第3話
12月24日。ネタじゃなくてクリスマスイヴ。
釉葉と吉本巡査長は、西宮の高層ホテルでディナーを楽しんでいた。
三宮の夜景は100万$とも称されるが、実際には六甲山から見下ろしてで、三宮からはほとんど真っ暗な海しか見えない。
たとえるなら、東海道新幹線の南側の席に座ったようなもので、富士山が見えないのと同じ。
対して西宮は、街が一望できる。
光の海にぽつんと真っ暗なクレーターにみえるのが、聖地甲子園。
夜景としてだけなら、釉葉は西宮に軍配を上げる。
ホテルのラウンジは個室で区切られ、カップルが人目を気にせずいちゃいつける、この日のためだけに作られたような構造をしている。
そしてそのあとは……ここは紛れもない「ホテル」だ。
釉葉と吉本巡査長は、贅沢なコース料理にナイフとフォークを突き立てつつ…沈黙していた。
吉本は身体にフィットした黒色3つボタンのスーツ。
細身ではあるが、それがかえって胸板の厚さを強調する。
対して釉葉は、白を基調としたイブニングドレスだ。
お気に入りのブルーサファイアのブローチを、今夜は左胸に着けている。
指輪のたぐいは全くつけていない。
特に左手薬指に「空席あります」をアピールって意味もあって。
コース料理を頼んではいるが、ボーイが勝手に皿を下げていくようなことはない。
皿が一段落すると、テーブルベルを軽く鳴らす。
が、二人に会話は少なく、食事ペースはあまりにも遅く、前菜が終わって、ようやくメインの1皿目にはいるところだった。
あるいは食後に思いをはせて、目の前の食事の味がわからなかったのかもしれないが、歯の浮くようなセリフをしゃべってピエロを演じるのも、男の甲斐性じゃないのか。
「ふふふ」
ふいに釉葉が笑い出す。
「高かったやろ、ここ。公務員の安月給やったら、かなり無理したんちゃう?」
「はい。一世一代の無理をさせていただきました!」
そう言う吉本巡査長に、釉葉は
「その無理は、興信所に領収書回すん?」
なれない分厚いステーキを相手に悪戦苦闘していた吉本巡査長の、両手の動きが完全停止した。
「毎月3万円と、プラス必要経費。結果報酬が10万円な」
「な……何のことか。さあ、料理が冷めちゃいますよ」
うろたえはぐらかそうとする吉本に、釉葉はバッグから取り出した紙束を渡した。
それは関西に本拠を構える銀行の、口座明細のコピーだった。
「ほら。毎月3万円。私とデートした2日後には、実費が入ってるね」
…………。
沈黙が戻る。
「アホなマスコミや野党とちごうて、私は公務員のバイトはアリやと思うよ。
けどなー。私をネタにされたら怒るよ」
静かに軽やかに、けれども冷たく釉葉は言い放った。
「あとなー。地元の銀行使うんやったら、都銀は避けたほうがええで。
信用金庫のが、まだ口が堅いから。
ウチの会社が1か月に動かすお金とあなたの生涯賃金、どっちが多いかわかるやろ?
