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日本神話シリーズ

カグツチ、トラを飼う

作者: 八島えく

 その日、私は奇妙な出会いを経験した。


 そこで出会ったのは、二頭のトラと、美人のお姉さんだった。



 日本を構成する一つに、黄泉の国がある。

 黄泉の国は死んだ者が行く国であり、私の母イザナミが管理している。

 生者は原則として、そこを訪れることはできない。ただ、八百万の神々や、その神々に準ずる者は、正式な申請を行えば出入りが可能だ。


 私――ヒノカグツチは神であり死んでる状態でもあるから、黄泉と高天原、中つ国を自由に行き来できる。死んでる神様ってのはこういうとき便利だ。


 その私が、いつものように黄泉の国をぶらぶらと散歩していた時のことである。すでに深夜を回っていたころだったと思う。

「うん?」

 私の住まい(広さだけが取り柄のぼろ屋。雨露をしのぐのも難しいくらいガタがきている。まあ、黄泉ではこんなの普通だろうけど)から少し離れた場所に、見慣れぬ影があるのに気づいた。


 不思議に思ってそれに近づく。少なくとも、黄泉の国の住人ではない。黄泉に住むものならば、あんなに生き生きとした御霊を持っているはずがないからだ。


 その影は三つ。

 一つは妖艶な女。穢れまみれの地だというのに恐れることなく、この地面に直接ぺたんと座っている。

 薄桜色の髪はさらりと腰まで伸びていて、やや吊り上がった黒紅色の瞳と、お互いを引き立てている。

 装束は見たことのないものだった。その体にぴったりと張り付いていて、彼女の大変よろしい体型がよく分かる。

 形の整った胸に尻、柔らかな曲線を描いた体型は、まさに出るとこ出て引っ込むとこは引っ込んでるといえる。うん。美乳の女は目の保養。


 彼女の耳の上に、ねじれた角がある。私はそれを視認して、一番最初に牛を思い浮かべた。

 

 彼女がいとおしそうに撫でている、あと二つの影は、獣だった。

 黄金色と黒の縞模様が美しい、二頭のトラだった。

 トラたちは、彼女に頭や背中を撫でてもらうたびに、気持ちいいのか目を細めてもっともっととねだっている。


「こんなとこで何してんの」


 私は、彼女に声をかけた。言葉は通じるだろうか。おそらくは異国の者だろう。日本の言葉で意思疎通ができるか少し不安だった。だがそれも杞憂に終わった。


「この子たちを、撫でているの」

「いいねえ。私にもやってくんない?」

 にへらと笑ってそう聞いてみると、案の定彼女から怪訝な表情を向けられた。


「ところで、貴方」

「私? 私はヒノカグツチ。カグツチと呼ばれているよ」

「そう、ではカグツチ。お願いがあるの」

 なんだい、と私はわざとらしく首をかしげる。


「私たちを、一晩だけ寝かせてもらえないかしら」


 私を見上げる彼女の瞳は、真剣だった。


「……えーと、私の家、ここね」

 私は後方にあるボロ屋を指さした。

「ここなんだけど、お客人をお招きできないくらいボロッボロなんだ」

「かまわないわ。横になれるなら、何も要らないから」

「いや、雨漏りするし、風が吹き抜けるし……今はあったかい季節だからいいけど、冬は地獄だよ。――あ、地獄みたいなもんか、ここも」

「それでもいいの。食事はいらないし、一晩休ませてもらえるだけでいいから。お金も、わずかだけれど、ある」

 そういって彼女は腰にさげていた革袋から、貨幣を出す。日本では流通していない貨幣だ。ということは異国の金なんだろう。それに気づいた彼女は、あっと声を漏らして、貨幣を差し出すその手をあたふたさせた。

「ど、どうしましょう。私、この国のお金、持ってなかったわ……」

「いや、お金はいいよ。むしろこんな絶望的な廃墟じゃ、私が君にお金払うくらいだし……。いや、ボロ屋でいいならうちは構わないけど」

「泊めてくれるの?」

 彼女の声は、せっぱつまっている。

「いいよ」

 はっきりとそう答えると、彼女の表情が安堵に変わる。張り詰めていてきりっとしていた顔が、急にふにゃりと緩んで、笑顔を作った。うん、もともと美人だけど、笑うとさらに美人だね、この姉ちゃん。

