婚約者の母に泥水を顔へぶちまけられたので、三年間無償で立て直した伯爵家を見捨てました~「愛の試練は合格よ、戻りなさい」と言われてももう遅いです~
第1章 最悪の晩餐会と「愛の試練」
伯爵家の食堂には、季節はずれの緊張感が漂っていた。
テーブルの上には豪華な料理が並び、銀の燭台には蝋燭の火が揺れている。だが、この場にいる四人のうち、食事を楽しんでいる人間は一人もいない。
——正確に言えば、一人だけ楽しんでいる人間がいた。
「ねぇルシアン、今日の晩餐のために特別にお花を選んだの。白百合よ。『永遠の愛』の花言葉なの、素敵でしょう?」
セシリア・フォン・ランドール伯爵令嬢。
蜜色の巻き髪を揺らし、夢見るような瞳でこちらを見つめてくるこの女性が、ルシアンの婚約者である。
「ああ、綺麗だね」
「もう、『綺麗だね』じゃなくて! 『セシリア、君の瞳の方が百合より美しいよ』くらい言ってくれなきゃ!」
セシリアは不満そうに頬を膨らませた。
最近、王都で大流行している悲恋ものの舞台演劇『聖女と黒騎士の涙』に完全に影響されており、日常会話がいちいち劇中のセリフ調になっている。
正直、しんどい。
だがルシアンは温厚な人間だった。
男爵家の次男という低い身分でありながら、没落寸前だった伯爵家の領地を立て直すべく、この三年間、無償で死ぬほど働いてきた。徴税の改革、農業計画の見直し、商路の開拓、役人の再教育。来る日も来る日も帳簿とにらめっこし、泥臭い交渉を繰り返し、ようやく——ようやく、伯爵領の財政を黒字に転換させたのだ。
今日の晩餐会は、その報告と、セシリアとの結婚の日取りを決めるためのものだった。
「——では、改めてご報告いたします」
ルシアンは手元の書類を広げた。
「本年度の伯爵領の歳入は、前年比で百四十二パーセント。累積赤字は完済し、今期は純粋な黒字です。三年前は破産寸前でしたが、もう心配はいりません」
完璧な報告だった。
誰がどう見ても、称賛に値する成果だった。
——しかし。
「……ふん」
テーブルの上座に座る伯爵夫人が、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
エルザ・フォン・ランドール伯爵夫人。
セシリアの母であり、プライドだけで城壁を築けそうな女である。夫である伯爵は数年前に亡くなっており、実質的にこの家を仕切っているのは彼女だ。もっとも「仕切っている」と言っても実務は全てルシアンに丸投げし、自分は社交界でのマウンティングに全力を注いでいるだけだが。
「男爵家の次男風情が、さも自分の手柄のように得意げに……。見苦しいこと」
「お義母様、これはルシアン様だけでなく、領民全員の努力の——」
「黙りなさい、セシリア。大人の話です」
伯爵夫人はワイングラスを置き、冷たい視線をルシアンに向けた。
「ルシアン。あなた、この婚約を何だと思っていますの?」
「……はい?」
「我がランドール伯爵家の令嬢と婚姻を結ぶということが、どれほどの名誉か。まさか、ちょっと帳簿をいじった程度で対等になれたなどと思い上がっていませんわよね?」
ルシアンは口を噤んだ。今更だった。この三年間、何度この手の嫌味を浴びせられたか分からない。
ルシアンが赴任する前、伯爵家の帳簿は白紙のページより中身がなかった。出納帳に記録されていたのは「たぶんこのくらい使った」という伯爵夫人の手書きメモだけだった。
その惨状を三年かけて立て直した人間に対して、「帳簿をいじった程度」。
——まあ、いつものことだ。
「そこで」
伯爵夫人は、にやりと笑った。
「身分の低いあなたが、本当に娘を愛しているか——試練を与えましょう」
そう言って伯爵夫人が手を伸ばしたのは、テーブル脇に置かれた鉢植えだった。
園芸用の土が入った、ずしりと重い陶器の鉢。水やりの直後なのか、受け皿には茶色い泥水がなみなみと溜まっている。
——まさか。
次の瞬間。
ばしゃっ。
鉢植えの泥水が、ルシアンの顔面に直撃した。
茶色い泥がスーツを汚し、顔を伝い、三年間の努力の結晶である報告書の上に滴り落ちる。石灰混合土の粒子が目に沁みて、一瞬、視界が白くなった。
食堂が静まり返った。
「——っ」
ルシアンが呆然と固まっていると、隣に座るセシリアが、テーブルの下でルシアンの脛を蹴った。
痛い。鉢植え用の木のサンダルを履いているのか、骨に響く重い痛みだった。
そしてセシリアは——うっとりとした、この世の全てのロマンスを凝縮したかのような——恍惚とした表情で、小声で囁いた。
「ルシアン……っ。愛のために、耐え忍んで……! 騎士様が聖女のために泥をかぶるあの場面よ……っ! ああ、今の貴方、黒騎士様そっくり……!」
セシリアの瞳は濡れていた。
興奮で。
泥をかぶっている婚約者を見て、感動しているのだ。この女は。
——。
——————。
ルシアンの中で、何かが切れた。
怒りではなかった。
悲しみでもなかった。
帳簿屋のルシアンにしか分からない感覚だった。
例えるなら、ずっと赤字の事業に注ぎ込んできた投資を、ある日の決算で「損切り」する瞬間。数字を見て、理屈で分かっていたことが、感情の側にもストンと落ちる。もう、ここには何を入れても返ってこない。
三年間必死に燃やし続けてきた感情の収支報告書に、最終行が書き加えられた。
合計——大赤字。回収見込み——ゼロ。
結論——即時撤退。
スッ……と。
本当に、あっけなく。全ての感情が帳簿から消えた。
「……そうですか」
ルシアンは泥を拭わなかった。
拭う価値のある場所ではないと判断した。コストに見合わない。
代わりに、泥まみれのまま静かに立ち上がり、椅子を引いた。
「お言葉ですが、伯爵夫人。これは試練ではなく、傷害です」
「なっ……何を言って——」
「この婚約は白紙とさせていただきます。また、我がバーナード男爵家から提供していた実務支援も、本日をもって全て終了です」
空気が凍った。
「ちょ、ちょっと待ちなさい! 今のは愛の試——」
「一点、訂正を」
ルシアンは泥が滴る報告書を丁寧に折り畳みながら、帳簿の数字を読み上げるように淡々と言った。
「三年間、無報酬で領地を立て直しました。労働時間にして約八千六百時間。その間、感謝の言葉は一度もなく、返ってきたのは蔑みと、泥水と、脛への蹴りです。投資に対するリターンとして、これは過去最悪の数字です」
