太鼓の音に誘われて
どん、どん、どどん。
開けたままの扉から小気味のいい音が響いてくる。
ああ、そうか。今日は祭りの日だった。
僕の住む町では毎年祭りが開かれる。祭りと言っても神社の前で屋台が列をなすような盛大なものではない。家と家の間にできた少し広めの空き地。そこでそばや綿菓子を大人たちが作ってくれる。その程度のものだ。
僕の町は謙遜ではなく何もないと言える場所にある。京都というと聞こえは良いけど実際は東の端っこにちょこんとあるだけだ。友達にもよくそこは滋賀だとからかわれる。京都らしさと言えば大化の改新を起こした天皇が眠る陵があって、他府県に比べれば少しだけお寺や神社が多いくらいか。
都会とはかけ離れていて、住宅街でも田舎でもない中途半端な町。だけど僕はこの町が好きだとはっきりと言える。それはやっぱりあの祭りがあるからだろう。
外に出ると、大文字山を乗り越えて吹き降ろしてきた風がひとつ吹いてきた。もうそろそろ上着を着ないといけない時期になる。金木犀の甘い香りに包まれながら、街灯のない夜道を太鼓の音のする方へ一歩、また一歩と足を進めていく。
初めてこの祭りに行った頃はやっている場所が今とは違った。あの頃はまだ小学生だったかな、半そでで祭りに参加してはしゃぎまわっていた記憶がある。祭りの開催会場になっていた原っぱは、今ではすっかり立ち並ぶ一軒の家へと姿を変えている。飛蝗を追いかけたり、キャッチボールをしたりと思い出深い場所だったはずのその場所も今はもう誰かのものになってしまったのだ。
それでもこの祭りは場所を変えて続いている。いいなと思う。なんかこういうの。
祭り会場の前の道では子供たちが大勢走り回っている。
「なあ、今誰鬼なん?」
「えー、俺も知らんで」
「やばいやばい! 鬼来たで!」
逃げろーと蜘蛛の子を散らしたようにみんな一目散に鬼から逃げていく。多分鬼ごっこをしているのだろう。僕も子供の頃にしていた。
その時は確かケイドロをしていたんだったかな。いかんせん大文字山の裏側の麓にあるのだ。坂がとても多い。つきすぎた勢いを上手く押しとどめることができず、それはもう派手にこけて大泣きした記憶がある。
こんなこと完全に忘れていたなあ。子供たちは記憶をも連れてきてくれる。
いよいよ会場に足を踏み入れるとどこか空気が変わる気がする。
明日町内の大人や子供が担いで町を練り歩く神輿がテントの下でお供えもののお神酒と佇んでいる。その前では僕を祭りに誘ってきた太鼓を小さな女の子がお母さんと一緒によいしょと楽しそうに鳴らしている。寒さを紛らわせるために焚かれた火の前では大人たちがビールを片手に日々の疲れを吹き飛ばして赤ら顔だ。
「おー、来た来た。今年は来いひんかと思ったやん」
声がした方を向けば小学校からの友達がこちらに手を振っている。
毎年約束はしていないがこの祭りで会う。それがなんだか決まりみたいになっている。普段はろくに連絡も取らず、もっぱらSNSでお互いの動向を知るだけの関係になった大学生の今でもこうしてそれは続いている。
彼は綿菓子機の向こう側でせっせと列をなす子供たちに白いふわふわの綿菓子を作っては手渡しを繰り返していた。
僕がそちらへ近寄っていくと後輩に綿菓子機の前を譲り、テントの下に置いてある椅子に腰かけた。
「はいよ、これラムネな」
「ありがとう」
受け取ったラムネから手にひんやりとした感触が伝わってくる。瓶についていた水滴が僕の指をたどって地面に落ちていく。
ぽん、と気持ちのいい音がして空いたラムネは奥の方から次々と泡を発生させてくる。上手く口で止めることができずに手がべたついてしまう。
「あはは、どんまい」
「うるさいわ」
一言交わすだけでまたあの頃に戻れるのだから幼馴染とは不思議なものだ。
「最近大学どうなん? やっぱ忙しい?」
「そやなあ。俺理系やし研究とかで遅うまで残らなあかんねん。それにバイトもあるしな。しんどいわ」
そう言って話す彼も昔よりずいぶん背がのびた。昔は僕の方がずっと大きかったのに気が付けばさほど変わらない位置に目がある。
昔と全然変わらないなあ。そう思う。
あの頃のは屋台で綿菓子を作ってくれるお兄さんはずいぶんと大人びて見えたものだ。自分も成長したらあんな風になれるだろうか。そんな風に心を躍らせていたものだが今実際にそのお兄さんたちと同じ年になってどうだろうか。あれほど輝いて見えたお兄さんたちとは遠くかけ離れた自分がここにいる。もしかしたらあのお兄さんたちも自分と同じようなことを思い、自分を不甲斐なく思っていたのだろうか。
小学校の頃雄弁に語っていた夢とは程遠い位置に今僕は立っている。それが現実というものだと言われれば、悲しくもそんなものかと納得してしまうくらいには摩耗してしまった。
だめだなあ。
思わず唇の端から小さな笑いが漏れた。
「綿菓子作んの代わるわ。貸して」
せめて自分も何か手伝おうと声をかけた。
綿菓子機の前に陣取ったっは良いもののなかなかどうして綿菓子はうまく形になってくれない。くるくるくると巻き付けてもなぜか上の方からびよーんと髪の毛みたいな細いものが飛び出してしまう。
「ごめんなあ。上手くいかへんかったわ」
申し訳ないなと思いながら並んでいた女の子に綿菓子を手渡す。小さな手で落とさないようにしっかりと握りしめてから彼女は言った。
「お兄さん、ありがとう!」
ああ。僕は気づく。
彼女の眼にはきっと僕があの頃のお兄さんと同じように映っているのだろう。
そっか僕はもうこっち側なんだ。
受け取る側ではなく、渡す側。
憧れる側ではなく憧れられる側。
僕はこっち側なんだ。
もしかしたらあと四年もすれば僕はこの町を出ているのかもしれない。でも太鼓の音を聞くたび、どこかの祭りに行くたび、僕はこの光景を思い出す。それは確信に似たものだった。
そうだとしたら僕はあの子に恥じない人間になりたい。憧れの中とは違ってもどうだここまで生きてきたんだと胸を張れるようになりたい。
そう確かに僕は思ったんだ。
十月の高くなり始めた夜空に太鼓の音がどこまでも木霊していた。