「ありがとう、恩に着るわ。この子たちもだいぶ疲れてしまっていたから……」

「そっか。トラって何を食べるんだ? 食いものはあるけど、私はいかんせんトラの生態にうとくてねえ……」

「大丈夫よ。ふたりとも、何でも食べるから」

「へえ、好き嫌いしないのか。偉いえらい」

 トラ二頭にそう笑いかけたら、一頭の方から鋭い眼光で睨まれた。私何もひどいことしてないのに。理不尽なトラだことで。


「えっと、カグツチと呼んでいいのかしら」

「いいよ。君の名前は?」

「私はネル。こっちはオーガとジンよ。さ、挨拶して」

 ネルが二頭のトラに促すと、一頭は恭しく完璧に頭を垂れた。もう一頭は怪訝そうな目を変えないまま、形だけ頭を下げた。なにこの差。


 一晩という約束だったが、私はネルと二頭のトラをもっと長く泊めた。というのも、私からみてネルの御霊がひどく消耗していたのが分かったからだ。

 トラ二頭……オーガとジンも消耗していたが、ネルはもっとひどかった。

 何か、得体の知れないもの(たとえば穢れとか、異国の異形とか)と戦い続けて受けた傷や溜まった疲労が一気に出ているのだろう。ゆっくり休ませなければ、ネルの御霊は黒ずんで、彼女自身をむしばむ恐れがある。

 そう判断した私は、一晩は私のボロ家で休ませ、それから数日はもっとちゃんとした綺麗な家屋で療養するよう半ば強引にすすめた。

 

 で、どうしてネルがずっと私の家にいるかというと、それはネル本人が望んだからだ。

 私の家はあちこち雨漏りしているし、使用された木材だってかなり老朽化していて腐っている。下手すりゃ床が抜けるし保存食は傷んで食い物になっていないし、死んでなければ衛生的に大変よろしくない家なのだ。そんなところにずっといてはかえって御霊の消耗を助長する、とは言った。

 言ったのだが、ネルは「ここの家は落ち着くの。御霊も休まるから」と、私の家で療養することを願い出た。オーガとジンもそれに従った。

 まあ、ネルの御霊をうかがう限りではネルは嘘をついていないようだし、客人お三方がそれでいいというなら、ということで私も強くは反対しなかった。


 

 ネルとオーガ、ジンが私の家に来てから、ひと月が経つ。

 その間に、ネルの御霊は見違えるほど回復した。

 御霊が健やかになると、ネル自身もまた変わって来る。

 疲労と憂いに満ち満ちていた表情は今やすっかりなくなった。朗らかに微笑む彼女は、まるで女神の様だった。

 私が冗談を言うと、彼女は「やあね」と呆れながらくすくす笑った。

 黄泉の国だけでなく、地上や高天原を歩く彼女の足取りは軽やかだった。私と出会って間もないころは、足に鉛でもついてるんじゃねえのと疑う程に重い歩き方をしていた。

 

 ネルもオーガもジンも、人間や神々、妖怪たちに好かれた。本人たちは、それを心から驚いていたと同時に、嬉しがっていた。


「あっ、カグツチ様」

 私がその日、ネルたちを散歩と称して地上――中つ国に連れ出したときのこと。

 私は人間たちとよく交流をする。それゆえ、顔見知りが地上にも多い。都に近い農村をぶらぶらしていると、若い青年が声をかけてくれた。

「よ、畑はどうさ」

「今年も豊作です。それもこれも、カグツチ様がお力添えをして下すったおかげです!」

「なになに、私は何もしてないよ。感謝なら、ウカミやうちの天照お嬢にしてやんな」

「いつもかかさず感謝してます。……あれ、カグツチ様? 後ろの方は……」

 私の後方に控えていたネルに気づいたのだろう。ネルはなかなかの美人だから、青年もその美貌に引き寄せられずにはいられないんだ。若者、気持ちはわかる。

 視線に気づいたネルは、緊張した面持ちでぺこりと礼をした。

「ひょっとして、カグツチ様……ようやく嫁をめとる気になったんですか?」

 青年――桐彦はにやにやと口の端を釣り上げ、私とネルを交互に見やる。

「残念だけど、桐彦の考えてる色っぽい話じゃないんだなー。だって何度言っても突っ返されるもん。意外とガード堅いよ、あの子」

「なんだー。カグツチ様もついに伴侶を得たかと思ったんですが」

「死者の嫁ねえ。そんな物好きいたらいいね」

 桐彦と話をしているうちに、他の人間たちもわらわらと集まってきた。桐彦の親父殿に隣近所の娘やちびっこたち、腰まがった爺に老いているようには思えない健康的な婆様……。皆、ネルたちに興味津々だ。

