第0話
某代議士事務所職員の釉葉は代議士の無茶振りで事件に巻き込まれた。
が、そもそも事件解決は警察の仕事で、釉葉達にはそんな意気込みはない。
お日様西々、ポーズを作って体裁を整えて。
そんな釉葉の事務所は、しかしブラックだった。
晩秋というよりも初冬の夜風が、目深にかぶったキャップからはみ出した髪の毛の端を揺らし、さらされた耳たぶと頬を冷たくなでる。
木枯らしに、落ちるべき木の葉は大方がすでに散りはて、カサリとも音を立てない。
深夜と言うにはまだ早い気もするが、夜の11時を回って、いくつかの家はすでに明かりを落として、まばらな街灯が自らの存在を誇示するかのように灯っている。
そして、そこに道があることと、ここが高級住宅街であることを、誰ともなしに知らしめている。
私はそっと、右手の人差し指を柄から外し、刃の背をなでた。
外科医の使う手術用手袋ごしに、ステンレスの冷たさが伝わった。
小学校の時だっただろうか。
父親の書斎の本棚で、経済や政治の、活字ばかりの退屈な本に混じって、場違いなマンガの本を見つけたのは。
その主人公は大きな銃を手にし、何百メートルも先のターゲットを一撃で屠った。
当時、まだ幼かった自分には、彼がなぜそうするかといった説明は理解できなかったが、彼の超人的な能力に感嘆し、何度も読み返した。
それから時間がたち、成長した自分が彼と同じ世界に踏みいって、今更ながらにマンガのフィクションを知った。
この「仕事」に、オリンピックで金メダルを取ってお釣りのくるような、そんな射撃の腕は必要ない。
100メートル先のターゲットに当てたければ、こちらが100メートル近づけばいいだけだ。
1メートルでも1センチでも、近づけば難易度は確実に下がる。
そのために、自分の気配を殺し、街の空気に紛れることこそ、何よりも大切な能力となる。
あわせて、気配の乱れを肌で感じ取れる、嗅覚よりも触覚に近い感覚を磨くことこそ、自分が生き延びるために大切な能力となる。
そして……私の頬が、目や耳よりも先に、「におい」に気づいた。
初めに見えたのは、影。
街灯に照らされて、それが人の形を結ぶ頃には、足音も聞こえてきた。
影も足音も1人分。
私はナイフの腹を自分の胸に当てて、自分の鼓動と呼吸、そして「気配」のそれをシンクロさせる。
我流だし、それに意味があるかどうかは知らないが、これが私のスタイルであり、鎮魂の儀式のつもりもある。
いくつ目かの街灯で、ターゲットの顔は確認できた。
間違いない。
やがて足音が近づき……影と足音と、さらに私が1つに重なったとき、私は右手のナイフをまっすぐに突き出した。
ターゲットの背中から鳩尾を貫く形で。
肺の中の空気が血泡となって抜け、悲鳴を上げることも許さない。
私は、ターゲットの左肩に手を置いて、そこを支点に半身をひねり、ナイフを引き抜いた。
返り血とは、刺したときではなく、抜いたときに浴びるもの。それを避けるために。
続けざまに後頭部。
延髄から斜め上にもう一撃を加える。
刃は拍子抜けするほどあっけなく、根元まで頭に埋まった。
音もしなければ、道路にすら血痕はほとんどない。
まして自分が浴びるようなミスを犯すはずもなく。
中学の頃だっただろうか。
クラスメイトの一人がナイフを学校に持ち込み、うれしそうに見せびらかせていたのは。
「刃を上に向けて、刺したらひねる」とか「刃は横にして、肋骨の間を狙う」とか、蘊蓄を語り合っていたのをかすかに聞いた覚えがある。
頭でっかちの、経験のない中学生だからできる話。
実際は、何のことはない。
ちゃんとしたナイフなら、まっすぐつけば肋骨などたやすく切断するし、何も一撃必殺にこだわる理由もない。
絶命するまで、2度3度と刺せばいいだけだ。
「!」
そのとき、唐突に気配が出現した。
それが殺気だったなら、もっと早く気づけただろう。
敵意や恐怖ならば、さらにあからさまだ。
けれどもそれは「気配」としか感じ取れず、かすかに伝わるのは……混乱?
見られた!
とっさにキャップのつばが顔を隠しているのを確認して、そちらに視線を送る。
ナイフを持って駆け寄ろうとした私を嘲笑うかのように、セルモーターの音がした。
それは私が駆けつけるよりも早く原付スクーター特有のエンジン音へと変わり、私を嘲るかのように走り去った。
私は、遠く小さくなっていく、スクーターの赤いテールランプを眺めるしかなかった。
完熟リンゴの腐ったような、不自然に甘い臭いがあたりを満たしていた。
ご愛読ありがとうございました。
若干ですが筆者の体験談も混じっていますが、フィクションです。
なお、筆者は当該エリアには……住んでいません!
ツッコミ&ご感想大歓迎です。
あと、誤字&脱字に気がつきましたら、教えてください。
できるだけ慌てて直します。