報告書を懐にしまった。
「帳簿屋として断言します。これ以上この案件に一秒たりとも投資する合理性はありません」
「ま、待って、ルシアン! 黒騎士様はここで去ったりしないわ!」
セシリアが慌てて立ち上がった。まだ目が潤んでいる。まだ感動している。泥まみれの婚約者が去ろうとする姿に、まだロマンスを見出している。
ルシアンは振り返りもしなかった。
「私は黒騎士ではありません。ただの帳簿屋です。そして帳簿屋は、割に合わない取引からは手を引きます。——それだけのことです」
「ルシアン! ルシアンっ! 振り返って! ここで振り返るのが、愛の——」
食堂の扉が閉まった。
重い木の扉の向こうから、セシリアの声がくぐもって聞こえた。
「——あぁっ……行ってしまった……! まるで、第三幕の別れの場面……!」
感動していた。最後まで。
◇
第2章 すれ違う認識と、届き続ける「ポエム手紙」
ルシアンが去って三日目。
伯爵家は静かに壊れ始めた。
まず止まったのは、金の流れだった。
「奥様、今月の納税書類はどちらに?」
「知らないわよ、ルシアンがやっていたでしょう!」
「そのルシアン様がいないから聞いているのですが」
「うるさいわね! 引き出しの中でも探しなさい!」
探した。屋敷中の引き出し、棚、地下倉庫の隅々まで。
——何もなかった。
当然である。ルシアンは全ての実務を自分の頭と自分のファイルで管理していた。帳簿、契約書の原本、各商人との取引条件の覚書、農地の区画割り当て表、徴税の算定基準書、橋と水路の補修スケジュール、役人への指示系統図——全てルシアンの手元にあり、全てルシアンと共に去った。
伯爵家に残されたのは、伯爵夫人が「たぶんこのくらい使った」と走り書きした、あのメモだけだった。
五日目。
領内の最大の穀物商から書状が届いた。
『今月の支払いが確認できません。三日以内にご入金なき場合、取引を停止いたします』
伯爵夫人は使用人に怒鳴った。
「払いなさい!」
「いくら払えばいいのでしょうか」
「そんなこと、あの商人に聞きなさいよ!」
「商人に『いくら払えばいいですか』と聞くのですか?」
「他に誰に聞くのよ!」
「……ルシアン様がいれば、一瞬で——」
「あの男の名前を出すな!!」
支払額が分からない。
そもそも何の支払いか分からない。
契約書がどこにあるかも分からない。
穀物商は取引を停止した。続いて木材商、織物商、金属商が次々と同じ通告を寄越した。ルシアンが三年かけて築き上げた信用と取引網が、わずか一週間で瓦解していく。
七日目。
農地の管理官が泣きそうな顔で報告に来た。
「奥様、春の種まきの配分計画が見つかりません。どの畑に何を蒔けばいいのか——」
「去年と同じにすればいいでしょう!」
「去年はルシアン様が三年計画の二年目として輪作スケジュールを組んでおられまして、今年は三年目の作物に切り替える予定だったのですが、何をどこに蒔くのかが——」
「知らないわよ、そんな細かいこと! 適当に蒔きなさい!」
「適当に」蒔いた結果、秋の収穫は見込みの三割以下になる。
だが、この時点の伯爵夫人にはそれを予測する能力すらなかった。
十日目。
王都から税務官が来た。
「ランドール伯爵家の本年度中間納税報告を確認しに参りました。担当の文官とお話しさせていただきたいのですが」
「文官は……今、不在です」
「では、納税関連の帳簿をお見せいただけますか」
「帳簿は……今、ちょっと……」
「帳簿がないということですか?」
「ないのではなく、今すぐには……」
税務官は、伯爵夫人を長い時間じっと見た後、無言で帰っていった。
その背中を見送りながら、伯爵夫人は初めて気づいたかもしれない。
——この家は、ルシアンという一人の帳簿屋の頭脳の上に建っていた。
そしてその帳簿屋を、自分は泥水で追い出したのだと。
——気づいたかもしれない。
気づかなかったかもしれない。
なぜなら、その日、もう一つの問題が伯爵家を襲っていたからだ。
◇ ◇ ◇
「お母様っ、大変なの!」
セシリアが伯爵夫人の部屋に駆け込んできた。
——目を輝かせて。
「セシリア、今それどころでは——」
「ルシアンったら、十日も戻ってこないの!」
「……ええ、分かっているわ」
「きっと身分差の恋に引き裂かれて、どこかで泣いているのよ!」
「……は?」
「分かるわ。あの時のルシアンの目、とっても切なかったもの。お母様の前では強がって出ていったけど、本当はきっと……ああ、なんて悲しいすれ違い!」
伯爵夫人は娘の顔をまじまじと見た。
自分がまいた泥水のせいで婚約者が去り、領地が崩壊し始めているこの状況を、この娘は——
「これって『聖女と黒騎士の涙』の第三幕そのものだわ! 黒騎士様が聖女の前から姿を消して、聖女が嵐の中で待ち続ける場面!」
——悲恋劇だと思っている。本気で。
伯爵夫人は頭を抱えたかったが、頭を抱えるより先に、娘を溺愛する本能が口を動かした。
「……そ、そうかもしれないわね」
認めてしまった。
この親にしてこの子あり。
「でしょう!? お母様もそう思うでしょう!? だから私、決めたの!」
「何を……」
「ルシアンに手紙を書くの! 黒騎士様を迎えに行くのは聖女の役目だもの!」
そしてその日から——地獄が、始まった。
◇ ◇ ◇
セシリアがルシアンに送った手紙を、ここに記録する。
なお、ルシアンは一通も読んでいない。開封し、日付を記録し、証拠としてファイルに綴じただけである。
——第一信(十一日目)。
『愛しいルシアンへ。
あぁ、泥に塗れた貴方の顔すら、私には夜空の星に見えました。
冷酷な母という壁を乗り越え、必ず私を迎えに来てね。
待っているわ、永遠に——。
あなたの永遠のセシリアより
P.S. あの日の白百合、押し花にして枕元に飾ったの。
毎晩、貴方の代わりに百合に「おやすみ」って言ってるわ。えへへ。』
泥をぶちまけたのはその「冷酷な母」で、お前は脛を蹴った側だ。
そして百合に話しかけるな。
——第二信(十三日目)。
『ルシアンへ。
今日の夕焼けが、あの日の泥と同じ色でした。
それだけで胸が苦しいの。
ルシアン、貴方はきっと今頃、私の名前を呼びながら枕を濡らしているのでしょう?
