第9話
オリハラについた釉葉は、「オリハラ」の名前で領収書を切ってもらった。
1メーターはムリでも1000円あればつく距離に、5000円近く請求されたから。
ま。あれほどの大回りと阪神高速往復なら、仕方がないとも思うが。
電話だと、順番にはそれほど意味はないが、実際に顔を合わせるとなると、社内序列とかがあってややこしい。
特に今は、可能性としてでの話だが、社長が会長か顧問に退き、序列順なら代表権を持った副社長か専務が先になるが、今の釉葉は彼らに興味はない。
ただ、いきなり総務担当役員となると、憶測で社内が混乱するので、それも避けたい。
消去法で秘書室長、それから守衛室に行った。
といっても、玄関隣接のそれではなく、詰め所というか、モニタールームのような部屋だ。
そこで守衛室長からオリハラの封筒を受け取り、ついでに玄関前カメラを手動でパーンしてもらう。
片側3車線の広い道を挟んだ向こう側に、白のマークX。
黒2台は、ビルの影に入っているのか、見えない。
捜査本部の陣容を釉葉は知らないが、2人が2組の3交代となれば、殺人事件のそれでも1割のマンパワーを使うことになる。
殺人未遂となれば、その半分に削減され、2~3割のソースを釉葉に使うのは、ちょっと厳しくなる。
尾行か護衛かはわからないが、少しは自由に動けるな。
釉葉はルージュをなめた。
管理本部を訪ね、総務担当役員と専務を従えて、副社長室へ。
これは、大株主として「人事に波風を立てない」というメッセージであり、同時に「社内序列がどうであれ、株主の立場ではイーブンだぞ」というメッセージで、まさに飴と鞭だ。
その後、オリハラを出て、今度は歩いて労災病院に行く。
…………。
労災病院で松永運転手の病室に直行し、扉の左右に立つ2人に先に敬礼して、免許証を提示する。
前回とは別人で、知らない顔だったが、敬礼に対してとっさに答礼しようと右手が動くのを見て、警察官だと確信した。
免許証をまじまじと眺めるのを見て、確信を深めた。
形式的に立っているだけの外注のガードマンとかなら、一瞥して終わるはずだから。
さすがに釉葉のボディチェックはためらわれたようだが、手荷物確認はされた。
……こっちが2人で3ローテ、か。
釉葉は捜査本部のマンパワーの割り振りに幾ばくかの心配を覚えたが、もともと制服警官にジャケットを着せただけだから、こっちは三宮署からの応援で回しているのかもしれない。
松永運転手は、まだ入院していた。
相変わらず6人部屋に1人きりで。
釉葉は松永運転手と奥さんに慰留を頼んだが、「責任」やら「けじめ」を男が口に出してしまうと、引っ込みがつかなくなることも知っている。
なら、お金の話。
とりあえず、入院費と治療費は労災が下りるだろうから、松永運転手の負担がないことを告げ、休業補償も労災と会社の互助会から合計100%の補償があるので、ゆっくりしてもらっても生活の質は落ちないと、治療に専念して欲しい旨を告げる。
少なくとも入院中は在職期間にカウントして……本来、松永運転手は契約社員で退職金はないが、上層部からの承諾をとったので、総合職の正社員に準じた退職金は用意しておく。
むしろ入院が長くなるほど在籍期間が長くなり、退職金が増えることも付け加えた。
今はメンツが優先しても、時間がたって冷静になれば気が変わるかもしれない。
と。そのときは退職金相当額を「見舞金」として支払うので、結果的に手にできる金額は減らないことも忘れずに。
もっとも、ここでも飴と鞭。
貸与している社宅はあくまで「社宅」であって、退職したら引き払ってもらう必要があるとも言い切った。
さすがに「少し考えさせてもらえますか?」に、松永運転手の返事が変わった。
その後、やっぱり歩いて日赤病院へ。
…………。
戻った釉葉は、オリハラの封筒をひっくり返した。
SDカードが入っている。
釉葉のタブレットはマイクロSDなので、アダプターを買わないといけない。
また明日、センター街まで出るしかないか。
スマホもマイクロSDだったが、ナースステーションで看護師立ち会いのもとなら、アダプタを借りて挿入できる。
見られて困るものはないはず。
スマホで撮影した尾行車の画像を拡大してみた。
覆面パトカーのドライバーは、釉葉の知らない顔だった。
ベンツの方は、てっきり暴力団だと思い込んでいたが、可能性が半分以下に減った。
というのも、右側に人影があったから。
暴力団という生き物は、見栄とメンツで生きているので、ベンツも左ハンドルにこだわる。
興信所なら無難で目立たない車を選ぶはずだし、警察は予算の都合というより政治判断から内需のため、国産車以外の選択肢はない。
けれども仮に、釉葉が襲撃犯の立場だとしたら、尾行を他人任せにしたくないだろうから、ベンツは犯行グループで間違いはないだろう。
あるいは左ハンドルの新車も買えない雑魚かな?
