第四十三話 最後の日向王
日本という国の本質を一言でまとめるのであれば、それは――――
「東遷」という言葉に集約されます。
日向から始まり、大和を経て――――現代の東京へ至る太陽の道を辿る壮大な旅です。
紀元前一世紀に行われた神武の東遷は、政治・経済の中心を当時の版図における中心地域である大和へ重心を移したものです。東征と言われることもありますが、その実態を考えた時、たしかに一部の勢力が反発して戦闘にはなりましたが、あくまで倭国連合の中で起こったことであって、新たな領土を広げる戦争を起こしたわけではありませんから、東征ではなく、東遷が正確な表現であると思います。
そして――――百襲姫(卑弥呼)の死後、三世紀後半~末頃に行われた第二の東遷は、最後に残っていた祭祀の中心、いわば聖地の移転(移植)です。
国家とは、政治と祭祀が揃って初めて成立しますから、第二の東遷によって大和王権が成立したというのは記紀に書かれている通り極めて自然です。
問題は、正史である日本書紀が神武の東遷を起点とした直線的な歴史を構築したことによって、本来二段階で成立した大和王権の歴史を正確に描くことが不可能になってしまったということですが、これは記紀編纂者が歴史を改ざんしたわけでも当時の政権が無能だったわけでももちろんありません。
日本書紀は対外的に用意した正史です。つまり、大陸に向けた歴史書です。そして――――百襲姫は安全保障のために大和など九州以東の地域を大陸勢力に秘匿しました。もし日本書紀が第二の東遷を書いてしまったら?
百襲姫は魏を欺いていたわけですから、その事実を堂々と書くわけがない。というよりも、その事実は一部の人間だけが知る国家機密であったはずです。
つまり――――たしかに大和王権は日向が源流ではあるが、はるか昔、神武の東遷によって分裂した勢力、女王国とは別勢力であるとしたわけですね。これならば百襲姫の策は永遠に表に出ることはありませんから。
まあ……その弊害として邪馬台国論争という不毛な争いの火種が生まれてしまったわけですが……国家の安寧に比べれば些細なことです。
さて、そんな複雑な事情もあって、神武の東遷の伝承は紀元前一世紀のものをベースに三世紀のものが上書きされ融合したものとなっています。これは本来二度あった東遷を一度だけであったということにしたために起こった必然です。
そして――――この現象は当然神武の東遷だけでなく、日向のあらゆる神話構造も同様の影響を与えています。
わかりやすく言えば、一度目の東遷に至る紀元前の出来事と、二度目の東遷に至る三世紀の出来事が同じ神話体系の中に同居しているということになります。
これまでの連載で私がやってきたのは、伝承が語る物語が紀元前のものなのか、それとも三世紀のものなのか、あるいは両方が融合したものなのかを見極める作業です。この二つの時間軸が併存しているという構造を理解していなければ、神話はただの物語で終わってしまいます。
日本書紀と古事記は、それぞれ異なる物差しでこれらの最古層の日本を記録に残しました。
何かの物差しを使うということは、その物差しで測れないものは零れ落ちるということを意味します。良い悪いの話ではなく、構造の問題です。
それでは、日本書紀や古事記が拾えなかったものは消えてしまうのでしょうか? たしかに大半は消えてしまいます。
ですが――――書かなかった=存在しなかったわけではありません。なぜ書いたのか、なぜあえてその言葉を残したのか、その選択には動機があって意味があります。その書かれなかった行間に残る違和感、かすかな揺れ、わずかな温度、それを消すことは出来ません。
月の神ツクヨミは伝承が残っていない神です。日差しが強ければ強いほど影は濃くなります。光が当たっていない部分は存在していないわけではないのです。
歴史は男系の物語です。史書における女性の存在感は限定的ですが、男を支え、国家を支え影で歴史を動かしてきたのは女性であるという側面を忘れてはなりません。
桃太郎、浦島太郎、かぐや姫など、国民的な物語はこの時期に原型があります。拾いきれず零れ落ちた真実の欠片が万華鏡のように輝いているからこそ、現代に生きる私たちの心を捉えて離さないのかもしれませんね。
さて、前置きが長くなってしまいました。
前回は日向から伊勢神宮までの東遷を構造としてお話しましたが、今回は実際に東遷を担った人々に焦点を当ててみたいと思います。
まずは巫女王台与(豊鍬入姫命)と兄で日向王の活目入彦五十狭茅天皇、後の垂仁天皇ですね。そして――――百襲姫の弟、吉備津彦も忘れてはいけません。