融資のついでに、ちょっとした雑談がこぼれることもあるから」
「それでも、ここ3か月、やっぱ楽しかったわ。ありがとなー」
そう言うと釉葉はハンガーに掛けていたベージュのコートを羽織って、個室を一人離れた。
残された吉本巡査長は、散らばった紙を拾い集めつつ、スマホのメモリーをダイアルした。
ホテルを出た釉葉は、港に向かって歩き出した。
何人かのナンパをかわし、人通りのほとんどない通りへ。
そこからさらに南に進もうとしたところで、声をかけれれた。
「ナンパは気分ちゃうんよ。ほかあたって」
「ネタの出どころとルートを教えてくれたら、それで全部忘れてくれたら、すぐ消えるわ」
中年の声。
釉葉は小さく舌を出して、ぺろりとルージュを舐めた。
革靴vsパンプス。男と女。距離を詰められるたびに角を曲がり…やがて、トマソンエリアへと誘導されてしまった。
地の利は相手にある。
コの字に凹んだところ。もとは電柱があったのだろうが、今は地下に埋設されている。
それでもトマソンとして残ったのは、マンホールの出口があったからか。
周囲を囲む壁は2mほどあり、飛び越えるのは無理。
釉葉は胸ポケットに刺したボールペンを右手に持ち、後ろを中指で抑えつつ、ペンのハラを自分の首に添えた。
そして右足で、思いっきり正面の壁をける、
もちろん、女の蹴りで壁が崩れるはずもなく、釉葉はそのまま背中から後ろにひっくりかえりかけた。
フェミニズムか狩猟本能か、こんな倒れ方をすると、男はほぼもれなく、女の背中と肩を受け止めようとする。
伸ばした掌を、釉葉の首の横に固定されたボールペンが貫いた。
ボールペンは、量販店でも売っている量産品。
ノック式ではなく、キャップ式なのがミソだ。
そして本命は、芯の太さ0.3mm。
女性の体重でも、たやすく手の甲を貫通する。
男は痛みと驚きで自分の手を見ようとして、釉葉に覆いかぶさる形になる。
傍目には恋人達が片肘ついて包容し、お互いに見つめ合っているようにも見える。
実際釉葉は相手の、もっとも愛を誓うそれではなく、驚愕と苦痛に怯える顔を見ながら目を細めてにっこりほほえみ、左手で、すっと男の顎先を押し上げた。
キスを誘い、じらすかのように。
そして笑みを崩すことなく、今度はそのボールペンを引き抜き、あごの付け根からまっすぐ頂頭葉をめざし、根本まで打ち込んだ。
下顎は上顎に押しつけられ、悲鳴すら出せない。
自分が何をされたかわからないまま、時間がたてば自分が死ぬことだけを理解して、男は動かなくなった。
ひょっとしたら、今すぐ救急車を呼べば命だけは助かるかもしれないが、1年と延命できず、意識も戻らず、ただベッドに寝かされたまま人生を終えることになる。
どちらが幸せか、経験のない釉葉にはわからない。
釉葉が身を起こすのと入れ替わりに、今度は男が地面に転がった。
死後硬直が来る前に、ただし血流が静まるのを待つ。
もっとも、即死はしないから、血流の完全停止を待つほどの余裕もない。
身をかわし、自分の身体を相手の頭の向こうに置いて、そっと顔を近づけ、手を伸ばす。
これまたキスのような仕草で、顎の下のボールペンを引き抜く。
動かない男を見下ろしながら、あの「変質者」で間違いないことを、スマホのライブラリで確かめる。
「OK」
それからさらに南に歩くと、愛車のミラジーノがとめてある。
ボールペンはティッシュで素早く血脂をぬぐい、愛車の近くの側溝へ、無造作に放り込む。
ティッシュは小さく丸めてティッシュが入っていたビニルに戻し、道すがら手近なコンビニで捨てよう。
わずかに返り血を浴びたコートは丸めて、リアシートの足元へ。
さーて。帰ってチキンでも食べようか。
帰宅した釉葉を、父親が玄関まで迎えに来た。
釉葉は意識して笑顔を見せて、
「ふってきた。フリーや。
もう、お父さんの介護でええかなーって」
それを聞いた父親は怒りを演じつつ、
「オマエに介護されるくらいなら、施設に入るわ」
と、笑った。
それから釉葉は風呂につかり、パジャマで部屋に戻って、丸めたコートを開いてみる。
血のあとは小さく、もう茶色く乾いてしまっていたが、
「あー。このコート、お気に入りやってんけどな」
とボヤいて庭の焼却炉に放り込み、蓋を閉めて火をつける。
未練はあるが、自分の人生と天秤にかけられるほどには大きくない。
3分ほど白い煙が煙突から上がって、消えた。
部屋に戻ってベッドで横になっていると、ノックが2つ聞こえた。
返事をする前に、父親がワインボトル片手に入ってきた。