泣いていいのよ。私も泣いているから。
離れていても、私たちの涙は同じ空の下で一つに——
P.S. 白百合、枯れちゃった。貴方がいないから。
百合まで貴方の後を追おうとするなんて、もう、嫉妬しちゃう。
P.P.S. 枯れた百合も捨てられないの。だって、これは私たちの愛の遺体だから。』
愛の遺体。
新しい日本語だった。
——第三信(十五日目)。
この手紙は、封筒にドライフラワーの花弁が同封されていた。例の枯れた白百合の花弁を乾燥させたものだった。手紙本体にも花弁が糊で貼り付けてあり、ところどころ文字が読めない。
『ルシアンへ。
枯れた百合の花弁を同封します。
貴方が持っていて。これは、私たちの愛が枯れても消えない証だから。
ねぇ、知ってる? 蓮の花は泥の中から咲くのよ。
私たちの愛も、あの泥水から——あ、蓮って泥から咲くのよね?
たしか。
とにかく素敵だと思わない?
P.S. 今日、侍女に「ルシアン様はもうお戻りにならないのでは」って言われたの。
馬鹿ね、あの子。何も分かっていないわ。
だって、黒騎士様は第五幕で必ず戻ってくるんだもの。
これ、ネタバレになっちゃうけど。ふふ。
P.P.S. ネタバレ気にしないでね。本当のネタバレは、私たちのハッピーエンドだから。
P.P.P.S. あ、でもまだ演劇のチケット取れてないの。
ルシアンが戻ってきたら一緒に観に行きましょうね! 約束よ!』
蓮に失礼。
侍女が正しい。
そしてお前は演劇に行っている場合ではない。
——第四信(十八日目)。
この手紙には、セシリア自筆の「ルシアンの似顔絵」が同封されていた。
泥まみれの顔を「あえて」描いたもので、余白に『この顔が好き♡』と書いてあった。
画力は壊滅的だった。ルシアンというより、沼にはまった案山子に近い。
『ルシアンへ。
描いたの。あの日の貴方を。
何度描いても、泥の下の貴方の凛々しさが再現できなくて悔しいわ。
でもね、描いているうちに気づいたことがあるの。
泥って、茶色でしょう? 大地の色よ。
つまり、貴方は大地に愛されているの。
お母様がかけた泥水は、大地からの祝福だったのよ。
……ちょっと無理がある?
ううん、無理じゃないわ。だって愛に無理なんてないんだから。
P.S. 似顔絵、似てる?
P.P.S. 似てなくても怒らないでね。
P.P.P.S. でも、世界で一番愛を込めて描いたのは確かよ。
P.P.P.P.S. 額に入れて飾ってね。』
傷害を祝福と呼ぶな。
似顔絵は棺に入れてくれ。
——第五信(二十日目)。
封筒が異常に分厚かった。
中身は手紙ではなく——セシリアが書いた「脚本」だった。
タイトルは『泥の中の永遠 ~男爵の騎士と伯爵の聖女~ 全五幕』。
ルシアンとセシリアの「悲恋」を戯曲にしたもので、全二十三ページ。
第一幕で二人は運命的に出会い(実際は親同士の取り決め)、第二幕でルシアンがセシリアの美しさに目覚め(実際は帳簿に目覚めた)、第三幕で「冷酷な母」が二人を引き裂き(泥をかけた犯人を悲劇の障害に変換)、第四幕でルシアンが泣きながら去り(泣いていない)、第五幕でルシアンが白馬に乗って迎えに来る(来ない)。
最終ページの余白に、こう書いてあった。
『ねぇルシアン。この脚本、完成したら劇団に持ち込もうと思うの。
私たちの愛の物語を、みんなに知ってもらいたいから。
タイトルは変えてもいいわよ? 『泥と涙と永遠のキス』とかどうかしら。
あ、まだキスしてないけど。えへへ。
戻ってきたら、キスの場面のリハーサルしましょうね?????』
二十三ページの力作だった。
ルシアンは一文字も読まなかった。
ページ数と日付だけ記録し、ファイルに綴じた。
——第六信(二十三日目)。
この手紙は、涙のシミがついていた。
——本物の涙かどうかは分からない。舞台演劇では「涙のシミ」を再現するために水滴を垂らすテクニックがあると、セシリア本人が以前ルシアンに自慢していた。
『ルシアン。
今日、演劇を観に行ったの。
やっぱり黒騎士様がルシアンに重なって、涙が止まらなかったわ。
隣の席の人が「大丈夫ですか」って声をかけてくれたの。
私は答えたわ。
「大丈夫です。これは、現実の恋の涙なので」って。
隣の人、感動して泣いていたわ。
……たぶん。顔を背けていたけど。
帰り道、お母様が「あの男は所詮、男爵風情よ。忘れなさい」と言っていたけれど、
私は信じてる。愛に身分は関係ないって。
だからルシアン、早く迎えに来て。
もう、私の涙の在庫がなくなりそうなの。
P.S. 涙の在庫って変かしら。でも、毎日泣いてると本当に枯れるのよ。
P.P.S. 枯れた涙は、枯れた百合と一緒に保存してあるわ。
P.P.P.S. ……保存の仕方が分からないから、壺に入れてあるの。
P.P.P.P.S. 壺って、涙壺って呼ぼうかしら。素敵じゃない??』
隣の人は引いている。
涙は保存できない。
お前の母を止めろ。
——第七信(二十五日目)。
封筒の表に「※重要」と赤い文字で書いてあった。
『ルシアンへ。
大変なことに気づいたの。
私たちの物語には、まだ「雨の中の再会」が足りないわ。
悲恋ものには必ず雨のシーンがあるの。
黒騎士様が雨の中で聖女の名前を叫ぶ場面が、
毎回観客の投票で「最も泣けるシーン第1位」なの。
だから、お願い。
次に私に会いに来る時は、雨の日にしてね。
できれば夕方。西日が雨に反射して、ちょうどいい感じの照明になるから。
あ、でも嵐はダメよ。髪が乱れるから。
小雨がベスト。しとしと降る感じ。
前日に天気を確認してから来てね。
P.S. 傘は持ってこないでね。
二人で濡れるのがポイントだから。
P.P.S. でも私は傘を持っていくわ。
だって風邪ひいたら困るもの。
……矛盾してる? してないわ。だって聖女は病弱キャラだから!!!!
