つよさ
ぼくには、十さい年のはなれたねえさんがいる。ねえさんは大学生で、とうさんの知り合いの娘だ。今年の春から、ぼくの家にいそうろうしている。ぼくは女の人と話すのは慣れていなかったし、学校の友達にはからかわれるしで、はじめは、ねえさんのことがきらいだった。でも、もう半年もいっしょの家に住んでいるので、今ではぼくたちは、ほんとうのきょうだいのように仲良くなっていた。
あつかった夏がすぎ、秋がはじまった。きのうまでほとんど毎日、朝から晩までバイトにあけくれていたねえさんも、きょうからいっしょにごはんを食べるようになった。ひさしぶりに手作りのハンバーグをほおばって、ぼくは、やけにきもちがふわふわしていた。
「大学生って、夏休みが長くていいなぁ。ぼくも早く大学生になりたい。そんで、バイトとか、旅とか、いろんなことするんだ」
ぼくがうらやましがると、
「圭介みたいに、さいごになってあわてて宿題をしているようじゃ、いくら休みが長くってたって有意義に過ごせないわよ。いまのまま大学生になってもだめね」
などと、ねえさんはきびしいことをいう。その横で、とうさんが笑いをこらえきれずに、ごつい肩をゆすっている。
「そうだぞ、圭介。いちごちゃんがうちにいるあいだに、しっかり鍛えられておけよ」
「ぼくが計画だおれなのは、とうさんに似たんだ。けっきょく、夏休みにディズニーランドに連れてってくれなかったじゃないか」
「しかたないだろ。仕事がはいったんだから」
とうさんはちっともわるびれないで、白い泡のたったビールをぐびぐびのんだ。そんなふうに家族より仕事を優先させていたから、かあさんに逃げられたことをぼくは知っている。まぁぼくは、そんなとうさんでも、ぼくをおいていったかあさんより、好きだけど。
「来年こそは連れていってよね。ねえさんもいっしょに行こうよね」
「そうね」
ゆでたまごのカラをむきながら、ねえさんはみじかくこたえた。白身に塩をふって、大きな口でかぶりつく。けっこう美人なほうだと思うのだけど、豪快だ。……「いちご」なんて、ふきだすぐらいにかわいい名前をしているのに。
夕飯のあとかたづけを手伝って、ぼくは居間のソファにごろんとねころがった。とうさんはまだ食卓でビールをのんでいる。ねえさんは枝豆をゆでているようだ。
台所のふたりがなんだか夫婦のように見えて、ちょっとだけ、へんなきもちになった。
「……ぼく、もうねる」
「もう? おふろ、わいてるわよ」
「きょうはいい」
「足ぐらい洗いなさいって」
はみがきと、ねえさんがうるさいので足にお湯をかけるだけして、二階へあがった。部屋の窓があいていて、涼しい風がひっきりなしにふきこんでいる。せわしなく揺れるカーテンがあたったのか、机においてあった写真たてが、うつぶせになって床に落ちていた。
ひろいあげると、ぼくと、とうさんと、ねえさんがまぶしそうに笑っていた。そうだ、ディズニーランドには行けなかったけど、三人でハイキングには出かけたのだった。ねえさんはものしりで、鳥の名前や、虫やとかげ、植物など、たくさんのことを教えてくれた。
ぼくはベッドにねころんで、本棚からひっぱりだした図鑑をひらいてみた。見たことのある生き物には、蛍光ペンでまるをつけている。まだまだ知らない生き物のほうが多い。ねえさんは、どのくらい知っているのだろう。
くしゃみがでた。半袖シャツでは寒い。着替えるのはもうめんどうで、ぼくはあたままでタオルケットをかぶって、目をとじた。
次の日の学校帰り、ぼくは仲間と寄り道をしていた。ちょっと歩いたところに、溝と、小さな神社があるのだ。町内の案内がてら、ねえさんを連れてきたこともある。ざりがにや虫や魚の宝庫で、たまらなく魅力的な場所だ。ここにはいちおうルールというものがあって、六年生でいちばんつよい男子が代々、この狩場のリーダーを受け継いでいる。ぼくらはまだ三年生なので、上級生がいないときをみはからって、こっそり遊んでいるのだった。夏にさんざんやったざりがに釣りには飽きていたので、きょうはかくれ鬼をしていた。
ふるびた手水石のかげに身をひそめていると、そばでかさかさと音がした。細長いナイフに似た草のしげみから、一匹のへびが姿をあらわした。ぼくは悲鳴をのみこみ、息をとめた。へびは、ぼくなど気にもとめないようすで、すすすすす、と風化した敷石のうえを這ってゆく。かるく一メートルはあろうかという、おなかは白くて背中は茶色っぽい、立派なへびだった。ぼくはおもわず見とれた。