 

 興味の的であるネルは、やや身を固くして、さりげなく私の法被の裾を掴む。可愛いな。


「ねえねえ、お姉ちゃんはなんていうの?」

 童女がネルの膝にペタペタ触る。ネルは童女に視線を合わせ、名を名乗った。

「私はネル。こっちはオーガとジンよ」

「ネルお姉ちゃん、頭の角……」

 一瞬、ネルが固まった。緊張ではない、禁忌か致命傷に触れられたような、硬直だった。その硬直はすぐにといたが、ネルの口の端が引きつっていたのを、私は見抜いていた。

「あ、ああ、これ……。生まれつきなのよ」

「あの、角、さわっていいかな……」

 遠慮がちに聞いてくる童女に、ネルは「え?」と間抜けた声を漏らした。

「あっ、嫌なら無理に触らないよ! 人の嫌がることはやっちゃダメ、って、おとうが言ってたもん!」

「いえ、その……嫌じゃないわ。ちょっとびっくりしたのよ」

「じゃあ、触っていい……?」

「ええ、構わないわ。尖っているところは痛いから、側面の方を触るといいわ」

「ありがと!!」


 童女――小梅はおそるおそる、そっと、ネルの角に触れた。触られたネルは、きゅっと唇を結んでいる。でもその顔は嫌そうじゃなかった。

「わぁ、すべすべ……きれいだね」

「そう、かしら……。そんなこと言ってくれたのは、あなたが最初よ」

「えー? 嘘! だってこんなにきらきらしてるのに!」

「うふ。ありがとう。嬉しいわ」


「ネルさん! こっちのトラには、触っちゃだめですか?」

 桐彦がたずねる。ネルは「いいわよ。ただし、優しくね」と答えた。

 その許可をいただいた桐彦は、遠慮なく、優しさ十二分に、オーガとジンを撫でくりまわした。「あっ、桐彦ずるい!」「俺も、俺も!」「わたしも! オーガさん、ジンさん、いい?」と、トラ二頭も結構な人気だった。

 ちなみに、この時の一番の不人気は私だった。あれ、空気?



「……角を触れてもらったわ」

 家に帰って茶菓子をつまみつつ、ネルはそう話題を投げかけた。

「触ってもらうのは嫌だった?」

「いいえ、むしろ嬉しい。あんなに優しく触れてもらえるなんて思ってなかった。ここに来る前は、不気味だとか忌まわしいとか、散々言われてきたから……」

 ネルはぐっすり眠っているトラ二頭を撫でてやる。

「聞いてもいいかな」

「なあに」

「ネルがここに来る前は、どんなとこに住んでたの?」

 オーガの頭を撫でるネルの手が、不意に止まる。

「いや、言いたくないならこの話題はぶん投げて構わないんだけど」

「そうじゃないの。ただ、長い道のりだった、って思っただけ。私ね、とても遠いところからここへ来たの。そこはね、不気味なくらい綺麗で、何だか、命を感じられないような整った場所だったわ」

「それは高天原……天界みたいなもの?」

「みたい、ではなくて、本当に天界よ。私はオーガとジンを連れて、そこから逃げて来たの。天界の住人達は、私を忌まわしいと言っていた。住人達も機械のようにきっちりしていて、感情がないとさえ感じられた」

「住人は、人間とは違うかい?」

「あんなのは人間じゃないわ。かといって、貴方のような神でもないし妖怪でもない。そうね……いうなれば、あちらの『神』に仕える従者みたいなものかしら。私は、あいつらから逃げて来たの」

「今も追われてる身ってわけか」

「そう。あいつらはね、穢れというものを極端に嫌うの。純潔純粋こそが絶対の正義だと信じているから。だからここみたいなところには決して近づかない。ここは安全地帯というわけかもね」