時計を見る。
父親の面会謝絶はとけていないから、釉葉は時間つぶしをかねて、病院内を散策する。
といっても、無為に歩くのではなく、深夜にタブレットが使える場所を探して。
1階の外来者待合室は、深夜には消灯されてしまうので、バックライトに照らされたタブレットはアホほど目立つ。不可。
夜も明かりがあるとなれば入院病棟だが、内科や外科のある3階&4階もNG。
秘密ではなくて、単に公言していないだけだとは思うが、容体急変リスクが高い患者は、手術室やICUのある低層フロアに集められている。
逆に、高層フロアは認知症や終末期医療にかかっている患者が多く、徘徊していたり、手当たり次第に見ず知らずの相手でも昔話をするし、見かけたことを善悪の判断なく、やはり誰彼問わず何度も話すので、秘密保持の意味で、やっぱりNG。
となると、無難なのは「医者大工」「土建屋」と半ば公然と言われている整形外科か。
釉葉は念には念を入れ、6階の整形外科のナースステーションをノックして、「301の折原です」と挨拶した。
それでピンときたらしく、看護師に「よかったですね」と言われたが、
「ありがとうございます。けど、起きたら起きたで仕事させんとストレスになるらしくて……夜、談話室でパソコンかんまんですか?
あと、できたらプリンターをお借りできたら助かるんですけど」
と繋いだ。
「あー。社長って、そんな生き物ですもんね。
けど、プリンターはダメですから、お嬢さんが頑張って覚えるか、メモでも。
あ。談話室の方は静かにしてくれたら、使ってもろうてええですよ」
もちろん、柚葉自身、プリンター使用に許可が出るとは思っていない。
それを断らせることで相手に後ろめたさを感じさせ、譲歩を引き出す作戦だ。
ICU控え室に戻って、父親に顔を見せ、手を振って挨拶したあと腰掛けていたら、意識が飛んだ。
看護師に起こされて病室に戻ることを促されて釉葉は漠然とスーツがシワになったことを悔やんだ。
「スーツ」って言うくらいだから上下セットで、ボトムはスカート1本とパンツ2本を持っているが、今履いている
ヤツは、明日クリーニングに出そう。
スカートだったから、ひょっとしたら正面から中身が丸見えだったかもしれない。
廊下を歩きながら、ICUのガラス壁のカーテンが閉まっていたかどうか確認し損なった自分の迂闊さを呪った。
と。その前に、シャワーを浴びよう。
翌朝、父親に挨拶。
「まだ寒いきん、マンションまでコート取りに戻るけど、ついでにいるもんある?」
「なんかハラへらんから……コーヒーが欲しいかな」
減らず口の強がりなのは、釉葉にもわかっている。
「お医者さんの許可が出たらなー」
そう言って、右手を挙げた。
病院のタクシー乗り場で、またタクシーを拾う。
ここ1週間で、3年分くらいタクシーを使った気がする。
元町にある自分のレディスマンションに戻り、コートをクローゼットから引っ張り出した。
愛用のトートバッグというかエコバッグも忘れないように。
これからは、買い出し頻度が高くなるだろうから。
日赤も、あの規模の病院なら共済会もどきの売店じゃなくて、コンビニと契約した方がいいと思う。
てか、自分がオーナーになって直営したら、すぐ投資を取り返せるだろうし、すでにコンビニを経営している知人に心当たりもある。
自分が仲に入る形をとれば、ローリスクで恩が売れる。
皮算用を弾きながら、元町の高架横を歩く。
信号でセンター街の方に道路を渡り、ファッションストアなどをウインドウショッピング。
コートを着て外に出ると、かえって指先の冷えを強く感じた。
………。
まだ梅の花も咲いていないのに、今年の新作水着が店頭に並んでいる。
それを眺めつつ、レジ手前の棚にならんでいるミトンや手袋を物色する。
手袋は、子供用にしか見えないが、実際に手を入れると糸が伸びて、大人の手にもフィットするようにできている。
釉葉はシンプルなデザインの、赤い手袋を選んだ。
レジを通したあと、店員さんにハンガー兼用のビニルワイヤを切ってもらい、その場で手に履いた。
