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移りゆく

作者: 早瀬 夏樹

 少しだけ歩調を速めれば、じっとりと汗が滲んできて、髪の毛が額や首筋にぴったり張り付き鬱陶しい。長い髪をぐあっと乱暴にかきあげて風を送り込んだが大して効果はなかったようだ。

 どん、どん、と腹の底に響くような低い太鼓の音が段々と近付いてくるのを聞くと何となく暑さと気だるさが増したような気がした。

 ちらりと左腕を見ると巻いてある腕時計は六時三分を示している。まずい、少し遅れた。

 六時を回っているものの夕日はしぶとく西の空に居座り続けており、そこは茜色に染まっていた。

 斜め掛けのバッグを肩にかけ直してからアスファルトを蹴る力を少しだけ強める。生暖かい風は汗のかいた顔を吹いていって私の思考を鈍らせる。ぼうっとした頭のまま角を曲がると腰に手をあてて如何にも怒っています、というポーズをわざとらしく作った同級生の雑賀可南子(さいがかなこ)が待っていた。

「まいまい、四分遅刻!」

「いや、毎朝私を待たせているのはどこのどいつよ」

 先程までは謝らなければと思っていたが、本人を前にするとどうでも良くなってしまった。大して怒っていないようだし。

「むう、まあいいか。じゃあ行こう?」

 可南子はくるりと表情を一転させ可愛らしく微笑み、ツインテールを揺らして歩き出す。真っ白なロングスカートがふわりと踊っていた。彼女の後ろをついて行きながらもう一度髪をかきあげる。

 暑いな、畜生。

 目の前にある古めかしい歩道橋の向こう側に位置する公園にはこの狭い町内の、夏の熱気が集結している。

 一つため息をついて階段を上がっていく。公園に近づく毎に人は増えていき、ざわめきは大きくなる。

 昔は、夏祭りに行くことが楽しみで、楽しみで。祭りの日は朝からそわそわしっぱなしで、綺麗な浴衣を着せてもらう時なんかは倒れてしまいそうなくらいどきどきしていた。中学に入ったくらいから夏祭りに対する高揚感は失われていき、高校生の今では、正直、夏祭りはほんの少しだけ面倒くさかった。周りの友人の多くは未だに夏祭りを大いに楽しみにしている訳だが私はどうしても、駄目だった。別に嫌いになったわけではなく、どちらかと言えば好きだし、全く楽しみではないと言ったら嘘になるけれど、それでも。

 だって、ほら、眩しい。

 園内に入ると広場の中央には櫓が組まれており、その周辺には幾つかの大きなライトが煌々と光を放っていた。

 ああ、ほら、眩しい。

「まいまい、取り敢えず席確保しようよ」

 嬉しそうに笑いながら手招きする可南子が、少しだけ羨ましかった。

 十数個の屋台が広場をぐるりと一周するように配置されており、櫓と屋台の間には多数の机と椅子が用意されている。私達は適当に空いている席を選んで座った。

「まいまい何食べる? かき氷? リンゴ飴? わたあめ?」

「何で甘いものばっかなのよ。先にご飯でしょうが」

「あ、そっか。焼きそば? うどん? フライドポテト? やっぱまいまいは唐揚げから?」

 いつもよりも興奮気味な可南子は私の目の前でにこにこ笑いながら軽やかに話を展開させていく。

「……可南子は何が食べたい?」

「えー、あたし? そうだな」

 右手を顎に当ててこれまたわざとらしく考えるポーズを作る。多分彼女はいま大して考えていない。

「何でもいい!」

 ほら。

 にやつきそうになるのを我慢しながら鞄の中からタオルを取りだし机の上に置いて立ち上がる。

「じゃあ唐揚げから」

「オッケー!」

 彼女は肩に掛けていた水色のバッグから団扇を取り出し、同じく机の上に置いて、私の後に続いた。

 一歩机や椅子のスペースから外に出ると、人の波が待ち受けており思うように前へは進めない。人は右へ左へ行きたいように行き来する。屋台に並ぶ人々は大きな壁を作ってしまい、割り込ませないようにと前の人にへばりつくことに躍起になる。湿度も温度も上昇し、むしむししていけない。

 このままでは何時まで経っても目的地に辿り着けないと、私は屋台と屋台の間をするりと抜けて、しんと静かな薄暗い舞台裏へ入っていった。湿度は相変わらず高いものの気温は驚くべきほど快適で過ごしやすいものだった。

 屋台の裏側には殆ど人はおらず、数人の小学生達が屋台で買ったであろう水鉄砲やシャボン玉、ゴムボールなんかで無邪気に遊んでいるだけであった。彼らは何がそんなにも楽しいのか分からないがきゃあきゃあと甲高い声を上げながら手足を振り回し走り回っている。

 そんな光景を見ることが、僅かに苦痛だった。

 可南子の方を見れば彼女も小学生たちを見ていたようで、彼女はそこにいた子供たちと殆ど変わらない、無邪気な笑みを顔一杯に浮かべていた。唐突に可南子は視線をこちらに移す。

「まいまいは県外の大学受けるんだよね」

「え、ああ。今のところはね。まああと一年以上あるから、分かんないけど」

「そっかー。あたしもそろそろ決めなきゃなぁ」

 可南子はサンダルをずりずりと引き摺るようにして歩きながらはははと眉を下げて困ったように笑った。

 今のところ志望しているのは県外の大学ばかりだから、きっと再来年の春には私はこの町にいなくて、ずっと隣にいた可南子はいなくなって、一人で生活するようになって、全く違う環境の中にいて、全く違う人間関係を築いているのだろう。