「へびがいるぞ!」
だれかが唐突に叫んだ。隠れたところから、みんながわらわらと出てきた。ぼくも、なにかに背中を押されるようにして前に出た。四方八方を取り囲まれたへびは、這うのをやめて、首をもたげて、うねうねと動いている。
ぼくらは、めったにお目にかかれない大物に、すっかりこころを奪われていた。このときはたしかに、ぼくらには、自然を畏怖するきもちがあふれていたはずだった。なのに。
ひとりが棒きれをもちだしてきて、へびをたたいた。それが、はじまりだった。ぼくがぽかんとしているあいだに、みんなわれさきにと神社の階段にたてかけてあった竹ぼうきや、石ころなんかで、へびを攻撃していった。
「な、なにしてんのさ。へび、死んじゃうよ!」
ぼくは、やっと声をあげた。すると、
「退治して、六年生に見せつけてやろうぜ」
「そしたら、おれらのことガキ扱いして、ばかにできないよな」
ものすごく高揚した顔と声で、みんな口々にいった。とっさにはついていけないぼくを、弱虫などといって笑う。
「おい、そっちにいったぞ圭介!」
せっつかれて、ぼくは手水のひしゃくをつかんだ。でも、へびに威嚇されて、ふるえあがってしまった。黒い、宝石のような目に射すくめられた。先のわれた赤い舌が、こちらにまで届きそうに思えた。
(こんなこと、やめようよ)
のどもとまで出てくるけど、声にならない。
ぼくが必死になっているうちに、だれかが投げた石が、へびの頭にヒットした。へびは、ぱたりと地面にふした。まだ、動いている。
――とどめをさせ。おれたちの勝ちだ。
ぼくは、ひしゃくをもったまま両腕で顔をおおった。そのときだ。
「なにしてるの、あんたたち!」
きこえてきたのは、天をつんざくような怒声だった。声をふりかえると、くずれかけた鳥居の下に立っていたのは……ねえさん。ねえさんは大またでつかつかとやってきて、赤い血をながすへびを素手でつかんだ。
みんなが息をのみ、どよめいた。
「よってたかって、へびいじめ? このへびが、なにかしたの?」
迫力のあるねえさんの追及に、みんながぼそぼそと答えるのを、ぼくはちぢこまってきいていた。できれば、ねえさんの視界に入らないようにと祈りながら。
「ふん。へびにさわれもしないくせに、上級生を見返してやろうって? 死んだへびを見せて、なにを自慢しようっていうの」
ねえさんの言葉に、反論しようとしたやつもいた。でも、けっきょく、きまりの悪い顔で、ぶつぶついいながら帰っていった。
ぼくはおろおろしているうちに、ねえさんのするどい視線につかまってしまった。
「圭介。あんたも、やったの」
ねえさんの両手にのせられた、だらんとしっぽをたれたへびが、ふとい鞭のように見えた。ぼくは、にぎっていたひしゃくをとり落とした。かつん、と乾いた音がして、ねえさんの足もとにころがっていった。
「……ぼくは、やってない……」
しぼりだした声は、われながら、ひどくみっともなかった。ねえさんは怒ったような、かなしいような、黒く濡れた目をふせて、へびをしげみの中におろした。
「へびは、つよい。息をふきかえせばいいね」
ねえさんはそれだけいうと、ぼくをおいて、行ってしまった。
秋がふかまり、日中でも半袖ではいられなくなったころ、ねえさんはお金がたまったといって、ぼくの家をでていった。
「もう、会えない? ディズニーランド、いっしょに行けない?」
とりすがったぼくに、ねえさんは、
「圭介しだい、かな」
困ったように口の端をゆがめて笑って、背を向けた。そのうしろ姿が、むかしの記憶のなかにある、かあさんとだぶって見えた。
でも、なぜだか少しだけ、近く感じられた。
それから月日が過ぎて、六年生になり、ぼくは例の遊び場をゆずりうけた。とうさんのすすめもあり、空手をはじめたせいで、からだはずいぶんたくましくなっていた。
ひとり、境内で型の稽古をしていると、手水石のかげからへびが一匹、顔をのぞかせた。すすすすす、と這い出てきたからだは、ゆうに二メートルはこえている。
ぼくはへびを見つめ、へびも、じっと二つの黒い宝石を向けてきた。赤い舌が、ちろりと宙をひとなめする。
三年前の光景が強烈によみがえった。背すじがぞわりとした。見かけほどにはたくましくないこころを、いやでも思い知らされる。
ぼくは、かつてねえさんが見せたような、あのつよさを備えたいと願ってやまない。