第7話
釉葉が日赤病院に戻ったのは、午後2時を回っていたが、彼女のPHSは鳴らなかった。
つまり、父親の容体は安定していたのだろう。
ICUの窓から覗きこんで、自分の目で確認してみる。
相変わらず多くのチューブに繋がれてはいたが、気のせいか赤いチューブが減っている気がする。
ようやく主治医が決まったようで、軽く挨拶した。
といっても、初日に「覚悟」を繰り返した医師だ。
ビジネスの世界なら、「覚悟」なんて精神論だけで数字を出さないプレゼンに意味はない。
ファクトとしての数字、可能性としての数字と、誤差の数字。
「ほう・れん・そう」ができなければ、不適格者の烙印が押される。
医者としての技量や経験は知らないが、処世術だけで出世したのではないことを釉葉は祈った。
その医師が、釉葉にまた「覚悟」を切り出した。
「遭難時の72時間ってご存じですか? 事故発生から救出まで72時間を超えると、生存率が激減するんです」
釉葉は頷いたが、父親は事件発生から30分もかからずここに運び込まれている。
「実は医者の世界にも、デッドラインみたいなのがあって、7日とか14日とかいろいろあるんですが……」
珍しく数字を出したかと思ったが、「いろいろある」は「ない」と同義語だ。
「このまま目を覚まさない可能性が……脳への血流、酸素の不足などで見えないダメージがあって……その場合の覚悟を決めておいてください」
また「覚悟」か。辟易した釉葉だが
「具体的には、どんな?」
と、返すにとどめた。
「万が一ですが、脳死を受け入れるか、それとも延命するかです」
「脳死になったら、それで受け入れます。
回復の見込みがないのに機械でムリから心臓を動かしたところで、心臓が止まった後までポンプでムリから引っ張ったって、なもんただの自己満足ですし、父の尊厳を汚すようなモンですから」
即答する釉葉に、医者の方が言葉を失った。
イスに座ったまま、横に立つ白衣の男性……おそらく助手かセカンドドクターだと思うが、そちらに目をやり、かなりの時間をおいて
「わかりました。では、最悪の場合はその方向で」
蛇足とは自分でも思ったが、釉葉は有名な映画監督の発言を引用して
「苦しむのなら助かる。助からないなら楽に死ぬ。苦しんだあげく死ぬのは理不尽だっていいますやん?
助けるために、目を覚ますためになら、治療のすべてはお任せします。
ただ、見込みがないんなら、できるだけ苦痛のない方向でお願いします」
医師2人が、そろって釉葉を見た。
何かを促している?
「と、それと。
病室にパソコン持ち込んでかんまんですか?
先生の机の上にもあるし……禁止の時は言ってくれたら、すぐシャットダウンします」
「ICUでは絶対ダメですが、今は病室ならOKです。
患者が病室に入ったら、それから様子を見て判断します」
深々と頭を下げて、釉葉は部屋を出た。
彼女の退室を確認した後、主治医の隣に無言で立っていた白衣の男性が、主治医に尋ねる。
「どう見ました?」
「メンタルは専門外なので断言はできかねますが、医者の立場では教科書的受け答えでしたね」
そして
「あまりに教科書的すぎて、現実味がないというのが正直な感想です」
立っている男性も、それには同感だった。
末期癌などで終末が見えている患者家族の場合なら、あのような受け答えも少なくない。
が、突然肉親の終末を、可能性とはいえ告げられて、ああも冷静に対応できるものだろうか?
