第3話
「手術中」を示す赤灯が消えるのを見て、釉葉は強く拳を握った。
息を止め、手術室の扉を凝視する。
1分が、1秒が、何時間にも感じた。
と。吉本巡査部長が、釉葉の拳に自分の左手を重ねる。
あたたかい。
そして場違いなほど、脳天気とすら思える口調で「だいじょうぶ」と言った。
その声に、釉葉はつい、吉本に顔を向ける。
吉本も釉葉の方を見ていた。
作り笑顔だとはわかるが、それでも笑顔を浮かべて、吉本は諭すように言った。
「そんな長いこと息止めとったら、自分の方が先に逝ってまうよ?」
言われて釉葉は時計を見ようとしたが、今の自分は時計をしていない。
自分の拳に重ねられた、吉本の左手の時計を見る。
秒針が、カチカチ時間を刻んでいた。
「あれ?」
1分1秒が長いと感じたのも当然で、秒針は当たり前のように進んでいた。
「ゆずさん。5分くらい固まってたで?」
言われて釉葉は大きく深呼吸した。
ちょうど、ここから逃げ出したオリハラの幹部3人が戻ってきた。
吉本巡査部長は、彼らをちらりと見たが釉葉の方に顔を向け、幾分声のボリウムを上げて
「場違いやとは思うし、蘊蓄みたいになるとは思うけど」と前置きして
「アカンかったら、とっくに片付けして出てきてるわ。
これだけ時間かかってるってことは、手術台からICUに動かして、容体みてるんや。
血圧とか心電図とか脈拍とか。
やから大丈夫。アカン患者には、そんなんせんから」
総務担当役員をはじめとするオリハラの幹部3人は、吉本巡査部長をはかりかねていた。
今は外部の人間だが、場合によっては自分の上司になる可能性が高い人物だ。
照らし合わせたわけでもないが、可能性を考慮に入れて資料を集めるのが総務であり秘書で、それぞれが入手したデータも大差はないだろう。
兵庫県警巡査部長。28才。178センチ。結婚歴も離婚歴もなく、子供もいない。
両親は県内に健在だが、今は警察の官舎に一人暮らしをしている。
さらに、公務員というのは一般の会社員以上に給与がガラス張りで、年齢と階級がわかれば給与はすぐ出る。およそ450万円。
オリハラでいうと、大卒エリートコースで主任に当たる。
記憶に間違いがなければ、彼は高校卒業後警察学校に入ったので、高卒というのを勘案すれば、それなりにきれるのかもしれない。
それにしては、さっきの発言は、いくら釉葉を落ち着かせるためとはいえ、場違いに感じた。
いや。考えてみれば、警察官というのは医者の次くらいに人の生死の場に立ち会っている。
坊主も保険屋も、顔を見せるのは死んだ後だ。
案外この若さで、自分たち以上の人死にの瞬間を見ているのかもしれない。
企業経営者の立場に立つと、人の命を単純に数字化できるというのは、素養ですらある。
それができなくて経営判断を誤った例を、彼らは何度も見ている。
社長令嬢の釉葉が見初め、筆頭株主の社長が認めた男が、その素養を持っていても不思議はない。
自分の面接・査定が今されているのかもしれない。
そう思い至って、3人は居住まいを正した。
採用は、長くて2年の短期勝負で、採用試験場だけの勝負だが、出世競争はサラリーマンであれば一生の長期勝負、マラソンだ。
オリハラは、自身は東証二部だが、一部企業を事実上の傘下に置いている。
その会社の社長は、オリハラの専務だった。
専務に至っては、平取締役の末席だった。
ここでの判断ミスが、あるいは自分が将来東証一部上場企業の代表取締役になるか、あるいは連結にも含まれない泡沫子会社に飛ばされるかを分けかねない。
彼らは、釉葉とは別の意味で、息をのんだ。
ちょうどそのタイミングで、廊下を挟んだICUの扉が開かれ、白衣を所々血で染めた医師が出てきた。
釉葉と吉本巡査部長、オリハラ幹部3人と制服警官1人がICUに入った。
正確には、ICUとガラス壁を隔てた部屋で、社長はこの壁の向こうにいる。
さらに正確に言うなら、ICUではなく、もっと設備の充実した部屋だ。