………。
マンションを出てから、ずっとついてきている足音が3つ。
人混みで時折乱れるが、訓練された習慣は無意識に出てしまうのだろう。
つま先から着地して、そのあと靴底全体で体重を受け止め、踵を先にあげる。
アスリートや訓練された自衛隊員、そして警察官特有の歩き方だ。
もう1つは、それより距離的に近いが、訓練されてない分わかりにくい。
足をあまり浮かせず、踵を擦るような歩き方だ。
着地は、おそらく横から。
日本舞踊なら、真っ先に矯正される歩き方だが、三宮のセンター街にはごろごろいる。
油断したらロストしそうになるが、こちらは通行人にぶつかって乱れないので、一度気になると逆探知も簡単だ。
振り返って確認はしないが、おそらくイケイケのヤクザファッションで決めて、周囲がよけてくれているのだろう。
釉葉はジャズのベースドラムを拾うように、あるいは雅楽の鼓の音、それも打つ音ではなく、革に手を添えて余韻を消す「音にならない音」を拾うのが好きだった。
前者は子供の頃から聞いていて、派手なギター以上にプレイの出来を左右するバロメーターだ。
後者は、自分が日本舞踊の教室に通い始めてからで付け焼き刃もいいところだが、踊りの所作を流す、止める、堪えるのサインはここから出ている。
こういうのを知って歩いていると、ウインドウショッピングが視覚的だけではなく、音楽的にも楽しめる。
と同時に、気になる音に集中し、ノイズを拾っては捨て拾っては捨てと、潜水艦のソナー員のような遊び方もある。
その音と、自分が直前に見た景色をリンクさせ、相手がどの店によって、何に興味があるのかを想像するのも楽しい。
が、その足音はどこの店にも寄らず、釉葉が手袋を買いに入ったときには止まったが、店を出たらまたついてきはじめた。
男3人、あるいは2人と1人がレディスファッションの店でビキニに見入っていたら、ただの不審者だ。
釉葉は信号を渡り、雑居ビルに入った。
「下る」ボタンを押して、反対側の壁に背中を預ける。
このビルは、3階だか4階にオタク向けショップがいくつも入っているフロアがあるが、ゲームやアニメに興味の薄い釉葉は、地上階に用事はない。
目的フロアは、地下。
ただ、本当の目的は、この場所そのものだ。
ここは、センター街と国道をショートカットする通用路になっている。
釉葉を尾行しているらしい3人は、釉葉を見失わないために、無造作に通路に顔を出した。
足元は階段の陰になって見えないが、スーツを着ている2人組がおそらく革靴。
この寒空にアロハを着ている1人は、おそらくサンダルだろう。
足音と外見のマッチングができた。
3人とも釉葉の記憶にない顔だ。
3人そろって一瞬戸惑った表情を見せたが、釉葉が凝視する前にエレベーターの扉が開いた。
地下は、デパ地下とスーパーマーケットの中間ぐらいの品揃えをしている生鮮食料品店だ。
リンゴやアボガド、キウイを適当に買い物籠に入れ、レジに向かう。
レジ横にあったパッケージも1つ取って、それも籠に。
会計を済ましてエコバッグに入れてもらった。
地上階に上がって国道側、パチンコ屋や立体駐車場のある側に抜けて、片側3車線の広い道路を渡り、元町高架横へ戻る。
……ついてきてるな。
釉葉は小さく舌を出した。
東に歩き、阪急三宮に近づくと、通行人が激増する。
それをかき分けるように阪急三宮とJR三宮の駅ビルを区切る横断歩道にさしかかった。
この横断歩道は、規模は大きくないが、人口密度だけなら渋谷のスクランブル交差点を越えると柚葉は思っている。
釉葉は、すぅっと息を吸って……止めた。
日本舞踊の所作で、脇を舞うとき、左右の両脇が交差するときの足運びで横断歩道に踏み入れた。
他の人にぶつかることも、お互いに相手をふさぐこともなく、流れるように人混みをぬう。
かつて大阪市長が人形文楽を「操っている人間が見えるから芸術性が薄い」と行って物議を醸したが、人間国宝クラスの演者になると、「見えているのに意識から消える」、つまり「見えない」ってレベルになる。
