Ⅰ密度と氾濫
ー咲き誇るような若さがあった時代を過ぎ去ったのだろうか。例えば、目の前に居る俊と言う青年のような、夢や希望に胸を馳せるような。私にはもう昔なのだ。早く帰らなければ。なるべく早く。
でも、出来ればこの穏やかな部屋に閉じこもって居たい。
だって、あの家に帰りたくない。夫が病気だなんて・・・諦めることしか出来ないなんて。ー
律子はビールを片手に持ちながら、心の底で考えている。腫れあがった指を眺めながら。答えなど出るはずの無い事を。繰り返し繰り返し自分の中で巡らせている。
「あの・・・俊さんは何歳ですか?」
テレビを観ている俊の横顔に話しかける。さっきまで持っていたコーヒーのカップはテーブルの上で残されたままだ。
「俺はね、21才だよ。大学生ではなんです。働いてる。」
「だから作業着だったんだ。」
そう。とだけ言うとテレビのボリュームを下げて、こちらの話を聞いてくれようとしていた。
「律子さんは?仕事してない?」
律子は大きな息を吐いた。
「今日は、優しくしてくれてありがとう。こんな事は初めてで、混乱しているの。
私は32才になって自信をなくしてる。どんどんダメになっているのが分かる。
私自身も私を取り巻く人々も。今日はあなたのお陰で生きた心地がした。
私なんかを助けようとしてくれた。それだけで充分なのに、なぜか分からないけど、
早く帰らなきゃって思ってる。」
俊は驚いたような顔でこちらを見ている。考えてみれば俊の質問を丸っきり無視した状態で律子は一人、必死に喋り、目からは涙が次々と落ちているからだった。欲しいものを強請る子供のように。
「ごめん。ごめん。律子さん泣かないで。」
俊の手は律子の頭にのせられている。その手がぽんぽんと優しくバウンドしている。
次の瞬間には俊の腕全てで律子は包まれるのだった。
俊の体と香水の匂いが律子にまとわり付くように思い切り、温かく抱擁されている。
しっかりした腕の筋肉も律子は現実に感じる事が出来たのだ。
「俺、ただ助けたいって思ったよ。律子さんを。」
優しく少し高い声を持った俊が静かに言う。
お酒に酔ってしまったのか、単に守られたいからだったのかは分からないが、律子も俊も閉まって置くべき言葉を次々に表に出してしまう。
「どうしたの?律子さん。大丈夫だよ。」
氾濫しているのだと律子は思う。言いようの無い不安を抱え、それがダムになり溜めきれない所まで溜まってしまったダムが放流と言う選択をされるように。何かに背中を押され、ここでこうして抱きしめ合っていることを律子は悪いなどと思わないのだ。
律子は頭ごと覆われていた俊の胸から顔を上げ、泣いたままの顔で俊の唇に自分の唇を重ねた。
俊は一切動じることなく重ねたままの唇を薄く開き自分の舌を律子の口に入り込ませた。
律子は俊の動きに逆らう事はせず、硬く締まった腕へと自分の手を滑らせる。
俊に倒されるまま、冷たいフローリングの上で躯を重ね合わせる。律子の長い髪もフローリングの上で広がる。
めくり上げた上着からブラジャーを外し、小さな胸に俊の顔が埋まると律子は小さな声が出る。声が出るのと同時に律子の手は俊の髪に指を通す。
これでいい。律子はそう思う、望んではいなかったようで望んでいた事だったと。氾濫か放流かと問われたら、律子も俊も氾濫したのだ。
めくられたままの上着も借りたスウェットパンツも律子は自分で脱いだ。肩幅のない骨ばる体で俊を包んだ。暖められた部屋に二つの裸が重なる。
「律子さん。細いね。」
それを言いながら俊の舌はわき腹を這っている。俊のその言葉を聞いて以来、この部屋に律子の声にならない声だけが聞こえる。雨が止んだのだと律子は気が付く。
律子が膝を立てたまま足を広げると、その膝の間に俊の躯は捻じ込まれ顔が近づく度に舌を絡ませ、唇を吸い込み、噛む。
律子は幸せだった。愛情がある訳でもないのに俊と言う知らない男性とセックスをしている事を快楽だと感じた。感情にまで血液が流れているように、律子は存分に濡れて行く。