もともと、移植を中心にする手術室とICUでは、設備に差がありすぎる。その中間の部屋ということか。
ガラス壁のこちら側は、部屋と言うよりもむしろ廊下くらいの広さしかない。
そこに7人が入ると、はっきりいって狭い。完全に定員オーバーだ。
釉葉はベッドに横たわる人物をしばらく凝視したあと、医師に目をやった。
意識のない相手は、いくら凝視しても返事をしない。
説明可能な人物は、ここには1人しかいないから。
柚葉の目に気づいた医師は、金属トレイに載った紫色の肉片をいくつか見せて
「腎臓は補修するより、患者の体力や負担を考えて、摘出しました。
問題というかネックは肝臓で、こちらは1/4切除しました。
持ち帰りますか?」
定番のドクタージョークで、何が面白いのか今まで釉葉にはわからなかったが、言われて、場を和ませる効果があることに気がついた。
こういうジョークが出るということは釉葉は大きく息を吐いた。
ICUで、釉葉は何度か意識が飛びかけたが、座り続けた。
総務担当役員や秘書室長達には家族もあるし、会社もあるから、先に帰らせた。
その際、医師がガラケのような物を渡してくれた。
「医療用携帯電話」または「院内携帯電話」とも呼ばれるが、単純にPHSだ。
出力が小さく、電子機器への影響も小さいので、病院内で使われている。
それを釉葉が受け取ると、医師の後ろにいた看護師が書類を差し出してきた。
使用承諾書にサインしろって意味らしいが、小さな文字で書かれた「金額」に、柚葉は思わず苦笑した。
ここで、こういう場合じゃなかったら、発作的にツッコミを入れたかもしれない。
「SIMカード=1万円、貸与レンタル=1日1000円、通話料=別途実費」
背に腹が変えられないのがわかっていてボッタクってくるが、仕方なくサインして、「メニュー→0」でPHSの番号を表示させ、秘書室長がメモをとる。
これで、たとえ釉葉が病院内にいても、緊急連絡は可能になる。
結構長時間、ICUのベンチシートに座っていた。
自分の拳の上にかぶせられた吉本巡査部長の手が温かく、大きい。
釉葉は拳を開いて、手のひらどうしを合わせて、その温かさをもっと受け取ろうと思った。
こんな時に変な話だが、彼とつきあい始めて3年で、今が一番、彼を優しく大きく感じ、幸せとすら思える。
この時間が永遠に続けばいいのにとすら思った。
が、その時間は医師によって止められてしまった。
容体急変ではなく、その逆。
医師は自分の眼鏡フレームの中央を人差し指でクイっとあげて、釉葉にも一時帰宅を促した。
医師の経験と、いくつかの研究発表から、午前8時から正午くらいの間は、容体が安定するらしい。
もちろん例外もあるが、一度帰宅して着替えをもってこいって話。
言われて時間を見ると、ぴったり午前8時だった。
ICUには窓も時計もないので時間感覚がなくなっていたが、たっぷり12時間、詰めていたようだ。
万が一容体急変があればすぐにPHSを鳴らすので、電源を切ったりマナーモードに「しないように」と念を押された。
それが妙に釉葉のツボに入って、釉葉は吹き出しそうになるのを押さえるのに苦労した。
少し逡巡はしたが、釉葉は医師に頭を下げて、指示に従うことにした。
和装は場違い感が甚だしいし、着替えもメイク道具もない。
医師は、出るときは外科外来じゃなくて、渡り廊下を通って小児科外来を使うよう告げた。
「?」って思いつつ病院建物の外に出てみると……納得がいった。
外科を初めとする一般外来と、その見舞客が来る病院入り口の周囲には、数台の中継車が駐まり、脚立が何本も立っている。
カメラを構える人と、その前でマイク片手にオーバーアクションで何かしゃべっている女性もいる。
おそらく、連中の狙いは釉葉で、そんなところに和装で出て行ったら、なんて言われるかわからない。
執刀医が移植外科のスペシャリストで、初期の生体肝移植やらで何度となくマスコミのターゲットにされた経験が、今回のアドバイスに活かされている?