P.P.P.S. あ、私は病弱じゃないんだけど。
でもこの際、病弱のフリしようかしら。ゲホゲホ。
P.P.P.P.S. 今のは演技よ? 本当に咳してるわけじゃないわ。
手紙で伝わるかしら。不安。
P.P.P.P.P.S. 伝わるわよね、愛があれば。』
天気指定。
照明指定。
しかも自分だけ傘を持参。
ルシアンはこの手紙をファイルに綴じる際、初めて手が止まった。
——証拠として保管しているのだが、このまま保管し続けると、自分の精神衛生に悪影響が出るのではないか、という実務的な懸念が生じたのだ。
しかし、帳簿屋の習性が勝った。記録は記録。感情で証拠を捨てるのは二流のやることだ。
日付を記入し、ファイルに綴じた。
こうして手紙は毎日のように届いた。
三十二通。
一通として、謝罪の言葉はなかった。
全てが「悲劇のヒロインである私」を主語にしたポエムだった。
ルシアンは一通も返信しなかった。
一通も捨てなかった。
全てを丁寧に日付順に整理し、封筒ごとファイルに綴じた。
——不快な証拠として。
同封された似顔絵も、枯れた花弁も、脚本も、全て保管した。
帳簿屋として、帳尻は必ず合わせる。
◇
第3章 引き抜きと、勘違いの面会
ルシアンが伯爵家を去ってから一週間後のことだった。
彼の元に一通の——ポエムではない——書簡が届いた。
差出人を見た瞬間、ルシアンの背筋が伸びた。
『ルシアン・バーナード殿。
貴殿の行政手腕について、かねてより注目しておりました。
没落寸前の伯爵領を三年で黒字化した手腕は、この王国において比類なきものと考えます。
つきましては、我がヴァルシュタイン公爵家の筆頭文官として迎え入れたく、ご面談の機会を賜りたく存じます。
エレノア・フォン・ヴァルシュタイン』
ヴァルシュタイン公爵家。
王国の宰相を代々輩出する名門中の名門。その現当主の息女エレノアは「氷の淑女」の異名を持ち、二十三歳にして公爵領の行政全般を統括する才媛だ。
面談は、驚くほど事務的だった。
「伯爵領の財政再建について、数字を拝見しました。三年で黒字化。農業生産性は百七十パーセント向上。商路は六本新設。率直に言って、見事です」
「ありがとうございます」
「報酬は年俸で金貨三百枚。住居、執務室、秘書二名を付けます。不足があれば申してください」
「……金貨三百枚?」
「不服ですか」
「いえ。伯爵家での報酬はゼロでしたので、何倍という計算ができないなと」
エレノアの手が止まった。
書類を持つ指先が、わずかに白くなった。
「——無報酬で、三年間?」
「はい。婚約者の家でしたので」
「帳簿の管理、農政の改革、商路の開拓、徴税の立て直し——全て、無報酬で?」
「はい」
「……なるほど」
エレノアの碧い瞳が、かすかに細まった。
それは怒りだった。だが、氷の淑女はそれを一滴たりとも表に出さなかった。ただ、次に発した言葉の温度が、零下数度ほど下がっただけだった。
「条件に一点追加します。赴任初日に、公爵家の顧問法律家と面談していただきます。伯爵家での処遇について、法的な記録を残しておきたいので」
「……それは、何のために?」
「将来、伯爵家が何か愚かなことをしてきた場合の保険です。愚かな人間は、決まって二度目の愚かさを発揮しますので」
ルシアンは、この人は先が読めるな、と思った。帳簿屋として、それは最大の賛辞だった。
「条件は以上です。来週から出仕していただけますか」
「喜んで」
こうして、ルシアンは公爵家の筆頭文官として新たな職を得た。
報酬が出る。
感謝される。
泥が飛んでこない。
ポエムが届かない。
——人間として当然の労働環境だった。それが、涙が出るほどありがたかった。
◇ ◇ ◇
さて。
ルシアンが公爵家で順調に成果を上げている間、伯爵家はどうなっていたか。
結論から言えば、死にかけていた。
ルシアンが去って二週間で、領内の全ての主要商人が取引を停止した。
三週間で、春の種まきの時期を完全に逃した。
四週間で、税務官から正式な督促状が届いた。
橋の補修工事は、資金が尽きた上に工事の指示系統が分からなくなり、中断。半分だけ修理された橋は、通行するたびに不吉な軋みを発するようになった。
水路の管理も放置され、農地の一部が浸水した。
領民からの陳情書が伯爵家の玄関に山と積まれたが、読む者はいなかった。読んでも何をすればいいか分からないからだ。
社交界では、すでに噂が広がっていた。
「ランドール伯爵家は終わった」と。
そして——それでも、セシリアは手紙を書き続けていた。
領地が死にかけている横で、便箋にドライフラワーを貼りながら。
◇ ◇ ◇
ルシアンが公爵家に赴任して一ヶ月が経った頃。
ついに、その日が来た。
「ルシアン殿。応接室に、ランドール伯爵家の方が面会を求めて来ておられます」
秘書の報告を聞いて、ルシアンは小さくため息をついた。
——来たか。エレノアが「愚かな人間は二度目の愚かさを発揮する」と言った通りだった。
「……お通しして構いません」
応接室に入ると、二人の女性が座っていた。
伯爵夫人エルザと、セシリア。
ルシアンの姿を見た瞬間、セシリアの目が輝いた。輝き方が尋常ではなかった。乾季のダムに水が流れ込んだ時のような、あるいは、推しの舞台の最前列チケットが当たった時のような——とにかく、こういう場にふさわしくない種類の輝きだった。
「ルシアンっっっ!!!」
セシリアが立ち上がって駆け寄ろうとした。ルシアンが無言で手を上げると、三歩手前で止まった。止まったが、目の輝きは止まらなかった。
「会いたかったわ……! ああ、やっぱりルシアンはかっこいい……! その文官服、すごく似合ってる……! 泥まみれの時もよかったけど、清潔なルシアンも素敵……!」
この女は、泥まみれの時も「よかった」と言うのか。
「——何の御用でしょうか」
ルシアンは椅子にも座らず、立ったまま聞いた。