 上手に想像することなんて出来ないけれど、きっとそうなんだろう。

 不意に屋台に吊るされた風鈴がちりんと涼やかに揺れた。その音色は雑踏に掻き消されることなく真っ直ぐに私の耳に届き、蒸し暑さは一瞬何処かへ行ってしまったが直ぐにあの熱は再燃する。

「夏休みが、もうすぐ終わるね」

 隣を歩く可南子がそう呟く。

 目的地まであと十数メートル。


***

 それから私達は唐揚げを食べて、焼きそばを食べて、射的をしてからかき氷を食べた。射的では、私は小さな熊のぬいぐるみを当てて、可南子は綺麗な石のキーホルダーを当てた。気がついたら空はすっかり暗く染まっており辺りは夜の帳に包まれていた。

 暫く席に座って雑談をしてから八時を回っていることに気がつき、コンビニにでも寄ってから帰ろう、という話になった。

「あ、ちょいと御手洗いに行ってくるよ。先に歩道橋の方まで行って待ってて」

 そう言って可南子は公園の出口とは逆の方向に位置する公衆トイレの方へ小走りで向かって行ってしまう。

 私は忘れ物がないか椅子と机を確認してから人混みの中に足を踏み入れた。

 突然に、設置されていたスピーカーがハウリングしたかと思うと、大音量で曲が流れてきた。どうやら子供会の盆踊りが始まったようだ。それを横目に眺め、私も参加したなぁ、なんて昔を懐かしみながら歩を進めていく。

 すると、もう少しで公園の出口、という所で水色のハンカチが落ちているのを見つけた。拾い上げて見てみるとそれは新しいらしく、砂がいくらか着いてはいるもののシミなどの汚れは全くと言っていいほど着いておらず手触りもふわふわでまだ洗濯をしていないのが分かる。

 下ろし立てのハンカチを落としてしまったのか、とその落とし物を本部まで届けようと一歩踏み出したその時。

永田(ながた)?」

 背後から名前を呼ばれて振り返った。

「……あ、室井(むろい)くん」

 そこに立っていたのは一年生の時クラスメイトだった室井晴太(せいた)という少年であった。

 久しぶりだなーと歩み寄って来た彼は私の持っていたハンカチに目を止めて「あ、それ」と指を指した。

「これ室井くんの?」

「いや、友達のやつ。さっき下ろし立てのハンカチ落としたって言ってたんだ。気に入ったから無くならないように小さく名前書いてるっつってたんだけど……ハルキアオって書いてねぇ?」

 そう言われて見てみると確かにタグの部分に小さくだが、丁寧な字で『春木碧』と書かれていた。

「じゃあ渡しといてくれる?」

 開いたハンカチをもう一度折り畳んでから差し出すと室井くんは大きな目を細めて笑って「分かった」と受け取ってくれた。

 話すことが無くなって、少しの間沈黙が取り巻くが、夏の暑さのせいで頭がぼうっとするのでそんな沈黙気にならない。何気なく頭上を見上げるとライトが空に滲んでぼやけて見えた。

「昔は、俺も踊ったなぁ」

 視線を室井くんに戻せば彼は櫓の周りを回りながら踊っている子供たちを感慨深そうに眺めていた。

「……うん、私も」

 嘗て、私達はそこにいた。

 ――ああ、彼らは主人公だ。

 唐突に、そう浮かんだ。

 私達はもう夏祭りの主役ではいられない。別に、彼らのための夏祭りであるわけではないし、私達のための夏祭りでもあるのは間違いない。けれど、違うなあ。何だろう、この違和感は。

「あれ、そういえば今日は雑賀と一緒じゃないのか?」

 思い付いたように室井くんは私に問いかける。

「あ、今御手洗い行ってる」

「やっぱり一緒だったか。…………何か、あいつはあっち側っぽくて羨ましいなぁ」

「――……は?」

 彼が何を言っているのか分からずに思わず間抜けな声が出てしまった。慌てて口を押さえる。

 気を取り直して、どういう意味、と聞こうと口を開いたちょうどその瞬間。

「晴太」

 彼を呼ぶ柔らかな声がした。聞こえてきた方向を見れば、見覚えのない男の子が立っていた。襟足で切り揃えられた柔らかそうな黒髪とニキビ一つない白い肌を持つ彼の、真っ直ぐな瞳は室井くんに注がれており、その視線は少しだけ彼を咎めるようであった。

「皆待ってるんだけど。どこまでゴミ捨てに行っているんだよ」

 そう言われた室井くんは悪びれる様子もなく、「あーごめんごめん」と軽く謝ってから私にまたね、と手を振って小走りで去ってしまった。

 どうやら盆踊りは一曲目が終了したらしくスピーカーから音は流れておらず、人々の話し声がざわざわと私の周りを取り巻いていた。

 あっち側ってどっちだろう。私達と彼等の間にはそんなにも大きな隔たりがあるのだろうか。大人とか子供とか、そういう違いであるのならば、私達は本当に大人なのだろうか。そんな訳はないのだけれど、子供という立場に甘んじているのにもそろそろ限界を感じる。

 いつしか夏祭りは少しだけ、ほんの少しだけ、息苦しくて薄っぺらで退屈なものになった。昔は夏祭りの全てが魅力的できらきら光って見えていたのに。あの濃密な時間が還ってくることは恐らくないのだろう。もう少し大人になることが出来たら、もっと上手に割り切れるのだろうか。

「まいまいー! 遅くなってごめんー!」

 遠くから叫びながら走ってくる可南子が、やっぱり少しだけ羨ましかった。

 それが何故なのかは分からなかったし、誰にも理解されないんじゃないかと不安になってしまったけれど、室井くんは違った、と思い出して少しだけ安心する。

 見上げた空には淋しそうな星が、静かに瞬いていた。

 夏が、暮れてゆく。


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