考えてみれば、病院の構造自体、渡り廊下、つまり下に通路が走っていて別棟になっていることは、ある種のマスコミ対策なのかもしれない。
釉葉に与えられたリミットは4時間だが、芦屋の実家に帰ると、往復だけで半分消える。
着替えだけなら、今自分が住んでいる三宮のレディスマンションのが近くて早い。
少し歩いて病院から離れ、流しのタクシーを捕まえた。
手を繋いだままの吉本巡査部長が、ポケットから二つ折りの財布を出して、釉葉に5千円貸してくれた。
「あ……」
考えてみれば、今の自分は財布すら持っていない。
「……ありがと」
言う釉葉に吉本は
「トイチな」
「チクるで」と、笑って柚葉は別れた。
この一時帰宅だが、もちろん医師の側にも思惑がある。
この後、あの娘が戻ってきたとき、どれほどの荷物を持ってきたかで、彼女の内心にめどが立つのだ。
かなり落ち着いて見えたが、着替えが多すぎたり少なすぎたりしたら、表面は落ち着いていても、内心は動揺していると見て取れる。
メイク道具や財布などは女性として当然としても、それを入れるショルダーバッグやポーチの色やサイズでも、見当がつく。
和服から着替えたとして、そのセレクトや着こなしもヒント。
案外よくやるのが、靴を履き替えるのを忘れることだ。
移植外科の専門医として、つまり人の生死の場面に直面する機会が多いだけに、術後のケアは、むしろ患者よりも家族が重要だと、医師は知っていた。
タクシーの中から、釉葉はオリハラ本社に電話を入れた。
自分のスマホなら、秘書室長の個人番号もメモリーに入っているが、さっき病院で借りたばかりのPHSには、当然そんなものはない。
代表番号を鳴らし、秘書室長に回してもらう。
「そっち、マスコミどんなん?」
問う釉葉に秘書室長は
「よっぽどネタに飢えてるんか、大勢来ています。どう対応しましょうか?」
と、質問で返してきた。
「マスコミは、広報室長に。株主はIR担当に。自分らは表に出ないように」
「でも、どちらも何も知りませんよ?」
釉葉は、少し考えた。
この秘書室長、応用は利かないが使い勝手はあると思ったが、根っこがバカなのかもしれない。
「やから、知らんモンは知らんでええやん。私かって知らんしわからんもん。
情報源と思っていたのが情報にならんとなったら、連中もヒマやないんやし、どっか行くわ。
あ。血、ありがとな。
名目は後で考えるけど、4月の定期昇給の時、社員全員に一律1万円くらい出してあげて。一時金みたいな感じで。
献血せんかった人も、差別したらアカンよ?」
こんな話をしていたら、自分のマンションが見えていた。
赤色灯を回したパトカーが停まり、なにかもめている。
オリハラに、つまり釉葉の家族に恨みがある相手の犯行だとしたら……自分の部屋に拳銃が撃ち込まれた……とか?
なかば覚悟を決めてタクシーを降り、素知らぬ顔でマンションに入った。
マンションの顔見知り住民とエレベーターで遭遇する。
「大変やったみたいやなー。お父さん大丈夫なん?」
あー。確認はしていないけど、当然ニュースにはなっているだろうし、病院前のあれから判断すると、ワイドショウも動いているか。
「ありがと。とりあえずは大丈夫っぽいけど、しばらく病院に泊まるから、着替え、な」
溜息と苦笑をにじませる釉葉だが、その苦笑をどうとらえたのか
「レディスマンションの前でアレやろ?通報してやってん」
含み笑いで返す。
「性格悪う」
釉葉も笑って返した。
部屋に戻ると、速攻で泊まりの準備をした。
用意する着替えは4日分。病院にはリネン室もランドリー設備もあるから、洗って着回せばいい。
忘れやすいのは靴下とストッキングだ。
はんこと保険証も必携。
釉葉の場合、自分の社会的立場もあって、同世代の中では出張慣れしているという自負がある。
お土産は必要ないから、機内持ち込みサイズの小さなキャリーバッグ。
セカンドポーチは……と。
舞踊教室に置きっ放しだ。
取りに行く時間があるか逡巡していたら、PHSがメロディを奏でた。
メモリー登録をしていないので誰かはわからないが、「090」だから携帯電話だな。
もし父親の容体が急変して病院からの緊急連絡なら、固定電話を使うはずだから、油断してOK。
電話に出ると、吉本巡査部長からだった。
「どーせすぐ病院に戻るんやろ?送るわ」
釉葉は時計に目をやった。まだ9時前だが、お互いの移動時間を考えると、10時が無難か。
けど、気持ちが急いて、9時30分を告げた。
それからシャワーを浴びてメイクを直す。
メイクポーチは舞踊教室に置きっ放しにしてあるセカンドバッグの中だ。
寄る時間があればいいけど、念のため旅行用の小さな、金属パーツを使わないヤツも持って行った方が安全かな?
出社時に着るスーツに袖を通すと、ちょうどまたPHS。
時計を見ると、9時25分になっていた。
相変わらず時間に正確だなと、思わず顔がほころぶ。
PHSをとると、やはり吉本だった。
「今、マンションの少し西の郵便局の前。ポストのトコ。白のマークXやから」
あれ?
RX-8から車を変えたのか?
そんな話は聞いていなかったけど。
いぶかしみつつ玄関へ。
っと。ふと思い至って、マスクで顔を隠した。
マンション入り口では、相変わらず制服警官とマスコミ&野次馬が集まってごった返していた。
釉葉にカメラが向けられたのに気づき一瞬緊張したが、追いかけられることはない。
入居している住民の一人として見過ごされたのか?