あの大阪市長は、おそらくVTR映像か何かで見ただけで勉強したつもりになって発言したのだろうが、実際の劇場で見ていたら印象が一変したはずだ。
日本舞踊もそれに通じるものがあって、「見えているのに気がつかない」動きがある。
促成栽培の釉葉は、さすがに名人上手のレベルにはほど遠いが、道路を渡る25mほどなら、集中すれば可能らしい。
「らしい」というのは、日本舞踊の師匠に言われただけで、やっている本人にはわからないから。
とりあえず、今は師匠を信じて、釉葉は動いた。
釉葉を尾行していた2人組、警察官はつい舌打ちをした。
雑踏の中で釉葉をロストしたから。
もっとも、東に行くのと西に向かうのが交通整理もなく思い思いに交錯するから混むだけで、渡りきれば人数は半分になるし、1/3か1/4は左折して山手側に行くから、さらに人数は減る。
気をつけるべきは、駅ビルに入るかロータリー側に回るかだけだ。
さほど広くない駅ビル通用口さえ注意していれば再発見できるだろうし、できなければロータリー側に回ったと判断できる。
と。突然左前方で言い争うような男の声があがり、つづいて悲鳴がいくつも重なった。
人の流れは止まり、最初の怒声を中心に人垣が膨らむ。
パニックになる!
事情はわからないが、おそらく「中心」に最も近い場所にいる警察官は、自分たちだ。
パニック対策の訓練を受け、ノウハウを持つ自分たちが急行して、パニックが暴発する前に群衆を落ち着かせなければならない。
とっさに釉葉の尾行を一時中断して、「中心」に向かう。
少々手荒にはなるが、背中を向ける人垣の襟首をつかみ、引き倒す。
人間と、その関心の過集中がたいていのパニックの原因なので、それを分散させる。
あえて暴力的な行動で人々の関心を自分たちが浴びれば、パニックの要因は分散される。
それによって、パニックを未然に、無理なら最小限に抑えることが、警察官としての自分たちの職責だと思った。
釉葉を尾行していたアロハのチンピラは苛立っていた。
やはり、釉葉を見失ってしまったから。
兄貴分に、よくわからないまま尾行を指示されたが、見失ったとなったら最低怒鳴られる。
まさか今時、これくらいで小指がどうこうという話にはならないだろうが、殴られるかもしれない。
殴られたら、あとであの小娘を見つけたとき、同じ数だけ殴って、同じ数だけハメてやろうと決めた。
だいたい、少し距離を置いて見ればプリン頭は目立つが、人混みの中では隙間によって茶髪に見えたり黒髪に見えたりして、そのたびに別人と見間違う。
コートも、前を開いていると、白の反対側が黒だったり、赤の反対側が青だったりで、何倍もの人数に感じる。
閉じていればいいかというと、最近流行の黒スーツに黒コートだと、目の前の相手がこちらに向かってきているのか、あるいは向こうに去っているのか、とっさに判断ができない。
つい、「ボケがぁ!」と怒鳴ってしまうが、他の上品な街ならともかく、神戸のこのあたりでは、ヤクザの威圧感など、すでに皆マヒしてしまっている。
と。その声が消えるかどうかのタイミングで女とすれ違った。
チクリと、針で刺されたような痛みを脇腹に覚えた。
アクセサリーかバッグの金具か、その傷みに「なめとんのかぁ!」と怒鳴るが、女は人混みに消えた。
とりあえず、横断歩道を渡りきって、それからあとのことを考えようと歩き始めるが、誰かとすれ違い身体が触れるたびに、さっきの脇腹の痛みが強くなる。
さすがに堪えきれなくなって、チンピラは自分の脇腹を見た。
棒が生えていた。
「なんじゃ、こらあ!」
棒を抜く。
その先に、15cmほどの、銀色の刃がついていた。
「××××……」
声が出ない。
かわりに傷口から、抜いた腕の勢いを加速するかのように、血が噴き出した。
チンピラはまるまる1回スピンして、その噴き出す血は、彼を中心に周囲2mほどを朱に染めた。
近くを歩いていた男性の顔が真っ赤に染まり、その先には刃物を振り回す男の姿。
