第四十二話 伊勢神宮と男王の謎
前回、箸墓とはなんだったのかという考察をしました。
そうするとですね、ここである疑問が生じるんですよ。
もし箸墓が国家の物語、権威と祭祀の中核を成すほどの重要な建造物であったとしたなら――――
なぜ現代までその意義や意味が伝わっていないのか、ということです。実際、少し後に誕生した伊勢神宮は現代においても完璧に機能していますよね。
箸墓がなんだったのかということは極めて曖昧です。残っているのは本来の意味とはかけ離れているであろう箸墓という当て字による名前と、記憶の残滓から後世再構成された意味不明で不完全な伝承のみ。
国家が断絶しているならばわかります。しかし、断絶どころか箸墓以降、数百年に渡って大古墳時代が幕を開けるわけで、その理屈は通りません。
まるで――――箸墓は造営された直後に放棄されたような印象です。
一体なにがあったのでしょうか?
実は答えが記紀にはっきり書いてあります。
崇神天皇の時代――――
●疫病で人口が半減した
●国中が乱れた
箸墓が造営された=日向の祭祀が大和に移植されたタイミングでこの悲劇が起こったわけで、複数の神を同じ場所に祀ったせいで祟りがあったと解釈されたわけです。
その結果、天照大神と倭大国魂神を外に出し、大物主の怒りを鎮めるために三輪山祭祀が強化されることになった。
つまり――――天照大神を大和の地において大々的に祀ることが出来なくなってしまったのです。
とはいえ、箸墓は雄大で美しく視覚的な効果も絶大です。
天照大神を祀る祭祀の中核としての役割は失われましたが、大和王権の象徴ととしてのランドマークとして新たな利用価値が生まれたのです。
鏡とセットで前方後円墳は王権の視覚的な権威の象徴となり、全国へ広がっていくことになります。
なぜ前方後円墳という圧倒的な存在の意味も異議も曖昧なままであるかという答えがここにあります。本来の意味を失った抜け殻同然だからです。
逆に言えば、もしタイミングが少しずれて、箸墓が造営された後に疫病が治まったとしたら? 国家の形や歴史が変わっていた可能性があります。
箸墓は唯一無二の聖跡として国家の中心となり、全国に前方後円墳が乱立することにはならなかったかもしれませんね。
さて、一方で大和から出された天照大神=八咫の鏡は最終的に伊勢の地に鎮座することになります。現代まで続く伊勢神宮の始まりですね。
前回も少し触れましたが、伊勢神宮は春分・秋分の日に伊勢神宮から昇った太陽が、同緯度線上にある伊弉諾神宮を通り、九州のさらに西、対馬の海神わたつみ神社に至る太陽の道と夏至の日の出の光が鹿島神宮(茨城県)から富士山や伊勢神宮を経て高千穂峰へ至る「鹿島〜高千穂レイライン」が交差する場所にあります。つまり、偶然選ばれたのではなく必然だったわけですね。箸墓の失敗があってもなくても、伊勢神宮は大和王権にとって最重要拠点であったのは間違いないと考えます。
箸墓から分離された天照大神の霊性は、伊勢という究極の聖地を得ることで完成しました。
実は、伊勢には前方後円墳はおろか古墳がほぼありません。
これこそが箸墓から祭祀が分離された決定的な証拠です。つまり、前方後円墳の設計デザインは本来祭祀としての役割と機能が詰め込まれていたけれど、本来の意味で使われることなく、その形状のみが残った(再利用された)のです。だから意味が曖昧なまま単なる巨大な墳墓として各地に残っているのでしょう。
前方後円墳は「王権の可視化装置」です。王権の力を示す「政治的モニュメント」でもあります。それが存在しないということは――――
伊勢は王権の力が及ばない別格の聖地として存在し続けたということです。
ここで以前お話したことが繋がってきます。
伊勢神宮の構造は卑弥呼の神殿(宮殿)構造を模したものであるという視点です。
箸墓や天岩戸セットが日向神話の移植であるとするならば、伊勢神宮は卑弥呼の宮殿構造の移植です。
① 卑弥呼の「人前に姿を見せない」=本殿の秘匿性
神社の本殿は、一般人は入れない、神職ですら奥深くには入れない、御神体(八咫の鏡=天照大神)は秘匿されます。
② 「千人の侍女」=神職集団(巫女・斎王・斎宮)
神社では、巫女、斎王、斎宮、神職、祭祀補助者など、女性中心の祭祀集団 が神域を支えます。
特に伊勢神宮の斎王制度は、古代において未婚の皇女が務めるという百襲姫を踏襲したものです。
③ 弟吉備津彦の存在「唯一の男性が出入りを管理」=神主・宮司の役割
神社でも、神主(男性)が儀式の“媒介者”
巫女は神に仕える存在、男性神職が外界との橋渡し役という構造が続いています。
④台与(豊鍬入姫命)の存在
大和から天照大神のご神体(八咫の鏡)を持ち出して祀った初代斎宮は豊鍬入姫命です。そして伊勢神宮の外宮に祀られるのは、豊受大神、文字通り台与(豊鍬入姫命)の神格化された女神です。この構造は、百襲姫と彼女に仕え、後継者となった豊鍬入姫命と完全に一致します。