第二の東遷はこの三人が主導したと考えて良いでしょう。神話の時系列では、天孫降臨、日向三代、神武の東遷となりますが、ある程度第二の東遷に関わる神話が上書きされていると考えるべきです。
と、神話について話す前に、垂仁天皇が最後の日向王、つまり東遷の主体であったと考える根拠について、説明していなかった気がするので、ここで整理しておきますね。
垂仁天皇は別名「生目天皇」です。
宮崎の生目神社の由緒では、垂仁天皇の命日をこの地で祀ったことが「生目」の名の由来と伝えられています。
そして生目神社の祭神には「彦火火出見尊」「鵜茅葺不合尊」など日向系の神々、相殿には、彦火瓊々杵尊、彦火火出見尊、鵜茅葺不合尊、という日向三代の神々が祀られています。
つまり、生目神社は日向王統の霊統を祀る場であり、そこに垂仁天皇の名が重ねられている。これは、垂仁が「日向王」であったことを強く示唆しています。
そして、垂仁天皇の子である景行天皇は 日向国・高屋宮になんと六年間も滞在 しています。
表向きの理由は熊襲討伐ですが、天皇自ら六年間も大和を留守にする理由としては弱すぎます。
この間、景行天皇は、御刀媛を妃に迎えて、豊国別皇子が生まれています。そしてこの皇子が後に日向国造の祖となるのです。
当然、父・垂仁天皇の命日には日向で御霊祭を行っています。
他にもたくさん理由はありますが、ここまで状況証拠が揃っているのですから、垂仁天皇が日向王(祭祀王)であったということは理解してもらえたのではないでしょうか。
さて、本題に入りましょうか。
垂仁の名は 活目入彦五十狭茅尊です。そして極めて重要なのは――――
「狭」という字を神武天皇と垂仁天皇、そして吉備津彦の三人が持っているという事実です。
正確にはもう一人、垂仁天皇の皇后狭穂姫命を含めて全員が東遷の主要人物であるということ。
その視点で見てゆくと、日向神話において注目すべきものがあります。
ニニギ降臨神話における木花咲耶姫の火中出産です。
一夜にして身籠った妻、木花咲耶姫をニニギが疑い、潔白を証明するために木花朔夜姫は燃えさかる小屋の中で出産しました。
なぜなら、始祖イザナミ以来、火こそが正統性の証であったからです。
神武天皇の本名は、彦火火出見、まさに火の霊性を継承する王です。彼の名でもある「狭野」は宮崎県の地名であり、火山帯に近い“火の土地”として知られています。つまり神武天皇は、火の霊統と火の土地の霊を併せ持つ王として描かれているわけですね。
そして垂仁の名は 活目入彦五十狭茅尊。直接火という文字は入っていませんが、注目すべきは 「狭茅」=茅=燃えやすい草 です。
茅は古代祭祀で火を起こす、火を鎮める、火の神を祀る、ための素材として使われました。つまり、垂仁の名には火祭祀の要素が強く刻まれているのです。
そして――――垂仁天皇の妃には迦具夜比売がいます。
迦具=カグツチ(火の神・火之迦具土神)
夜=女性名詞語尾
つまり、迦具夜比売=火の神の女性化した姿であり、垂仁の系譜に“火の神話”を組み込むための存在として描かれている。
そして――――決定的なのが、悲劇の皇后狭穂姫命の存在です。
狭穂姫命は、兄の反乱に巻き込まれ、稲城に籠城し燃えさかる宮殿の中で子を産み、その子を垂仁に託して死にます。
まさに木花咲耶姫の火中出産神話そのものですよね。
最後に、日本書紀は明確に垂仁天皇の子までを「命」とし、景行以降を「皇子・皇女」とします。
これは王権が日向の霊統(祭祀王)から大和の制度王権(武王)へ転換したことを示すための区分けです。
『日本書紀』で 命 は、神、神格化された人物、霊統を象徴する存在に対してしか使われない称号です。
垂仁天皇の子までが「命」と呼ばれるのは、彼らが“日向の霊統(天孫系)”に属する存在として扱われていたことを意味します。
これは、垂仁が最後の日向王であったという私の仮説と一致します。
景行天皇の代から、子どもたちは皇子・皇女と呼ばれます。これは、王権が霊統中心から制度中心へ転換したことを示す編集上のサインです。
そして――――この転換点で称号が変わるという事実は、私が何度も繰り返し訴えているように、編纂者が本来の歴史構造を理解していた証拠です。
この命もそうですが「倭」「狭」といった意味を持った漢字の使い分けは明らかに後世の創作や改ざんでは説明できないからです。
そして――――この東遷という国家イベントに関しても、記紀は明確なサインを残してくれています。
次回は「五十=イソ」に秘められた謎を解読しますのでどうぞお楽しみに。