 ネルは妖艶に微笑む。

「……とにかく、角に触れてもらうということは、子供をあやすために母親が頭を撫でるようなもの、という感じね。向こうの住人どものせいで、ちょっと新鮮だったの」

「そっか」

「私は、長く人間というものを知らずに生きて来たわ。……人間って、不思議な種族ね」

「まあね。特にここに住む人間たちは、嫌悪より好奇心の方が強いから。君の角やオーガ、ジンたちは珍しい。珍しいから、不思議がって近づこうとしたくなるんだ」

「つくづく不思議ね。自分たちとは違う姿に、気味悪さを感じないのかしら」

「感じる者も多かれ少なかれいるよ。でも、それはほんの一握りだ。私らが愛するここの人間たちは、好奇心旺盛なのがふつうだよ」

「……ほんとに不思議ね、人間も、神々も。でも、そんな不思議さが、私は好き」

「お気に召したようで何より」

 私は、苦い茶を飲みほした。



 やがてさらに時を重ね、だいたい一年過ぎた。

 その間、ネルはたびたび中つ国に降りて、人間たちにまじって働いていた。

 仕事は主に店の売り子だ。決して大きくはないが、よく通るネルの声が、道行く人々の足をふいに止まらせるらしい。

 魚屋、酒屋、装飾屋、修理屋……日によってそれぞれ異なる店の手伝いをしていた。

 誰もがネルを気に入り、今日は自分が明日は俺がと、誰がいつネルに来てもらうか、ほほえましい口喧嘩が絶えない。

 

 なぜそんなことをしたか聞いてみた。するとネルは答える。

「人間が好きだから。私によくしてくれた人たちに、少しでも尽くしたいの」

 それにね、と一旦呼吸する。

「働いて、そのお礼にって、たくさん食べ物をもらったの。これで、貴方やあの子たちにおいしいご飯を食べさせてあげられるじゃない」

「……ごめん、うちの食い物腐ってて」

「そうじゃないのよ。私は食べなくても平気。だけど食べる方が御霊も癒されるから。貴方は……食べるの、嫌い?」

 上目づかいで首を傾げられつつそんなことを聞かれたら、嫌いだなんて言えない。いや、私も食べるの好きだけど。

「嫌いじゃないよ。ただ、なんでネルは働くようになったのかなって気になっただけだから。追手のことはいいの?」

「あいつらのことは片時も忘れてない。人間たちと一緒にいるときは、特にあいつらを気にしているわ。あいつら、この世で一番人間を嫌っているの。追っている私が人間の中にまじって暮らしていたら、人間もろとも私を殺すに違いない」

 ネルが『あいつら』のことを言う時は、いつも憎悪で満ちている。よほどひどい目に遭わされたのだろう。

 そして、ネルは人間が好きだ。自分を迎え入れてくれた恩人に対するそのおもいは、慈しみ深い。

 対する『あいつら』への憎しみもまた深い。人間たちを思うゆえに『あいつら』を常に意識している。恩人に手を出させてたまるものかと。

 君のその相反する心が、いつかは休まる時が来るんだろうか。わずかでも、私がそれを手伝えたら、と。不覚にもぼーっとそんなことを考えてしまう。


「……ごめんなさい、物騒な話になってしまって」

「いいんだよ。私は、ネルのことをもっと聞きたい。いくらでも聞かせておくれよ。爺さんは長話が好きなんだ」

「お爺さんって見た目でもないけどね」

 ネルはくすっと笑う。

 おやすみなさい、とネルは寝床に潜り込む。オーガはそれに寄り添うように、ネルの床の隣で丸まっている。

 もう一頭のトラ――ジンは、私をひとにらみして、ぷいっとネルの寝床へ去った。私は、ジンに嫌われているらしい。


 卓には、ネルの淹れてくれた渋い茶と、ネルがおすそわけとして人間にもらった茶菓子が残っている。私は茶菓子の最中をかじり、茶をすすった。


 さて、この一年で、私はいまだにジンから好かれることがなかった。

 オーガは礼儀正しく控えめで、それでいてトラとしての勇猛さを持ち合わせていた。普段はネルに付き添い、人間たちの手助けをしてやり、有事が起こるとその牙と咆哮でみんなを救った。

 そして私がそのふっさふさの耳を撫でても嫌がらず、静かに目を伏せて撫でられている。

 逆にジンは、私に対してだけ極端に警戒心をむき出していた。人間やネル、オーガにはそんなことしないのに、なぜか私だけを毛嫌いしている。こないだ出した夕飯のレバーがまずかったのだろうか。