交通事故ですら、ほぼもれなく「死」という表現自体を否定するか、無為に「助けてくれ!」とわめくのが相場だ。
たとえそれが、死亡確認後であってすら。
立っている男性の白衣の下はスーツ、その胸の内ポケットには桜のマークが刻印された手帳が入っていた。
病室に戻ると、釉葉はポーチからスマホを取り出した。
ペースメーカーも心肺維持装置も何も、そもそも今、この部屋には患者がいない。
16畳ほどの、簡易応接スペースや予備ベッドまであるが主不在の無駄に広く感じる部屋で、スマホの電源を入れた。
電源を切っていたため、4日ほど充電していなかったが、バッテリー残量は40%以上残っている。
着信はわからないが、メッセージが30あまりも入っていた。
5件は、名前は聞いたことはあるがとっさに思い出せない相手で、これが本命かと思ったが、メッセージを聞いているうち、実家の最寄り駅近くにあるコンビニオーナーだと気がついた。
とりあえずダイヤルしてみると、お約束のお見舞いと心配に続いて
「今度は本物の警察が来て、防犯カメラの映像貸してくれって言うてん。かんまん?」
「今度は」というのは、ここは以前、警察官を装った興信所にだまされて利用され、それを釉葉にとがめられたという過去があるから。
「本物やったら、かんまんですよー。
あ、それと店長に伝言しといた方がええと思うんですが、データはコピーして渡してマスター残してないと、本部に怒られるかもしれませんよって」
オーナーは老境で、おそらく「マスター」も「データコピー」も理解できないと判断して、伝言の形を取る。
前回の時の店長はすでに退職して久しいから、釉葉が直に言っても角が立つ。
無用な波風は立てないに越したことはない。
次のメッセージは家政婦さん。
やはり何件も残されていた。
マスコミが押し寄せたり、警察が来たりして大変だったらしく、泣き言やグチから、そのうち辞めたいとまで言い出した。
釉葉としては、長く折原家の世話をしてくれて気心が知れていて、信頼できる人物なので惜しくないと言えば嘘に
なるが、辞めたがっている人物を無理に引き留めたところで、効率もクオリティも下がるし、本人の希望を尊重しよう。
そう思ってダイヤルすると、マスコミは潮が引くようにいなくなり、警察からも連絡はなくなって、今は職場復帰を希望しているらしい。
釉葉は笑って
「したら、またお願いしていいですか?
ご迷惑をおかけしたようで、今月分から少しですけど、時給を上げさせていただけます。
あと、ほんの心付け程度ですが、寸志もらってくれますか?」
はじけた声が礼を言ったのを聞いて、釉葉は電話を切った。
会社からの電話も数本あったが、社長が1~2週間不在になっただけでどうにかなる会社ではないつもりだし、ふらつくような会社なら、それは役員が無能な証拠だと、総務担当役員と副社長にそれぞれダイヤルすると、異口同音に「大丈夫です!」と言ったので、電話を切った。
最後に残った4件は、新聞社とテレビ局、週刊誌の記者を名乗った。
折原社長が撃たれた当日と翌日だけだ。
会社の代表番号や折原家の固定電話なら少し調べたらわかるが、柚葉個人の携帯電話となると、誰かがリークしたな。
突き止めたい衝動にも駆られたが、釉葉のスマホにメモリしてある番号だけで200件を超える。
釉葉の電話番号を記録している相手となると、その数倍はいるだろう。
釉葉はさじを投げた。
電話が終わると、釉葉は小銭を握りしめて院内売店へ。
適当なメモ1つと、プリンを大量に買い込んだ。
体重と体型が心配だが、ともかく甘い物が欲しかったから。
病室に戻って吉本に電話したが、メッセージセンターに転送された。
「車の中にお菓子忘れてるけん、持ってきて」
その日の夜、午後8時を回って、吉本が菓子折の入った紙袋を持ってきた。
そして、無言で敬礼をして、すぐ消えた。
釉葉も無言で見送った。
無駄に思えるほどに広い部屋。
32インチの液晶テレビと応接用スペースや付き添い用ベッドまである。
今更ながら、売店で購入した今日の夕刊と週刊誌に目を通すが、夕刊には何の記事もなく、週刊誌は2ページだけで、「事情通」という人物が折原社長の罵詈雑言を並べたあげく、「恨んでいる人物は多い」で終わっていた。
ニュース価値はゼロだ。
500円ドブに捨てたと後悔して、スーツを脱いでハンガーに掛けた。
付き添い用ベッドに横たわっていたら……いつの間にか朝になっていた。
翌日も、起きると同時にICUへ。
9時まで座っていたが、容体は安定しているようで、着替えをバッグに詰めて久しぶりにマンションに戻った。
病院にはランドリーもあるし、屋上やベランダ、イヤなら病室内に干すこともできるが、なんとなく気が引けたから。
持ち帰った下着を洗濯機に放り込んでスイッチを入れ、終わるまでの時間で残りの下着をあさる。
BGM代わりにテレビをつけてみたが、芸能人の下半身の話ばかりで、折原社長のニュースはない。
ブラウスを引っ張り出して、それをバッグに詰める。
意外に重要なのがストッキングだと、釉葉は初めて知った。
それとジャージ。
病院で寝泊まりするのに、スーツは窮屈すぎるしシワになる。
その点ジャージなら、着たまま病院内を動けるし、パジャマにもなる。
「たしか……?」
引き出しの奥から、高校時代のジャージを発掘した。
多少ウエストとヒップがきつくなっているのは覚悟していたが、バストには相変わらず余裕があったことの方が、釉葉にはショックだった。
それらを全部バッグに詰め、肝心のタブレットと充電器をコンセントから引っこ抜いて、バッグに入れる。
日赤クラスの病院になると、予算はともかく時間とか環境のからみで、有線LAN工事はできないだろう。
おそらく無線LANをつかっていて、頼めばWiーFiも使わしてもらえると思うが、万が一があると困るので携帯電話会社のタブレットにした。
ちょうど洗濯&乾燥が終わったので、それらを室内干ししてマンションを出た。
釉葉は歩いて銀行に行き、ATMで10万円をおろした。
アホみたいな金額は必要ないが、多少の現金は持っていた方がいい。
部屋を出ようとバッグを肩にかけ持ち上げたところ、想像以上に重かったのでタクシー利用も考えたが、少し思うところがあって歩いた。
神戸市そのものは広いが、中心部は「コンパクトシティ」を掲げるほどに密集している。
30分も歩けば、必ず次の目的地に到着できる。
「お嬢さん、ちょっといいですか?」
きた!