顔が血で染まった男性ではなく、それを見た女性が悲鳴を上げる。
悲鳴が次々と続く。
それがパニックの始まりであり、チンピラの人生の終わりとなった。
釉葉は、左肘にエコバッグをかけ、右手をエコバッグに入れて、指先の感触だけでパッケージの塩化ビニルを剥がした。
さっき果物と一緒に購入した、レジ横にあったフルーツナイフ。
鞘つきで1880円。大昔からある定番商品だ。
グリップの一番下に掌をあてて握り、腕をすくめてコートの袖に隠す。
首から上しか素肌は露出していないが、逆に言えば尾行者側の注目もそこに集まっているから、素肌に感じる視線にさえ気をつければ、相手に見られる具合もわかる。
突き刺さる視線は、3つ、2つ、3つ、1つ、2つ……ゼロ。
さらにゼロ。ゼロ、ゼロ。
自分をロストしたな。
そこでおもむろにターンして、アロハシャツの方に気配を殺して近づく。
アロハを目視したわけではないが、さっきから何かわめいているから、場所の特定は造作もない。
すれ違いざま、コートの袖の中に刃を潜ませたまま、袖そのものを相手に押しつけ、掌をすいっと押してやる。
果物ナイフはグリップだけを残して、相手の腹の中に消えた。
そのまま釉葉は、阪急三宮駅ビルの2階にあがり、東端にある喫茶コーナーの窓際に座った。
ミルクティを注文し、窓越しにさっきまで自分がいた横断歩道を眺める。
それを待っていたかのように、横断歩道の人並みが膨らみ、ドーナッツのようになった。
騒ぎになっているようだが、声は聞こえない。
何人かがスマホを構えているのが見える。
その中心で、周囲を朱に染め、男が横たわっていた。
ほどなく救急車のサイレンが聞こえてきたが、人混みが邪魔をして、ほんの20m先の男までたどり着けない。
少し遅れてパトカーのサイレンがいくつも聞こえ、制服警官が何人も集まって道を開き、救急車を男まで誘導した。
騒ぎを聞きつけ、窓際に座る柚葉の周囲の窓ガラスに、物見高い他の客が鈴なりになって、思い思いに話し始める。
「通り魔?」
「この寒空にアロハで刃物持ってるし、ヤクやってんちゃう?」
「シャブ中の通り魔? 最悪やん」
まるっきり、対岸の火事だ。
好き勝手に興味本位でささやき合う。
「あれだけ血ぃ吹き出して……救急車きたけど、真ん中の本人、もう死んでるで」
「シャブ中の通り魔? それで責任能力なしとかなったら、被害者ワリにあわんな」
「てか、ヤクやって切腹したんちゃう? ヤクやってるヤツの考えることはマジでわからんわ」
釉葉は喫茶店の壁に掛かった時計を見た。
訓練された警察官なら、悲鳴の上がった瞬間に、まず腕時計を見る。
その時間、釉葉はここにいる。
横断歩道の上にも阪急駅ビルの入り口にも、喫茶コーナーの外にある阪急の券売機や改札にも、防犯カメラがあり、時間も記録されている。
距離にして20m~30m、時間にして5分程度のずれでしかないが、カメラと警察官が釉葉のアリバイを証明してくれる。
あの出血で、救急車に搬入されるまで20分あまり。
今から病院に運んだところで、おそらく間に合わないだろう。
あのチンピラがどこの誰かは知らないが、2時間ほども釉葉を尾行していたのだから、欲情しただけのチンピラではないだろう。
その正体は、夕刊か夕方のニュースで教えてもらえる。
救急車が走り去るのを確認して、釉葉はティーカップを置いた。
会計を済ませて、駅ビルを北側から出る。
どうせあの横断歩道はしばらく封鎖されるだろうが、阪急とJRの駅ビルが空中回廊で繋がっていることは、秘密ですらない。
歩いて日赤病院に戻る。
父親に顔を見せて、彼の目の前でリンゴを丸かじりする。
食べたかったら早く回復しろとハッパをかけて、ロビースペースへ。
ゴミ箱に、不要となった果物ナイフのパッケージと鞘を捨てて、吉本にまた電話する。
やっぱりメッセージセンターに転送された。
病室に戻って間仕切りのカーテンを閉め、ジャージに着替える。
そのまま、付き添い者用のベッドで横になって仮眠を取った。
夕方のニュースからが本番になる。




