「ナンバー2の若頭とナンバー3の幹事長の間が、うまいこといってないらしいんや。
で、ネタモトは言えんけど、この幹事長がこの前、組の金庫に穴を空けてもうたって」
それに、釉葉ではなく店長が
「ウチで言うたら、フロア係と厨房がぎくしゃくして、オーダーミスしてクレームが出た、みたいな感じですか?」
「あー。そんな感じ。したらオーダーミスしたバイト、最悪クビもありますやん?」
「さすがにこのご時世に、それくらいでクビにはできませんけど」
苦笑する店長に
「ヤクザ、なんですよ。クビはなくてもユビはあるって」
冒頭の会話から感じていたが、この記者、ブラックなジョークが好きなんだと店長は理解した。
店長と記者が話をしている間、妙に静かだと思ったら、釉葉は背中を向けて事務所の方を見ていた。
「うわ。角刈りでほっぺたに傷があって、めっちゃ悪人顔。
あんなマンガみたいな極道、ホンマにいてたんや」
「あ。あの人は舎弟頭。組長の子分やなくて弟分やな。入り口でボディチェックされてるけど、挙げた手、見てみ?」
「両手とも指が3本づつしかない! めっちゃ極道やん!」
「あ。それ褒めてないから」
それから吉本巡査部長に以前聞いた話をもう1度聞かされて
「で、本命って?」
話を戻す釉葉に、記者は「いやがらせ」と小さく笑って
「内部抗争が本命やけど、あの舎弟頭がややこしねん」
「???」
「組長の弟分で大幹部級やけど、なんでか幹事長に肩入れしてて……あの舎弟頭がおらんかったら、組に金庫に穴空けたトコで幹事長を破門にして、組はすっきりまとまるけど」
あー。組長と組長の弟分に挟まれて、ドジふんだ幹事長にケジメがつけられないのか。
かといって放っておくと他の組員から自分がなめられる。
若頭でナンバー2といっても、中間管理職はつらいな。
「ああやって囲んでしもうたら、シノギ……営業な、できんくなって、組がつぶれるやん?
やから内部抗争を外部抗争ってことにしてシノギ止めたら、音を上げて自分らから犯人を出してくるんよ」
「イケズやな」
「そら、兵庫県警やん? そっちのノウハウはいっぱいあるで」
ブラックジョーク好きという、記者に対する店長のイメージは確定した。
「ほんなら、鉄砲玉が飛んできて、お客様がケガする心配とかはないん?」
問う釉葉に記者は
「あの状態の事務所に鉄砲玉撃ち込んだら、やった組はもちろん本家筋まで締められるんわかってるから、99%ないな」
「それ新聞に書いてくれたら客足も戻るのに」
拗ねる釉葉に
「たぶん、1週間もしたら誰か自首してくるわ。それまでの辛抱や」
「てか、それすっぱ抜いたら、大スクープやん。なんでせんの?」
「大スポやったらアリやけど、ウチがやったら会社ごと記者クラブからハブられるから」
記者は苦笑したが、当初の目的を忘れることなく、釉葉にスマホのデータリンクを求めてきた。
ちゃっかり「データコピー」ではなく「データの移動」をするあたり、抜け目はない。
もっとも、釉葉も同じデータをすでに自分のタブレットにコピーは済ませているが。
記者と別れたあと、釉葉は阪神高速に戻って、三宮を超えて一気に東灘まで足を伸ばした。
例によって1階店舗で5000円のお菓子を今度は4つ買い、監査役室から社長室にコールする。
今日は在席していて、時間もとれそうだ。
社長に、父親が目を覚ましたことと術後が順調なことを告げて、長田のカフェでもらった「お客様の声」を届ける。
で、ここからが本番。
「ウチの……ゆか、オリハラ全体かもしれんけど、株動かすときに便乗して、小銭稼いでるんがいてるみたい。
まだ、どこの誰かもわかってないけど、ちょっと気にとめといて」
言われた社長は、内心の動揺を最小限に抑えて
「それとなく、ですね。調べておきます。目安はありますか?」
「大至急やけど、あまり大騒ぎになって目立ったら元も子もないし、あくまで、それとなく、な」