ナンパ待ちではない。
釉葉と同世代で、身長は吉本巡査部長と同じか少し小さい制服警官だった。
彼は胸から警察手帳を取り出した。
「お荷物、見せてもらってかまいませんか?」
職務質問だ。
もっとも、釉葉は今スーツを着て、ローヒールのパンプス。
それに大きなバッグが似合いってないといえばそうだが、セールスレディの標準装備とも言える。
対して、周囲をざっと見ても、歩道で新聞紙をかぶって寝ているのや肩をいからせてブイブイ歩いているチンピラもどきなど、妖しいやからは少なくない。
彼らを見のがして釉葉に職質ってコトは、狙ってだな。
釉葉は、大人しくバッグを地面に置き、ファスナーを開いた。
大量の下着に
「これは?」
「いま、お父さんが入院してるんです。私も病院で寝泊まりしてるんで、着替えです」
少し間を空けて
「いま、お勤めですか?」
「はい。東灘です。けど、お父さんの面倒みないといかんので、少しお休みもらってます」
ごくフツーの、型どおりの職務質問を装っているが、詰めが甘い。
入院してると言われれば入院先の病院を聞き、勤務先の社員証か免許証の提示を求めないと。
それをしないってコトは、釉葉が釉葉とあらかじめ知っていたと、自白したようなものだ。
とすれば、何を狙って?
暴力団との接触を待っているのなら、隠れていた方がいい。
それをあえて「監視がついてる」と晒すことで、得る見返りは?
……武勇伝?
「職務質問をあしらった」というのは、された側は誰かに言いたくなる。
身近にいた吉本は、今は出張中で、おそらく監視がついている。
そのサインが、昨日の別れ際の敬礼で、「職務中」と無言で告げたんだ。
唯一の肉親は意識がないとなれば、警察相手の武勇伝を語るのにベストな相手は、暴力団関係者と浅慮する。
それを誘い、待っているのだろう。
たとえ携帯電話を使っても、盗聴は可能だ。
盗聴で得られた情報は証拠能力を持たないどころか、むしろ裁判ではマイナスになるが、盗聴によって相手を割り出し、相手を別件で引っ張って自白を取れば、そちらは証拠になる。
相手が絞り込めれば、暴力団関係者なんて、叩けばいくらでも別件がとれる。
……ということは。
警察は、暴力団関係者=襲撃事件実行犯をいまだ特定できていない。
そもそも、釉葉と暴力団関係者に接点はない。
釉葉がなまじ上場企業の監査役になっているので、意識して遮断している。
……警察は、ここで詰んだんだと、釉葉は理解した。
警察の捜査は、チーターがサバンナに潜み、獲物1匹に狙いを絞って追いかけ回す狩り方ではない。
狼のように群れを作り、戦力にならない子供狼を囮にして罠の真ん中に誘導し、群れで屠る狩り方だ。
さしずめ、目の前の制服警官は、「子供狼」だろう。
本命の監視役、尾行は別にいる。
それを伝えるために吉本巡査部長の忖度があったのか、鈴村警視の指示か確かめるすべはないが、いずれにしても身辺のセンサーは研ぎ澄まさなければならない。
なら……そうしよう。
「ご協力ありがとうございました!」
制服警官に言われ、釉葉は我に返った。
たぶん……この制服警官は、自分自身が「囮」にされているとは気がついていない。
教えるべきか釉葉は逡巡したが、世の中には「知らない方が幸せ」ということは少なくない。
彼はしばらく「幸せ」であってほしいと柚葉は思った。