 低いうなり声をあげるし、ぎっと牙を見せて威嚇する。その態度は私に対してのみだ。


「ごめんね、ジンのこと」

 ある日、ネルが謝ってきた。中つ国の甘味処でまったりしていた時のことだ。

「ジン? ああ、なぜか私にはなついてくれないんだよね」

「ごめんなさい。あの子、本当はとてもいい子なのよ。どうしてああなのかしら……」

 ネルの視線の先には、オーガと日向ぼっこをしているジンがいる。ジンは、陽のあたりのいい場所を見つけるのがうまい。

「はは、ひょっとしてさ、ネルを私に取られると思ってるんじゃないかな」

 冗談半分で言ってみた。半分は本気。

 ネルはぽかんと口を開け、食べようとした団子を膝に落とした。何してんの君。慌ててその団子を拾い上げ、手ぬぐいで膝をふく。

「あの、ネルさん……?」

「あ、いえ……。取られるなんて、そんな。私みたいなの、貰ってくれる殿方なんて……」

 ネルはそっと自分の角に触れる。その角はネルにとっての誇りだけど、いかんせん『あいつら』にひどいことを言われたものだから、気になってしまうらしい。

「いっぱいいると思うよ? 桐彦は私とネルが結婚してないって聞いて心底ほっとしてたし、あいつは確実に君が好きだよ。いつ婿になってもいいように、最近じゃ家業をついで真面目に修行してるらしいし」

「桐彦には、私よりももっと素敵なお嫁さんがふさわしいわ」

「魚屋の爺なんか、先に逝った婆さんの若い頃にそっくりだーってさ。若返ることができたら真っ先に求婚したのにってぼやいてた」

「情熱的ね……」


 ネルは居心地悪そうに足をすり合わせる。

 ネル、桐彦や魚屋の爺だけじゃないんだ。かくいう私だって、君が――。


 私が何かを言うために息を吸い込んだ直後、ジンに吠えられた。確実に、手を出すなとけん制されている。

 ネルが「こらっ」と怒ってくれたけど、私はそれ以上言うのをやめた。




 私は、長らくネルを見てきた。おそらく、オーガとジン並に、一番近く彼女を見てきたと自負してる。

 中つ国で人間と一緒に笑ったり泣いたり、仕事をしたり話をしているネルは、とても輝いていた。

 困ったように微笑む君が、私の御霊を癒すのだ。

 慣れた手つきで作る君の料理が、私の活力を引き出してくれるのだ。

 透き通っていて儚さも持ち合わせた君の声が、私にとっては最高の音楽なのだ。

 呼ばれることは時々だけれど、君に「カグツチ」と呼ばれると、心が弾むのだ。

 君がここに来てくれたことが、私にとっての幸運だったのだ。


 ネルへの思いが募っていく。ジンはそれをいちはやく察知したのだ。

 きっと、私にネルを取られてしまうという子供じみた嫉妬だけではない。

 私とネルが結ばれたら、お互いの為にはならないと、知っていたのだ。


 私はすでに死んでいる。そしてネルは、追われている。

 いつかネルはここを去る。私は日本を出て行くことができない。

 抱かないほうがお互いの為の、この思いは、どこにぶつけることができるんだろう。

 いや……ぶつけることはできない。きっと、忘れるまで、ずっと私の内でくすぶり続けるのだ。



 相変わらず、ネルは人間と一緒に仕事をしていた。その一方で私は、生き生きとしているネルを見たくて地上に降りた。

 ネルは、うまくやっているようだった。最初に来た時より人見知りが抜けて、活発になった。

 ネルが元気になっていくのを見て嬉しくもある一方、私は一種の焦りと嫉妬心を覚えてしまった。

 御霊の消耗がすべてそそがれたら、ネルはここを出て行ってしまう。

 いつかその日は来てしまう。できれば、私が死ぬまでは来てほしくなかった。死んでるけど。


 そして、その日が来てしまうのは、存外早かった。

 

