第4章
「もしかして、風邪とかひいてる?」
引き締まった空気をつらぬいて帰ってきたのは、そんな気の抜ける言葉だった。
彼は後ろを向いたまま。地に足が突き刺さったのかと思うほど、みじんも動かなかった。
白い湯気が二人分、何度も大気中に投げ出される音だけが耳を占領して、痛いほどだ。
私がなにも言わないのを見こしたのだろう。さらに同じ音が投下された。
「めったにそんなこと言わないだろ。だからさ。熱があるのかと思って」
語尾にかぶさるように、土を踏みしめる音がする。
目の前が黒く染まった。彼の顔を視界におさめるより早く、手が私の目を覆ったのだった。
暗いよ。
「…そこ、おでこじゃないし」
「なに当たり前のこといってんだよ」
突っ込ませてるのはどっちだ。
どこまでもルーズな彼。そんな様子にイライラした。私は焦っているのに。
あれ?焦ってるってなによ。なにを。私は何に。
「俺さ、忘れられるって思ってた」
ずきん。目の前に広がる闇に、私は自分の心音だけを聞く。
呼吸をするたびに、強く、深く、どろどろとしたもの四肢へおくりだす。
不安だけがひろがっていく。ひどく苦しい。
「ちゃんと。だってもう何年たったと思ってんだよ。自分」
彼は誰と話しているんだろう。
私じゃない。そうさっきの知らない私にだわ。きっと。
末端から、冬に溶かされていく感触を感じた。
四肢からはね返ってくる液体は、冷水の冷たさをおびている。
どこまでもそれは自分への刺激であって、私のなかのどこを探しても、誰もみつからない。
静かにのびていく波紋は、なににぶつかることもなく自分の中できれいな輪をつくって消えていった。
ダメよ。ちゃんと見つけないと、彼の言葉はあなたが聞かなくちゃいけないのよ。
「ーーー。でも、俺はここに来て、今おまえに触れてる。それが俺のいままでの答えだよ」
ずっと待ってた。どれだけ季節が廻っても、白いおまえだけの部屋で。純白におまえが埋もれないように。
「おかえりの準備をして、待ってたよ」
私だって。
「…どこを探しても見つからなかったの」
…、…ピ、…ィ…、…。
言い訳、なんだろうか。ただ彼の気持ちが、言葉が痛い。
感覚が鈍くなった身体に、あなたの言葉だけが容赦なく牙をむいて、対峙する。
現実がせまりくる。もうこんなに近くに。私はあなたをーー。
「ただいまの準備はできてたわ」
手が、彼の大きな手が、頬をつつんだ。すべての感情がそこから流れこんでこる。
ありがとうもごめんなさいも、あったかい気持ちも痛々しい思いも、感情という感情が。
そして。
「好き」
それはただ少しの温度をおびた気体のかたまりだ。見ちゃダメ。
だって。
ピ、ピ…、…ピ…
私もう隣りの奥さんも、あれほど笑いバカやった親友も、体温を共有しあったあなたでさえ。
風に運ばれるにおいも、身体の輪郭も、顔も、名前でさえも、もう思い出せないの。
あがいているうちに、少しずつこぼれ落ちていったものたち。本当は私自身が突き放したのかもしれない。
中身のない空白の携帯が手から転がり落ちた。音は聞こえない。
もう呼ぶ名前をもっていないのよ。
だから、強く彼の手を握った。必要のない視界はすてた。
ここにある今私が感じているものだけが、すべて。
彼にも伝わっているはずだ。そうよね。
ピ、ピ、ピ、…ピ、ピ、ピ、ピ
私は、あなたを、現実を受け止めた。
もう目なんてそらせない。
ぐるん。とろり。