栓はしっかり抜かれているが、グラスを持っている様子はない。
「ほんま、どっか抜けてるなー」
言う釉葉に父親は
「オマエが言うな!」
軽く釉葉の頭を叩いた。
グラスを取りにダイニングに行くよりも、2人でリビングに行った方が手間がない。
向かい合ってソファに座り、ワインを満たしたグラスをぶつけ合って乾杯。
父親はタバコに火をつけつつ、
「西宮の興信所や。後ろは菱の筋やけど、枝の枝で、切ってもええって」
「どこで剪定するかがセンスやな」
「オマエ、時々めんどくさくなって幹を切ろうとするからなー。
枝はともかく、幹には手を出すなよ」
もちろん、庭木の話じゃない。
父親に盆栽の趣味はないし、釉葉にもガーデニングの趣味はなかった。
もっと、血なまぐさい話。
それを父娘でグラスを交えつつ、木の枝くらいの軽さで言い合う。
「私思うんやけどな」
釉葉の言葉に顔を向ける父親に
「私が売れ残ったん、原因のかなりの部分は、お父さんちゃうかなーって」
「ファザコンか」
「ちゃうわ!」
週があけ、釉葉は西宮に出た。
官庁通りの雑居ビルの一室に、「信用機構」の事務所がある。
ローンなどを組むとき、「審査」という一節が必ずあるが、それはこの機構への問い合わせと、ほぼ同義語だ。
自分の身分証明。免許証と印鑑を提示して、自分が自分だと示して数千円払うと、自分の「信用情報」が出る。
といっても、「いい人」とかそんなんじゃなくて、どこの銀行でいくら借りて、月々の返済額と事故の有無。
返済が終わっていたら、「完済」の記録が残る。
銀行系のキャッシュカードで「貸し越し」が起きると、その記録も残る。
そして、もう1つ。
釉葉のように、信用情報を照会「された」記録も残る。
もちろん「誰が」は、昨今の個人情報保護で教えてもらえないが、回数は教えてもらえる。
釉葉は「3回」だった。
そのうち1回は、今、自分が照会してるのをカウントされたものとして、あとの2回……おそらく1回は、くだんの興信所 として、もう1つ。
そもそも興信所にしたって、別に住民すべての信用情報をチェックする義理はないし、タダじゃないからオーダーがなければやらない。
興信所に依頼した相手が、今回の「本丸」で、その1回も、おそらくそこだろう。
と、念のため。
釉葉は興信所の名前を出して、窓口のおばちゃんに尋ねてみた。
奥からワイシャツの爺さんが出てきて対応が変わる。
あ。この「信用機構」だけれども、別に黒い方向の組織じゃなくて、銀行OBや財務方面に強い公務員の天下り組織な。
本人が、自分の信用調査を勝手にされて不安を覚えるのは当然で、まして釉葉は生まれてこの方、ローンなんか1度も組んでないから、真っ白。
それが短期間に3回となれば、相手も察してくれる。
もっとも、照会者の情報は、される側よりも秘密のレベルが高いという理不尽さで決して教えてくれないが、全くシャットダウンってワケでもない。
今回の釉葉のように、相手を個別に指定できれば、「違う」か「流す」かという空気の読みあいとなる。
それに関しては、釉葉には自信があるし、相手も銀行OBなら、その道のベテランだ。
はたして釉葉の問いは流され、それで釉葉は頭を下げて、雑居ビルを出た。
興信所には、向かわない。
行ったところで何の収穫も得られないのがわかっているから。
コンビニの監視システムの裏にあったブラックボックスから、発信先の電話番号がわかって、そこからこの興信所がわかった。
もちろん、最新のIP電話システムを使っていたけれども、IPアドレスはともかくIP電話は、受信側の電話番号をピンポイントで押さえることができる。
なお、ブラックボックスは相変わらず、あそこにつけたままだ。
幽霊は正体不明だから怖いんで、ハッキリしてしまえば、逆に開き直れる。
もっとも、吉本巡査長が、慌てて回収しただろうけど。
釉葉はスマホを取り出し、手帳を開く。
アドレス帳に登録していない番号にかけるから。
もっとも、全くの初めてではなく、家電からは何度となくかけている番号。
「芦屋警察署」
よそ行きの声で、釉葉は
「お世話になります。折原です。恐れ入りますが、生活安全課の吉本巡査長をお願いします」
と言うと、電話を受けた女性の声は弾んで、保留も押さずに
「吉本さん。折原さんからで~す♪」
そしてしばらくあって、吉本巡査長が出た。
「お世話になります。ちょっと声が聞きたくなって。
と、それとは別に。
ほら。以前、尾行されてるってそっちに行ったやろ?