思いつきや勘で、こんなことを口にする娘ではない。
おそらく、ある程度のファクトをつかんだ上での発言だ。
「あ。ホンマの小遣い稼ぎやったら、そんなんまでどうこう言うつもりはないし……お父さんの件で1週間も会社空けてしもうたし、ひょっとしたらやけど長引きそうやったら、年度末か株主総会で退任も考えてるから、最後の仕事……かな?」
釉葉の就いている監査役というのは、代表取締役である社長や、取締役会の下にはいない。
株主総会の直系で、厳密に言うなら釉葉は社長の「部下」ではない。
もし部下だったとしたら、上司はとっくに胃に穴が開いていただろう。
一方で、社長は釉葉を少し、愛おしいとも思いつつあった。
信賞必罰を原則にしながら、若干の「情」もまじえ、グレイゾーンの存在も知っている。
社長自身、オリハラ本社の社外取締役を兼務しており、かつての部下のツテもあって、オリハラの株売買に便乗し、本当に少額だが、それなりの小遣いを稼いでいる。
それを知った上で「目を瞑る」と言い、さらに別口で、もっと大きな利益を得ている者がいると。
釉葉の立場と人脈は、前職が代議士事務所職員だったこともあり、こと政治方面では自分と遜色がない。
財界方面でも、折原社長のファーストレディとして、交友関係も、やはり自分と同格かそれ以上だろう。
つまり、他にもいる、もっと大口のインサイダーをやっているのをあぶり出せるか?との問いで、自身の進退しか口にしていないが、つまりは「自分より無能と判断した場合、あなたのにも退場願います」という意味だ。
ただし、この娘は自分が先行していることを勘案して、「それとなく」を強調した。
つまり、一部上場企業社長の地位も「それとなく」使うことを許諾している。
というか「つかえ」と言っている。それで自分を追い越せと。
メガ証券やメガバンクでも、支店長や支社長なら自分は「雑談」ができ、地銀なら頭取と直に「雑談」が可能だ。
釉葉がどのルートから調べているか彼女は自分の手札を見せていないが、おそらくこのルートは空けている。
でなければ自分に逆転の目はない不公平なゲームだが、そういうのを嫌うというのが彼女の可愛げであり、恐ろしさでもある。
彼女の独自調査と、自分がその地位と立場から調べられるルートは別で、それが交差あるいは一致すれば、すべては「なかったこと」になるが、自分の調査力が彼女より劣っていれば、それが明白になったときは、自分は後進に社長の椅子を渡さなければならない。
本社の幹部社員はともかく、店舗や現場ラインでは、彼女を支持する声は強い。
釉葉自身は社長就任を固辞するだろうが、現場レベルの古参社員を抜擢して社長に推薦する可能性は高い。
そうなると、自分の子飼いを後継にして顧問あたりで院政をひくことはできないし、逆に釉葉は古参生え抜き社員からの声望を高めるだろう。
会社経営者としては、社内の対立は避けたいというか、外様の落下傘社長に過ぎない自分に勝ち目はない。
だから「それとなく」であって、この言葉はインサイダーの調査だけではなく、自身の進退にもかかっている。
釉葉は、頭を下げて社長室を出た。
彼女がいたのは、10分かそこらで、しかも言質を取られるようなことは一切口にしていないにもかかわらず、この疲労度だ。
彼女を部下に持つなんて考えたくないが、それどころか6月までには柚葉は結婚するという。
物好きな伴侶となる男に同情を覚えつつ、彼女の婿というのは、それはそれで面白い人生かもしれない。
少なくとも退屈はしないだろう。
社長自身、釉葉に苦手意識はあるが、それ以上に好敵手としては申し分ない。
2人の競合によって、会社は先代社長時代を含め、上場来の好決算が見えている。
それすらも織り込み済みだとしたら……社長は椅子に深々と腰を沈め、つい口角が上がるのを抑えきれなかった。
いくらなんでも考えすぎだろう、と。