 その日、私は気付いた。ネルが、部屋で静かに荷物をまとめているのを。荷物といっても、此処へ来たばかりのころに背負っていた小さな革袋くらいだけど。

 ネルはここで生活するようになってから、一度もその革袋を取り出さなかった。それなのに今更出すということは――ここを去るということだろう。

「……何してんの?」

 ネルは静かにこちらを振り向いた。

「荷をまとめているの。御霊はすっかり回復したから、行かなければ。……それに、あいつらも気づいてしまったみたい。私がここにいると」

「黄泉の国にいれば安全じゃなかったんだっけ?」

「私は安全よ。でも人間は? 中つ国は黄泉と違うのよ。そこに住まう人間たちを、巻き込むわけにはいかないわ」

「オーガたちは?」

「それなんだけれど……お願いがあるの。聞いてくれる?」

 私は物わかりのいい爺の振りをして、なんだい、とそこに腰を下ろした。

「ジンを、預かってほしいの」

「ジンだけ? オーガは?」

「オーガは私が連れて行く。ジンは、……貴方に任せたいの」

「それ、ジンは納得してるわけ?」

「聞き入れてくれたわ」

「あんなに、私を嫌っていたのに?」

「説得が大変だったのよ」

「どうして、ジンだけ置いてけぼりなのかな?」

 ネルは視線をおとす。

「あいつらがここを嗅ぎ付けて、悪さをする時の為の……そなえよ。ジンは、追手のことをよく知っているから、もしもの時があった場合は、ジンに話を聞いて」

「……」

 ネルは袋の口を縛る。今晩にでも、出ていくつもりだろう。傍らには、オーガが控えている。

 私は少しでも彼女をいる時間をのばしたくて、馬鹿みたいに彼女を質問攻めする。

「中つ国の人間たちはいいの?」

「桐彦と小梅に話してきた。それから、お爺さんにも。……またおいで、って。次に来るときは、小梅は大きくなってるといいわね、って。そう、交わしたわ」

 すでに人間たちとは話をつけていたらしい。私だけ、知らされなかったのだ。きっと、私が止めると思ったのだろう。

 

 ネルが立ち上がる。オーガを促して、私の横をすり抜けようとする。

 私は逃がしたくなかった。何でもいいから、もっとネルに、ここにいてほしかった。


「だめ」


 私は、強引に、ネルを抱き寄せた。

 柔らかい。甘い匂いがする。力をこれ以上込めたら、ぽっきり折れるかも知れない。

「ネル。ネル」

「カグツチ……? どうしたの?」

「分からないかなぁ……。私、君に出てって欲しくないよ」

「私もここに留まりたいわ。でも……追手がもうそこまで来てるのよ」

「そんな奴ら、私がこんがり焼いてあげるよ」

「貴方はよくても、人間たちが危ない」

「彼奴らは強いよ。もしもの時は、勇気を奮い立たせて戦うんだ。気にしないでいいよ。ネルは何も気にしないでいいから……ここにいておくれよ」

 

 ネルは、やんわりと、私を引き剥がす。


 それは、拒否なのだ。私のわがままは聞き入れることができない。ネルは行かなければならない。オーガを連れて、ジンを私に残して。


「ネル、」

「ごめんなさい、カグツチ。私は、私に良くしてくれた人間たちを守りたいの。私が追手を遠くまで連れて行くから、貴方はここを守って」

 ね? と上目づかいで首をかしげるネル。私は、その仕草に弱い。分かっててやってるのか、それとも天然なのか。

 ネルを抱き締める腕の力が、自然に抜けていく。私には、彼女を思いとどまらせることなどできない。

 すり抜けたネルは、一瞬立ち止まる。「カグツチ」と、儚げな声が私を呼ぶ。


「さようなら」


 ネルは去ってしまった。オーガを連れて。ジンを私に託して。

 私は、すとんと、その場に座り込んでしまった。立つ気力が抜き取られたように、崩れ落ちた。

 ネルはもう戻ってこない。ここに来たとしても、きっと……気が遠くなるくらい、ずっと先だろう。その間に、私がしんでしまうか、ネルがしんでしまうかしてしまう。


 とてつもない喪失感がどっと襲ってきた。どんなに願ってもねだっても、ネルはもういない。

 私は、ネルが好きだった。ずっと一緒にいたかった。でも、叶わないわがままだったんだ。


『カグツチ』

 聞いたことのない、低い声が聞こえた。そろりと視線を動かすと、そこにはトラがいた。ジンだ。

 いつもはぐるぐると唸り声をあげるジンが、初めて私に語りかけた。オーガでさえだんまりであったのに。

 ジンは、座り込んで立てない私の傍らに、寄り添ってくれた。そのまなざしは、穏やかで優しい。ご主人のネルに、よく似ている。

 私はたまらなくなって、ジンの頭に手を伸ばした。いつもなら噛みつこうとするのに、今日のジンは何もしなかった。

 私に撫でられても、目を伏せてそれに甘んじていた。抱き着いても、ふーっと息を吐くだけで、唸りも噛みつきもしない。

 手入れの行き届いた毛が、毛布みたいに心地よい。獣の匂いに交じって、ネルの残り香が鼻孔をくすぐる。

「……ジン」

 呼びかけたけど、ジンはもう喋らなかった。

 だけど、私の気が済むまで、ジンは私に寄り添っていてくれた。


我が家のカグツチと、趣味前回お姉さん女神の悲恋話でした。

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