⑤天岩戸伝承の再現=式年遷宮
伊勢神宮には20年ごとに社殿を建て替える式年遷宮という“永遠の更新システムがあります。これは、隠れても何度でも蘇る太陽神天照大神の神話の再現です。
伊勢神宮は本来の意味を失ってしまった箸墓とは対照的に、祭祀の中心として二千年に渡りその姿をほとんど変えることなく現代まで続いています。
つまり――――伊勢神宮を見れば、三世紀当時の百襲姫の神殿(宮殿)がどのようなものであったのか、わかるということになりますよね。
映像では知っていますが、死ぬまでに一度行ってみたいなあ……伊勢神宮。
さて、伊勢神宮が日向の神殿を移植したものであるということはお話しましたが、聖域の東遷は当然簡単なものではありません。
日向から箸墓への東遷を担ったのは、百襲姫の後継者である台与(豊鍬入姫命)、そしてもう一人――――
(魏志倭人伝)更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立卑彌呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與
(現代語意訳)(卑弥呼が死んだ後)男の王を立てたが、国中が服従せず、互いに殺し合いが起こり、その時に千人あまりが死んだ。そこで再び、卑弥呼の一族の少女・台与(十三歳)を王に立てると、国中はようやく安定した。
張政ら(魏の使節)は、文書をもって台与に情勢を説明し、諭した。
百襲姫(卑弥呼)の影響力とカリスマ性を物語る有名な部分です。彼女は自身の死後起こり得る最悪の事態を想定してあらゆる準備をしていましたが、それでも彼女が偉大であればあるほど、その存在を失った衝撃は大きく、混乱は避けられないものでした。つまり――――誰が王になったとしても事態は回避できなかったわけです。
王として立つ=偉大な百襲姫と比べられて批判される
どう考えても最初から負け確定の損な役回りです。
では、一体誰が火中の栗を拾うようなこの役割を引き受けたのでしょうか?
卑弥呼の後に立ったとされる男王の謎ですが、ミステリーの鍵はいつだって動機にあります。このタイミングで王となる動機があった人物がいたでしょうか?
一人だけ存在します。
豊鍬入姫命の兄、活目入彦五十狭茅天皇、後の垂仁天皇です。彼は幼い妹のために負け確の王位を引き受けました。当時の彼もまだ十代だったと思われます。
誰もが想像した通り、この即位によって国内は盛大に荒れます。国中が服従せず、互いに殺し合いが起こり、その時に千人あまりが死んだのです。
結局、十三歳の台与(豊鍬入姫命)が立って治まるのですが――――
だったら、最初から豊鍬入姫命が王になれば良かったんじゃ? って思いますよね。
でもね、百襲姫という史上屈指の英雄の後継を務めるというのは誰であっても極めて困難です。もし――――豊鍬入姫命が立って治まらなかったら?
完全に詰みです。垂仁が一度立って、不満を全て受け止めたから、その後に豊鍬入姫命が受け入れられたのです。
その証拠に国内を混乱に陥れた男王が処刑されたり、交代したという記述はありませんよね? 古代日本の統治体制は、本来男女ペアなのです。男王だけでは治まらないのは当然のことでした。豊鍬入姫命が巫女王となった後も、垂仁はそのまま男王を続けたということになります。
そして――――これほど重要な事件なのに魏志倭人伝には男王の名前が一切書かれません。卑弥呼や台与、他の人々は実名で書かれているのも関わらず、です。
これが意味するところは一つしかありません。垂仁天皇が張政ら魏の使節団を受け入れていた当時の王であり、帰国する時点でもそのまま王であったからです。
国家の安寧のために、幼い妹のために失敗するとわかっていても怯まずに盾となったその姿を誰よりも近くで見て知っていたのは、当時政権中枢にいた張政ら魏の使節団です。事実だけ書けば、そんな垂仁天皇の名を穢してしまう。
だからこそ、あえて名前を書かなかった。
台与(豊鍬入姫命)のために矢面に立つ動機があり、魏の使節団が名誉を守るために名を伏せた、そんな人物が他にいるでしょうか?
最後に十三歳という部分に注目しましょう。
垂仁天皇が王として立ったのは、単に緩衝材となるためだけではなかったはずです。彼は時間を稼いでいたのではないでしょうか。
何の時間なのかといえば――――
妹が巫女王として身体的成熟(初潮)するのを待っていたのです。
日本だけでなく、世界の多くの古代社会で、初潮=女性が神霊を宿す器となる瞬間と理解されていました。
古代日本でも、巫女は神が降りる器、神霊は血と深く結びつく、初潮は「神霊を受ける身体の完成」を意味していた可能性が高いと私は思っています。
さて、ここまで日向から大和、伊勢への移植の構造を見てきましたが、次回は実際に移植(東遷)を担った人々について考察を深めようと思います。
いよいよクライマックスが近いです。次回もお楽しみに。