伯爵夫人が、優雅に——少なくとも本人はそのつもりで——微笑んだ。頬のこけ方と目の下の隈が、この一ヶ月の苦労を物語っていたが、プライドだけは健在だった。
「ルシアン。よく頑張ったわね。一ヶ月もの間、耐えたのね」
「……はい?」
「試練は合格よ」
伯爵夫人は、まるで教師が生徒に成績を告げるように、鷹揚にうなずいた。
「あなたの忍耐力、そして我が家への忠誠心、しかと確認しました。さ、もう戻ってきて業務を続けなさい」
ルシアンは、二人の顔を交互に見た。
「セシリア嬢は……何か?」
「あ、あのね、ルシアン」
セシリアは両手を胸の前で握りしめ、涙ぐんだ。涙ぐみながらも、どこか恍惚としていた。
「この一ヶ月、本当に辛かったでしょう? 私も辛かったの。毎日泣いたの。でもね、これでやっと——やっと私たちの試練は終わるのよ。『聖女と黒騎士の涙』の第五幕と同じ。引き裂かれた二人がついに再会する場面……! ああ、もう、今ここで抱きしめたいくらい——」
「手当てもちゃんと出すわ」と伯爵夫人が仕上げとばかりに付け加えた。「月に銀貨五枚。破格でしょう?」
銀貨五枚。
市場で肉が二切れ買える程度の金額だった。
ルシアンの現在の年俸は金貨三百枚。月額に換算すれば金貨二十五枚。銀貨五枚は、その六百分の一である。
ルシアンは二人の顔を、今度はゆっくりと見た。
伯爵夫人は、まだ上から目線だった。一ヶ月前に泥をぶちまけた人間に対して「合格」を告げに来ている。その認知の歪みは、もはや地質学的なレベルだった。
セシリアは、まだ恍惚としていた。破局した婚約者に三十二通のポエムを送りつけ、脚本まで書き、天気指定の再会演出プランまで練った女が、「やっと再会できた」と感動している。その目には反省のかけらもなく、ただ「物語が予定通り進んでいる」という満足感だけがあった。
——この人たちは、本当に、心の底から、自分たちが「上」の立場にいると思っている。
ルシアンは、帳簿屋として最終的な判断を下した。
この案件は、自分の手には負えない。
「伯爵夫人。セシリア嬢。大変申し訳ありませんが——」
「何よ、まだ不満があるの? 銀貨七枚まで出すわよ」
「——お話にならないので、上の者を呼びます」
「……は?」
◇
第4章 氷の公爵令嬢による宣告
応接室の奥の扉が開いた。
冷気が流れ込んできた——ような気がした。
実際には空調など存在しない。だが、入ってきた人物が纏う空気がそう錯覚させるのだ。まるで、部屋の中に冬が一つ増えたように。
「お話は聞いておりました」
エレノア・フォン・ヴァルシュタイン。
銀髪を高く結い上げ、深い碧の瞳には感情が映っていない。「氷の淑女」の異名は伊達ではなかった。いや——氷に失礼だった。氷にはまだ溶ける可能性がある。この人の瞳には、それすらない。
「ヴァ、ヴァルシュタイン公爵家の……!?」
伯爵夫人の顔が引きつった。さすがに、宰相家の令嬢を知らないわけがない。
「初めまして、ランドール伯爵夫人。私はエレノア・フォン・ヴァルシュタイン。ルシアン殿の現在の雇用主です」
「こ、雇用……?」
「ルシアン殿は先月より、我がヴァルシュタイン公爵家の筆頭文官として勤務しております」
空気が変わった。
伯爵夫人の目が泳いだ。筆頭文官。公爵家の行政を一手に担う最高位の事務官であり、その身分は下手な男爵よりも遥かに上だ。
「さ、筆頭……? あの男爵家の次男が……?」
「ええ。三年で破綻寸前の伯爵領を黒字化した手腕は、王国でも屈指のものです。我が家としては、むしろ破格の待遇でもまだ足りないほどですが」
エレノアは腰を下ろし、長い脚を組んだ。
その所作一つで、この部屋の主導権が完全に移ったことを全員が理解した。
「さて、本題に入りましょう」
声は穏やかだった。穏やかだからこそ、底冷えがした。
「まず確認いたします。伯爵夫人。あなたは一ヶ月前の晩餐会において、ルシアン殿の顔に——鉢植えの泥水をぶちまけた。事実ですね?」
「そ、それは、愛の試練として——」
「試練」
エレノアが、その単語だけを切り取って繰り返した。空気から温度が一度下がった。
「泥水を人の顔にかける行為を、あなたは『試練』と呼ぶのですか。面白い。私の知る限り、法律用語ではそれを『傷害』と呼びます」
「けっ、傷害!? 大げさな——」
「大げさでしょうか」
エレノアが手元の書類をめくった。ルシアンが赴任初日に顧問法律家と作成した、あの記録だ。
「ルシアン殿が保管していた記録によりますと、当日の泥水には園芸用の石灰混合土が含まれていました。石灰混合土は強いアルカリ性であり、目に入れば角膜損傷、最悪の場合は失明に至ります。これを人の顔面に向けて投擲する行為は、王国法第三十七条に定められた『身体に対する故意の有害行為』に該当します」
「——っ」
「罰則は禁固三年以下。ただし、被害者が公爵家の文官である場合、量刑は加重されます」
「さ、三年……!?」
「次に——セシリア嬢」
セシリアがびくりと肩を跳ねさせた。
「あ、あの、私は泥水をかけてはいないわ——」
「ええ。あなたがしたことは別の問題です」
エレノアが、分厚いファイルを取り出した。
ルシアンが保管していた、三十二通の手紙のファイルだった。
付箋がついている。色分けされている。日付順に整理されている。帳簿屋の仕事だった。
「あなたは、婚約破棄されたルシアン殿に対し、一ヶ月にわたって三十二通の手紙を送り続けましたね」
「え、ええ。だって、ルシアンへの愛を——」
「全通、拝読しました」
セシリアが、ぱっと顔を輝かせた。
「本当!? どうだった? 感動した??」
エレノアが、一瞬だけ、目を閉じた。
——おそらく、人生で初めて、返答に詰まったのだと思う。
だが氷の淑女は、すぐに目を開けた。感情は完璧に凍結されていた。
「……第一信から確認します」
エレノアがファイルを開いた。