レディスマンションだからこそ、誰彼なくむやみに放送して、それが原因でストーカーや性犯罪に発展したら、最悪番組がつぶれる。
釉葉は郵便局へと行き、中に入って、ガラス越しに外を見た。
たしかに、ポストのところに白のマークXが停まっていた。
中を覗きこんで吉本の顔を確認し、ウインドウをノックしてから助手席のドアを開けて乗り込んだ。
車内は、謎機械がいっぱいあって、吉本の趣味ではない。
つい「誰の車?」と尋ねる柚葉に「覆面」と、吉本は笑って返した。
「カメラがあるとこで、自分の車デビューさせとうないやん?」
「ええのん?」
心配する釉葉に「上のOKはもろとるよ」。
この車ならひょっとして。
はたと気づいた釉葉は、舞踊教室に寄れるか聞いた。
三宮の渋滞は、運が悪いと2km走るのに1時間かかることもある。
が、この車なら、ひょっとしたら。
その意をくんだように、吉本は手元のスイッチを押した。
釉葉の右後ろ頭上からかすかなモーター音がしたかと思うと、すかさずけたたましいサイレン音が響いた。
「ほんまにええのん?」
「知らん」
信号も渋滞も無視して、舞踊教室へ。
もちろん、朝10時前で教室はまだ開いていないが、受付は座っていた。
受付のおばちゃんに自分の名前を名乗ると、紙バッグを渡された。
自分の私物が全部、この中に入っている。
この辺の気配りは、さすがと言うほかない。
礼を言って日赤病院に行ってもらう。
病院の手前1kmあたりで音を消し……モーター音が聞こえないってコトは、赤色灯は出しっぱなしかな?
吉本巡査部長は、その肩書きの通り制服巡査で、覆面パトカーに不慣れなのかもしれない。
今は、いつものデート用黒の3つボタンスーツだが、少し不安になる。
正面ゲートで窓を開け、門番のおっちゃんと少し話したかと思うと、外来者用でない、関係者用の駐車場に車を進めた。
あ、そか。
赤色灯があれば、無駄な問答が省けるんだ。
昨日からの24時間ほどで、たぶんこれまでの3年間よりも、柚葉は吉本に惚れ直した気がした。
っと。
「自分、ついててくれるのはうれしいけど、仕事大丈夫なん?
そら、私のせいでクビになったら私が雇うけど、一生尻に敷くで」
冗談を交えて問う釉葉に
「やから上がな。この車もそうやし、当面は県内出張扱いにしてくれるんやて」
もちろん、県警上層部というか対策本部、鈴村警視の魂胆は吉本にも読めている。
吉本を釉葉にぴったり貼り付けることで、反社会的勢力との接触を遮断しようと。
深読みするなら、病院がPHSを釉葉に渡したのも、そういう含みがあったのかもしれない。
スマホの電源を切ったままにしておけば、目の届かないトイレの個室で連絡が取られるリスクを減らせられる。
「鈴村さん、やっけ?感謝やな」
「やな」
腹の底が読めない婚約者だが、吉本もこの24時間で、3年分以上の彼女をうかがえた気がした。
釉葉の父親はまだICUにいた。
といっても、手術室に隣接する部屋ではなく、普通のICUだ。
小窓が開かれて中を見させてくれるが、釉葉はまだ父親の手を握ることができない。
考えようによっては、今朝までいたICUのほうが全体が見えるぶん、様子がよくわかる。
苛立ちさえ感じたが、廊下のベンチに比べれば小窓があるだけマシかもしれない。
執刀医と、同世代の小柄な医師、30過ぎの若い医者の3人が出てきて、釉葉に状況を説明した。
バイタルは危機状態を脱して安定している。
患者の体力次第だが、容体急変のリスクは少ない。
1週間以内に、一般病室に移れるだろう、と。
釉葉の頬を、熱い物が流れた。
釉葉はとっさにぬぐったが、止まらない。
あきらめた。
看護師に促されて、入院の手続きをとる。
吉本は、その豪快さにあきれた。
所詮自分は一介の公務員だと思い知らされた。
釉葉は、個室を、それも差額室料に特別加療費を求められる特別室を、躊躇なく押さえた。
個室に入る予定の患者は、いまだICUで治療を受けていて、ひょっとしたら1週間は空き部屋になる。
釉葉が病院に泊まり込むつもりなのはわかっていて、個室ならそのスペースや設備はあるが、無人のベッドに1日10万円?
もちろん保険適用外で、全額自己負担だが、全く躊躇がない。
「お嬢様……」
釉葉とつきあって3年。
お嬢様といっても、実際の金銭感覚は自分と大差なく、カレーの肉を買うのにグラム1円の差を真剣に悩むのを見て、油断していた。
ついさっき、彼女の底がうかがえたと思った吉本だが、二重底だったらしい。
これは……たとえ警察をクビになって彼女に再就職の面倒を見てもらわなくても、油断したら尻に敷かれるのは避けられない。
それはそれで、人生イージーモードかもしれないが、財布とメンツのせめぎ合いになると、改めて覚悟をした。




