第四話 帯方郡から対馬へ
本エッセイでは「魏志倭人伝」の解読を主題にしています。
なぜか? それは「魏志倭人伝」が邪馬壹国の名を唯一記した一次資料であり、邪馬台国への旅程(行程)を記しているものだからです。たとえば後漢書・晋書は卑弥呼や壹与の存在を補強していますが、邪馬壹国の国名は記されていませんし、梁書は魏志倭人伝を参照した二次資料です。隋書以降も倭国の記録はありますが、邪馬壹国の名は記されていません。魏略に関しては全文が失われていて、引用されているものは後年の恣意的な修正の跡がみられ参考程度に留まります。
少なくない方が「魏志倭人伝」の記述の否定から論理を展開していきますが、それは歴史に対する本来あるべき姿勢から逸脱する行為ではないでしょうか。
一次資料と真摯に真正面から向き合うこと、邪馬壹国の謎を解くにはそれしかないのです。
と、堅苦しいお話はここまでにして、さっそく本題に入って行きましょうか。
魏志倭人伝はこの一文から始まります。
(魏志倭人伝)倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
(意訳)倭人は帯方郡の東南の大海の中に住んでおり、山や島に依って国や邑をつくっている。 昔は百余りの国があり、漢の時代には朝貢した者もいる。 現在は交渉(交流)できる国は三十国である。
ここで気になるのは、百以上あった国が統合されて三十に減ったのか、単純に交流できる国が三十なのか、ですが、どっちでも良いです。先へ進みましょう。
(魏志倭人伝)從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
(意訳)帯方郡から倭に至るには、海岸に沿って船で進み、韓国(馬韓)を経て、ときに南へ、ときに東へと進み、その(倭の)北岸にある狗邪韓国に到着する。距離は七千余里である。
はい、帯方郡は魏の郡が置かれていた場所ですね、今の平壌・ソウルあたりです。そこから船で出発するわけですが、出港した場所は、現在の平壌付近の大同江河口(黄海に注ぐ地点)とされています。理由は古代から交通・交易の拠点であり、船の出入りに適した天然の港湾であること、そして帯方郡の郡治(役所などが置かれた中心地)であったことです。これに関しては、帯方郡太守の墓碑が現地で発掘されているのでほぼ間違いないでしょう。
ここでチェックしたいのが、乍南乍東という言葉です。魏志倭人伝全体で言えることなんですが、基本的に大まかな方向しか書かれていない、たとえば東とか南みたいな。
私、倭人伝が2000文字で飛び抜けて文字数多いって言いましたよね? 他の東夷諸国、200~400文字くらいで、一番多い高句麗伝ですら900文字、倭人伝多いといっても、それでもたった二千文字に収めているわけで、無駄なこと残す余裕なんて無いんです。つまり、記載されていることには意味や意図が必ずあるということ。
これは魏志倭人伝の解読には必須の考え方なので、なんとなくで良いので覚えておいてください。
それでこの乍南乍東をあえて入れた意図ですが、一つは半島東岸ではなく西岸沿いに南下したことを示すため、もう一つは、航海の難所を進む困難さを表現するためでしょう。
古代において、半島側から倭国へ航海する場合は冬が基本です。
冬季(11月~2月)にかけては北西の季節風が吹きます。冬の北西季節風は、朝鮮半島から日本列島へ向かう船にとっては追い風になります。対馬海流も安定して南東方向に流れて(黄海から対馬海峡を経て九州北部へ流れる)自然の力が“倭”への旅を後押ししてくれるのです。季節風と海流が同じ方向に働くため、航海効率が格段に高まるんですね。ちなみに日本から出港する場合は南東風が吹く夏の渡航となります。
問題は、冬季はその北西季節風が強く、特に黄海・西韓沿岸は荒れやすいんです。船は入り組んだ岬や湾を避けながら海岸沿いを進む必要があり、方向を頻繁に変えながら危険な航海をしなければならない。
乍南乍東という、たった四文字で季節、航路、船旅の臨場感などを表現してみせた陳寿の手腕が光っています。
さて、この狗邪韓国(現在の釜山周辺)も当時は倭の一部です。半島における出入国・情報収集の拠点の役割を果たしていました。帯方郡からの船がここまで回ってきたのは、この場所が対馬までの最短距離で肉眼ではっきり見えるからです。古代においては、島影を確認しながらの航海が基本ですので、ここから海を渡るのが安全安心なわけですね。
(魏志倭人伝)始度一海千餘里至對海(對馬)国 其大官日卑狗 副日卑奴母離
(意訳)最初の海を渡ること千余里で対海(対馬)国に至る。 その国の大官を「卑狗」といい、副官を「卑奴母離」という。
はい、ここまでは何の議論の余地はありません。気になるのは官の記載でしょうか。もちろんこれも意味と意図があります。「卑狗」はおそらく「彦」、「卑奴母離」は「ひなもり」→「日向守」かな?
この「官」と「副」という二重構造は倭の特徴的な構造となっていて、それを説明するためにわざわざ書いてあります。これに関しては後でまとめて説明しますね。
さて、無事対馬に到着したところで、やるべき作業があります。
里という単位の換算距離の算出です。里という単位は、時代や場所でかなり変わるんですね。だからまずは魏志倭人伝において、一里がどのくらいの距離なのか、すでにはっきりしている場所で確認する必要があります。
短里説:1里 ≒ 77m(漢代の度量衡)
長里説:1里 ≒ 435m(唐代以降の基準)
これを単純に当てはめただけで、帯方郡から狗邪韓国までの距離七千余里は、約540kmにも、約3,000kmにもなってしまい、仮に長里説を採用した場合、朝鮮半島を飛び越えてしまいます。
魏志倭人伝を旅程の物差しにする以上、里の距離を確定させるのは大前提です。そうでなければ解釈次第で何でもアリになってしまいますし、逆に言えばすべての記述が無意味なものになってしまいます。
幸い出発点(帯方郡)から狗邪韓国まで、そして狗邪韓国から対馬までの距離が記されているので、実際に検証してみましょう。
帯方郡から釜山までの距離は約500km、これを「短里」で換算すると、七千余里 ≒ 540km
釜山から対馬までの海峡は航路によって50km~100Km、これを「短里」で換算すると、千余里 ≒ 77km。
どちらも実際の地理上の距離とほぼ一致します。
これで1里 ≒ 77mという物差しが確定しましたね。
当たり前の話ですが、旅程の中で1里 の距離が都合によって変わる、などということはあり得ません。つまり、上陸後もこの物差し自体は変わらないということです。
それを踏まえて、次回は対馬からスタートしましょう。対馬は倭国本土への玄関口、ここから本格的に邪馬壹国への旅が始まりますよ。壱岐、末盧国へと続く航路を一緒に辿っていきましょう。