「第一信。あなたはこう書いています。『泥に塗れた貴方の顔すら、私には夜空の星に見えました』。——これは、母君が行った傷害行為を美化し、肯定する内容です」
「び、美化じゃないわ! ロマンチックな——」
「第六信。あなたはこう書いています。『冷酷な母という壁を乗り越え、必ず私を迎えに来てね』。——これは、加害者である伯爵夫人を免罪し、被害者であるルシアン殿に対して一方的に復縁を強要する内容です」
「きょ、強要なんて——」
「第五信。あなたは全二十三ページの脚本を同封しています。内容は、あなたとルシアン殿の関係を悲恋劇に仕立てたもので、最終幕ではルシアン殿があなたを迎えに来ることになっている。——つまり、相手の意思を完全に無視した上で、一方的に物語を構築し、その物語に相手を出演させている」
「だ、だって、二人の物語だから——」
「三十二通。全て読みました」
エレノアはファイルを閉じた。ぱたん、と乾いた音が鳴った。
「主語は全て『私』。相手への配慮は皆無。謝罪はゼロ。反省もゼロ。ルシアン殿がどう感じているかへの言及はゼロ。唯一の主張は『私の物語にルシアンが戻ってくるはず』のみ。——つまりこれは恋文ではありません」
エレノアの声が、さらに一段冷たくなった。
「これは、自分の妄想を一方的に押しつけ、相手の拒絶を無視し続ける執拗な付きまとい行為です。法的には、三十二通全てが証拠になり得ます」
セシリアの顔から、血の気が引き始めた。
「そ、そんな……私はただ、愛を——」
「愛?」
エレノアの碧い瞳が、初めて感情を映した。
——冷笑だった。
「愛とは、相手のために三年間無報酬で働くことでしょう。愛とは、感謝もされず蔑まれても黙って帳簿に向かうことでしょう。愛とは、相手の声を聞き、相手の痛みを想像することでしょう」
エレノアは、セシリアをまっすぐに見た。
「あなたの三十二通の手紙に、ルシアン殿の痛みを想像した一文が——たった一文でもありましたか?」
セシリアは答えられなかった。
「ありませんでした。一文も」
エレノアが立ち上がった。
「あなたがしたことは、愛ではありません。ルシアン殿という人間を、自分の頭の中の物語の登場人物として消費しただけです。三年間の労働も、顔にかけられた泥も、あなたにとっては全て『私の物語の演出素材』でしかなかった」
「ち、違う……! 私は本当にルシアンを——」
「では伺います。ルシアン殿の得意な料理をご存じですか」
「……え?」
「ルシアン殿が夜遅くまで帳簿に向かっていた時、何を飲んでいたかご存じですか」
「……」
「ルシアン殿が伯爵領で最初に着手した改革が何か、ご存じですか」
「……それは……」
「ルシアン殿の誕生日はいつですか」
セシリアの目が大きく見開かれた。
——答えられなかった。
「何一つご存じない。三年間、同じ屋敷にいて」
エレノアの声に、初めてわずかな温度が混じった。
——それは、軽蔑の熱だった。
「あなたが愛していたのは、ルシアン殿ではありません。『悲恋劇のヒロインを演じている自分自身』です。ルシアン殿は、たまたまその劇に都合の良い相手役だっただけだ。——違いますか」
応接室が完全に沈黙した。
セシリアは、口を半開きにしたまま固まっていた。目が焦点を失っていた。
世界が、ぐらりと揺れたような顔だった。
今まで疑ったことのない物語の地面が——足元から崩れていく感覚。自分が演じていたと思っていたのは悲劇のヒロインではなく、加害者の独り芝居だったのだと、目の前に突きつけられた瞬間。
だが——エレノアは、まだ終わっていなかった。
「さて——ここからが本題です」
——まだ本題ではなかったのか。
伯爵夫人の顔が蒼白を通り越して灰色になった。
「我がヴァルシュタイン公爵家の筆頭文官に対し、泥をかけ、無償労働を強要し、婚約破棄後も一方的に付きまとい行為を続け、挙句の果てに『試練は合格よ、戻りなさい』と——自分たちが泥をかけた相手に、再び無償奉仕を命じに来た」
エレノアの声が、氷河が大地を削り取るように、低く、重く、響いた。
「——ランドール伯爵家は、ヴァルシュタイン公爵家に喧嘩を売っていると解釈してよろしいですね?」
「ちちちち違います!!!」
伯爵夫人が椅子から転げ落ちた。比喩ではなく、本当に椅子から落ちた。膝をついたまま、がたがたと震えている。
「公爵家に喧嘩など滅相もない! あれは、あの時はまだルシアンは伯爵家の——」
「婚約者候補でしたね。つまり、自分の家の人間にはいくらでも泥をかけていいと?」
「そ、そうではなく——」
「では、他人であればなおさら許されませんが?」
論理の逃げ道が、一つもなかった。
エレノアは、追い詰められた獣を観察する目で、淡々と告げた。
「整理しましょう。傷害罪。付きまとい行為。公爵家の文官に対する侮辱。そして、公爵家への不敬。この四件について、ランドール伯爵家は正式に釈明する義務があります。王宮の法務官を通じて」
「お、王宮の……!?」
「ああ、それから」
エレノアが、最後の一撃を放った。
「宰相である父にも、既に報告済みです。——『ランドール伯爵家は信用に値しない家である』と」
終わった。
伯爵夫人は、ようやく全てを理解した。
自分たちが「試練」と称して行った行為が、ただの犯罪であったこと。
その犯罪の矛先が、今や王国最高権力者の膝元にいる人間に向けられていたこと。
そして——もう、どこにも逃げ場がないこと。
顔面蒼白どころではなかった。伯爵夫人は、床の上で小刻みに震え始めた。
◇
第5章 喜劇的な自滅と決別
パニックだった。
伯爵夫人の頭の中は真っ白だった。公爵家の怒り。王宮の法務官。宰相への報告。傷害罪。禁固三年。付きまとい。不敬。
助けてくれる人間は誰もいない。頼りになる文官はとうの昔に泥をかけて追い出した。社交界の知人は伯爵家の没落を嗅ぎ取って離れていった。夫はもういない。
——許してもらわなくては。
——何としてでも。
——でも、どうやって?