それから自分が来てくれるようになって尾行はなくなったみたいやねんけど、監視カメラ使われててん。
それもコンビニの。うん、店長さんに聞いて。警察がつけてったって。
なんか怖いから、調べてくれへん?」
そう言う釉葉に
「よくわかりませんが、調べてご報告します。この番号でよろしいですか?」
吉本巡査長の問いに
「はい。また近いうちにお会いできたらいいですね♪」
警察署の電話は、かける方は番号非通知のつもりでも、相手には電話番号が表示される。
そして、すべて録音されていると考えて間違いない。
はたして、ほどなく、釉葉のスマホが振動した。
「?」
知らない、携帯の番号。
「あー、折原さん?」
「あら。警部さん」
ほら。やっぱり記録されていた。
釉葉の携帯番号は、警察には知らせていないハズ。
「吉本のヤツ、イヴにふられたって落ち込んでてん。
ええヤツやから、ほんま、頼むわ」
「ちゃんとお詫びと、手土産次第やなー」
「悪代官か、アンタは」
言って、笑って切れた。
そう。手土産だ。
また電話。今度は登録がある。吉本巡査長だ。
「お世話になります。順次確認していますが、速報でと思いまして」
「ええよー。どこで?」
「今、どちらでしょうか。ご自宅にかけたところ、お留守とうかがいまして」
今日は家政婦さんが来る日で、釉葉は今、西宮にいる。
もっとも、考えようによっては、ここはアウエイだ。
芦屋だと、警部さんもついてきて、「手土産」が期待できない。
なら、嘘も方便か。
「神戸。今垂水やけど、三宮まで戻るよ」
おし。ホームで迎え撃つぞ!
JR神戸三宮駅の北側、あるいは「山側」と呼ばれるエリアは、南側の派手さと対照的に、少し古い店がならぶ。
もちろん、入れ替わりはあるし、居抜きでオーナーが変わっていることも少なくないが、住民そのものはあまり変化がない。
当然、釉葉の顔を知っている人もいるだろうし、釉葉の仕事を「政治家事務所職員」と認識している人もいる。
彼らは、釉葉が辞めていることなんか知らないから、少々生臭い話をしても「またか」ですむ。
JR三宮駅で吉本巡査長と待ち合わせして、そういったなじみの喫茶店の1つに入った。
「おや。ゆずさん、お久しぶり」
マスターに声をかけられて、手で会釈して
「おひさー。ちょっと奥借りるな」
すたすた先に歩いていく。
巡査長の顔は見えないけど、おそらくはめられたと、焦っているのは伝わる。
テーブルについて、ホットコーヒーを2つ注文して。
「で?」
おもむろに「返事」を求める。
質問はしてあげない。
質問に回答を返せば、それで話は終わる。
が、順番を逆にすると、こちらが満足のいくまで、相手はネタを出し続けなければならない。
ま、ヒントくらいはええやろう。
「西宮の興信所」
そう言うと、吉本巡査長は
「自分は、ゆず……いえ、折原さんに悪い虫がついてないかと、ついてなかったら現状保護を言われて」
「釉葉でええよ。だれから?」
「所長からです。内訳はあの資料の通りで間違いありません」
「その所長は、だれから?」
「わかりませんが……時々、「住吉のボン」って言っているのを聞きました」
いあ。急に住吉とか言われても、全然心当たりがない。
駅を使ったこともないし、知り合いの1人もいない。
「で、や。アンタは悪い虫がつかないように私を守っていただけ、と?」
「はい!」
正直、ここまでは釉葉にも、多少の未練はあった。
けど、今ので完全にさめた。
完全に終わった。
「自分が悪い虫になろうとは思わんかったん?食べようとは思わんかったん?
バカにせんといてっ!」
そう言って席を立ち、伝票を手にレジへ。
「別れ話?」
マスターが小声でかける声に
「すんでもた♪」
と、釉葉は小さく舌と、財布を出した。
釉葉のコーヒーは、全く口をつけられていなかった。