その時、伯爵夫人の視界に入ったのは、応接室の窓辺に置かれた花瓶だった。
白い花が活けてあり、花瓶の中には水と、花の茎から溶け出した緑がかった泥が沈殿している。
伯爵夫人の中で、何かが弾けた。
それは理性の最後の砦だった。
「——お許しくださいッ!!!」
伯爵夫人は花瓶を掴み、中の泥水を自らの頭からぶちまけた。
ざばぁっ。
高級な絹のドレスが、瞬く間に泥水まみれになった。花弁が髪に張りつき、茶色い水が顔を伝って首筋を流れ、ドレスの胸元に溜まった。
「同じ目に遭えば許していただけるのでしょう!? ほら、これで——これで対等です! お願い、許してぇぇぇ!!!」
伯爵夫人は両膝をつき、泥まみれの顔で床に額を擦りつけた。
つい先ほどまで「男爵風情」と見下していた相手に、文字通り土下座をしている。その変わり身は、ある意味では見事だった。プライドの城壁が一瞬で崩れるさまは、まるで手抜き工事の建物のようだった。
エレノアが、初めて表情を変えた。
——眉をひそめたのだ。醜態に対する、純粋な不快感だった。
「……伯爵夫人。自分の頭に泥をかけたところで、ルシアン殿の頭にかけた泥が消えるわけではありません。それは謝罪ではなく、パフォーマンスです」
「うぅぅぅ……」
ルシアンに至っては、何の感情も湧かなかった。帳簿屋の目で見ていた。この人は今、「許し」という成果を得るために「自己犠牲」というコストを支払おうとしている。だが、そもそも相手が何に怒っているのかを理解していないので、投資先を完全に間違えている。赤字事業に追加投資するのと同じだ。
そして——この場で最も予測不能な人間が、動いた。
「お母様!!!」
セシリアが、母の姿を見て両手で口を覆った。
その瞳は——涙で潤んでいた。
感動の涙で。
先ほどエレノアに「あなたが愛していたのは自分自身だ」と言われ、一瞬は呆然としたはずだった。地面が崩れたような顔をしていたはずだった。
——だが、この女は違った。
目の前に「泥をかぶった母」という新しいドラマが出現した瞬間、崩れかけた物語が即座に再構築されたのだ。
悲劇のヒロインの脚本は、どんな現実を突きつけられても、数秒で改訂版が出来上がる。
「お母様……お母様が、私の恋のために泥を被ってくれた……!」
「セシリア、今はそういう——」
「あぁっ……! なんて残酷な運命! 母が、娘の愛のために、自らの誇りを捨てて泥に跪くなんて……!」
セシリアは両腕を広げ、天を仰いだ。涙が頬を伝い、照明の光を反射してきらきらと輝いた。
「これはまさに……『聖女と黒騎士の涙』最終幕! 聖女の母が身代わりとなって泥に伏す場面……!」
床に崩れ落ちた。
両膝をついて、泥まみれの母の隣で、自分はきれいなドレスのまま、滂沱の涙を流した。
「ルシアンッ! お母様の犠牲を無駄にしないでッ! お願い、私たちの愛を——!」
エレノアが、セシリアを見た。
その目は——冷たくはなかった。
冷たさを通り越していた。
あるものを見る目に似ていた。それは——壊れた時計を見る、時計職人の目だった。もう直しようがない、という確認の目。
「セシリア嬢」
「——あ」
「今、あなたの母上は、法的処罰を回避するために自分の頭に泥水をかぶりました。動機はパニック。ロマンスでも犠牲でもありません」
「……え?」
「そして、あなたは——そのパニック発作すら、自分の恋愛物語の演出に変換した」
エレノアの声に、一片の感情もなかった。
「先ほど私は、あなたに問いました。ルシアン殿の誕生日はいつかと。あなたは答えられなかった」
「……」
「三年間、一つ屋根の下にいた婚約者の誕生日を知らない。それは、あなたの目にルシアン殿が『人間として』映っていなかったということです」
セシリアの涙が、ぴたりと止まった。
「あなたにとって、この世界は——全てがあなたの物語の舞台装置です。ルシアン殿は小道具。お母上は障害役。そして今の泥も、涙も、全てあなたの劇の演出。現実に、他者に、一度も触れたことがない」
セシリアの口が、かすかに動いた。何か言いかけて——言葉が出てこなかった。
「控えめに申し上げます」
エレノアは言った。
「あなたに必要なのは、黒騎士ではありません。医師です」
応接室が、完全に沈黙した。
セシリアは、床にへたり込んだまま動かなかった。
涙は止まっていた。
だが——その目は、どこも見ていなかった。
演劇モードが途切れた、素のセシリアがそこにいた。
台本のない場面に放り出された役者が、次のセリフが分からないまま舞台の上で立ち尽くしているような——そういう顔だった。
伯爵夫人は泥まみれのまま床に伏し、嗚咽を漏らしていた。
その光景を、ルシアンは静かに見ていた。
同情はなかった。怒りもなかった。
ただ、とても遠い場所で、知らない人が知らない芝居をしているのを眺めているような気分だった。
三年前は、この人たちのために死に物狂いで働いていた。セシリアの笑顔を守りたいと思っていた。伯爵家を立て直すことが、自分の使命だと信じていた。
今は——何も感じない。
帳簿から消した勘定科目を思い出すように、かつての感情を探してみたが、そこには空白しかなかった。
「……衛兵を」
ルシアンは静かに言った。
事務連絡のトーンだった。
「二度と、私の視界に入らないでください」
衛兵が二人、入ってきた。
泥まみれの伯爵夫人と、床にへたり込んだセシリアを、左右から丁重に立たせ、出口へ促す。
「ま、待って……ルシアン……」
セシリアが振り返った。その目は、もう輝いていなかった。恍惚もなかった。ただ、何かにすがろうとする目だった。
「……私、本当に……愛して……」
「セシリア嬢」
ルシアンが、初めてセシリアに向き合った。
「三年間、私はあなたのために働きました。一度も報酬を求めませんでした。一度も文句を言いませんでした。それが愛だと、私は思っていました」
「……」
「ですが、あなたが三年間で私にくれたものは——泥と、蹴りと、三十二通のポエムでした。帳簿屋として言います。これは取引ではない。寄付ですらない。——搾取です」
ルシアンはセシリアから目を逸らし、衛兵に頷いた。
「お引き取りを」
「ルシアンっ——ルシアーンっ!!」
「いやぁぁぁ放してぇぇぇ公爵様ぁぁぁ!!」
廊下に響く二人の絶叫が、次第に遠ざかっていった。
応接室に、静寂が戻った。
「……お見苦しいところを、失礼しました」
「いえ」
エレノアは窓の外を見ていた。その横顔はいつもと変わらず冷静だったが、わずかに——本当にわずかに——眉間に皺が寄っていた。
「……あの親子。最後まで、一度もあなたに謝りませんでしたね」
「ええ。一度も」
「三年間もですか」
「三年間も、です」
「伯爵夫人は自分に泥をかけることを謝罪だと思い、セシリア嬢はそれを美談に変換した。つまり、謝罪という概念そのものが、あの二人の辞書には——」
「ありませんね。三年間で確認済みです」
少しの沈黙があった。
「ルシアン殿」
「はい」
「明日の公爵領北部の灌漑計画の書類、午前中にいただけますか」
「すでに昨夜、完成させております」
「……なぜ分かったのです? まだ依頼していませんでしたが」
「来週の公爵会議の議題を確認した際、北部の水利が未決のまま残っていたので。先回りしました」
エレノアが振り返った。
その碧い瞳に、かすかな——本当にかすかな——温度が灯った。
「……やはり、金貨三百枚では足りなかったかもしれません」
「十分すぎるほどです。報酬をいただけるだけで」
「——そういうところです」
「はい?」
「三年間無報酬で働かされた人間が、適正報酬に感動する。それは美談ではなく異常です。覚えておいてください」
「……肝に銘じます」
エレノアの口元が、ほんの僅かに——本当に僅かに——緩んだ。
氷が溶けるとしたら、きっとこういう溶け方をするのだろう。
◇
終章 新しい居場所
ランドール伯爵家は、あっけなく没落した。
公爵家からの信用を失い、社交界から締め出され、税の滞納により領地の管理権を王宮に召し上げられた。商人は一人残らず離れ、農地は荒れ、屋敷の使用人も櫛の歯が欠けるように辞めていった。
伯爵夫人は辺境の小さな屋敷に引き取られ、かつて「男爵風情」と蔑んだ相手の百分の一の暮らしを送ることになった。夜ごと泥水の悪夢にうなされ、「試練」という言葉を聞くだけで胃が痛むようになったという。
——そして、セシリアである。
没落後も、セシリアは悲劇のヒロインを気取ろうとした。
社交界に出入りできなくなっても、街角で出会った人々に「身の上話」を語って聞かせた。
「私は、身分差の恋に引き裂かれた伯爵令嬢なの。母の横暴で愛する人を失い、領地も地位も全てを奪われた。でも、いつかきっと彼が——」
だが、誰も最後まで聞いてくれなかった。
元・社交界の知人たちは「ランドール」の名前を聞いた瞬間に目を逸らした。
街の人々は、最初の三分だけ付き合った後、用事を思い出したふりをして去っていった。
ある日、パン屋のおかみが「お嬢さん、その話、昨日も聞いたわよ」と言ったのを最後に、セシリアの話に付き合う人間はいなくなった。
演劇のチケットも買えなくなった。
推しの舞台『聖女と黒騎士の涙』は、すでに公演が終了していた。次回公演の予定はない。劇団のパンフレットすら手に入らない。
セシリアは、誰もいない安宿の部屋で、壁に向かって第三幕のセリフを暗唱した。
観客は——誰もいなかった。
ある日、窓の外を野良猫が通りかかった。
セシリアは窓を開け、猫に向かって語りかけた。
「ねえ、聞いて。私は悲劇のヒロインなの。身分差の恋に——」
猫はセシリアの顔をじっと見た。
三秒。
あくびをして、去った。
——猫にすら退屈な芝居だった。
セシリアは窓辺に座ったまま、しばらく動かなかった。
涙は出なかった。
泣こうとしたが、出なかった。
涙が出ないと、悲劇のヒロインはただの——窓辺に座った人間だった。
◇ ◇ ◇
一方、ルシアンは新たな日々を送っていた。
公爵家の筆頭文官としての仕事は多忙を極めたが、充実していた。自分の仕事が正当に評価され、報酬が支払われ、成果を出せば「見事です」と言ってもらえる。
たったそれだけのことが、こんなにも心地よいものだったのかと、ルシアンは今更ながらに知った。
何より——朝起きて郵便受けを確認した時、ポエムが入っていないだけで一日が清々しかった。枯れた花弁も、似顔絵も、脚本も届かない。天気指定の手紙も来ない。それだけで、空気がうまい。
「ルシアン殿」
ある日の午後、執務室にエレノアが紅茶を二つ持って現れた。公爵令嬢が自ら紅茶を運ぶなど前代未聞だが、エレノアはそういう人だった。合理的で、無駄な序列意識がない。「自分で持ってきた方が早い」と判断すれば、自分で持ってくる。それだけのことだった。
「北部の灌漑計画、想定以上の成果です。水路の改修で、来年の収穫は二割増しの見込みだとか」
「農地の地形に合わせて勾配を再計算しただけです。大したことは」
「大したことをしている人間ほど『大したことはしていない』と言う。覚えておきます」
エレノアは紅茶をルシアンの机に置いた。
「それと、もう一件」
「はい」
「旧ランドール領の農民から、嘆願書が届きました。『ルシアン様がいなくなってから、まともに種も蒔けない。どうかお力を貸してほしい』と」
「……そうですか」
「公爵家として、旧ランドール領の再建支援を行います。その指揮を、あなたにお願いしたい」
ルシアンは少し黙った。
「よろしいのですか。あそこは私にとって、あまり良い思い出のない場所ですが」
「領民に罪はありません」
「……それは、分かっています」
「それに——」
エレノアは紅茶を一口飲んだ。
「あなたが三年かけて築いたものを、馬鹿な親子のせいで腐らせるのは、帳簿屋として許せないでしょう」
ルシアンは、不意を突かれたように目を見開いた。
——この人は、自分の言葉を覚えていてくれる。
「帳簿屋」。自分がそう名乗ったことを、忘れずにいてくれる。蔑称ではなく、一人の人間の矜持として。
「……喜んでお引き受けします」
「では、明日から」
「明日から、ですか。相変わらずお早いですね」
「時間は有限です。ポエムを読む暇があったら帳簿を読みなさい、という話です」
「……それは、私に言っていますか?」
「さあ。どうでしょう」
エレノアの唇が、ほんの少しだけ——本当にほんの少しだけ——弧を描いた。
ルシアンは紅茶を受け取り、小さく笑った。
泥まみれの愛は、もういらない。
三十二通のポエムも、押し花の白百合も、涙壺も、天気指定の再会演出も、二十三ページの脚本も。
全て、帳簿の最終ページに損失として計上して、閉じた。
これからは、清潔な帳簿と、正当な評価と、たまの紅茶があればそれでいい。
——そう思える場所に、ようやく辿り着いたのだ。




