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日本史上最大のミステリー魏志倭人伝の完全解読に挑む  作者: ひだまりのねこ


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第三十八話 国家百年の計


 本題に入る前に、考古学における「循環論法」の矛盾を突いておこうと思います。


 宮崎には代表的なものだけで数千基の古墳が存在します。開発などで消滅したもの、調査されず手つかずで放置されているものなどは含めていません。その密度は圧倒的としか言いようがありません。


 そして――――その多くは5世紀のものだとされています。


 その根拠は――――現在の「5世紀に馬が来た」という前提があるために、馬具が出土する遺跡を自動的に5世紀以降に編入し、その編年をもとに他の遺物を年代測定するという「前提が結論を縛る」論法にあります。


 そして以前も少し触れましたが、生目1号墳などのような最古級の前方後円墳が4世紀とされるのは、畿内の前方後円墳が最初でなければならないから、その後であるはずだ、という理由です。


 南九州で出土する、馬埴輪や高度な家形埴輪は5世紀のものとされます。これらも同じ理由です。ですが、西都原から出土する初期の埴輪には、畿内の「円筒埴輪」の進化系統とは異なる、独自で先行する技術が見られます。


 地下式横穴墓から出土する鉄製品(刀、鏃、馬具)は、その形態から「5世紀」と分類されがちですが、これも同じ構造です。畿内で似たようなものが5世紀に見られるから5世紀だろう、です。


 ようするに全然科学的じゃないんです。だから前提がひっくり返ると結論がひっくり返る。


 仮説は美しくなければならない、私の持論です。ストーリーが描けない、動機が説明できない、あらゆる事象が整合性をもって説明できないのなら、それは前提が間違っている。どんなにもっともらしい説だろうが、どんなお偉いさんが唱えようが関係ありません。


 定説通り「大和が中心で、5世紀に馬が広まった」とするなら、以下の事象が説明困難になります。


 なぜ南九州なのか? 5世紀、ヤマト王権の関心は東国開発に移っています。その時期に、わざわざ補給線も遠く、中央から離れた南九州に、地下式横穴墓のような特殊な墓制や、膨大な数の官牧(馬産地)を集中させる動機がありません。


 大和で完成した馬文化を地方へ広めるなら、まずは瀬戸内沿岸や東海・関東の平野部が優先されるはずです。南九州にこれほど濃密な馬文化が「突如」現れるのは、そこが「終着点」ではなく「始発点」だったからと考える方が自然です。


 「大規模な遺構が見つからない=王権がなかった」という定説のロジックも同じ構造です。


 「古墳の数」は「国力」の直接的な証拠です。


 考古学に頼るまでもなく、古墳の築造には膨大な労働力、食糧供給能力、そして高度な設計技術が必要です。宮崎にこれほど古墳が密集しているという事実は、その場所が3世紀の日本列島において最も人口密度が高く、かつ組織化された「文明の集積地」の一つであったことを物理的に証明しているのですよ。そのことを理解していない人が多すぎる。


 三世紀末から四世紀初頭には日向から大和へ東遷が行われています。


 もし宮崎の古墳群が5世紀のものなら――――王権が移動した後に出来たことになるんですけど……一体誰がどうやって何のために作ったんですか?


 いい加減、大和一極史観は終わりにすべきです。そのせいで日本の古代史は長らく闇の中、謎だらけになってしまった。何度でも言います、合理的に説明できない仮説は前提が間違っているかもしれないという視点を常に持つべきです。



 すいません、前置きが長くなってしまいました。


 さて、百襲姫は大陸の二つの大国、魏と高句麗の技術と文化を同時に取り入れることに成功しました。そして――――その利便性を知り、導入するチャンスを狙っていた馬までセットです。彼女の機を逃さない長期戦略は本当に見事としか言いようがありません。


 魏は先進国で技術・文化大国ではありますが、倭国とは環境条件が違い過ぎます。そこを高句麗の技術で補ったわけですね。


 日本は歴史的に都合の良いところだけを取り入れて和風に改良するのが得意です。百襲姫は、中央集権的な大和統一国家を作るために、必要な骨組みと技術を魏と高句麗を参考に模索していたのだと考えます。


 そして――――馬(前回は触れませんでしたが、牛も)は、百襲姫にとって絶対的に重要なピースでした。


 馬と牛の導入は、単なる「乗り物の登場」ではありません。それは、それまで「人間の筋力」と「海川の流れ」に依存していた社会が、数倍の「動力(馬力・牛力)」を手に入れた、日本史上初の産業革命だったといえます。 


 古代国家において牛馬は、軍事力だけでなく、情報伝達、物流、開拓、農耕補助、権威の象徴など多面的な役割を持ちます。


 1. 食糧の増産:牛馬による「深耕しんこう」と「開墾」


 馬・牛の導入は、コメの生産量を劇的に引き上げました。人の力では掘り起こせなかった硬い地層を、牛の力で深く耕すことが可能になります。これにより土中の栄養分が循環し、反収(単位面積あたりの収穫量)が飛躍的に向上しました。


 垂仁・崇神紀に登場する「池や溝の築造」には、土砂の運搬に馬が投入されました。これにより、それまで稲作が不可能だった乾いた台地や、逆に湿地帯だった場所が、次々と優良な耕作地(屯倉)へと変貌しました。食糧供給の限界値が上がったことで、乳幼児の生存率も改善しました。


 2. 居住エリアの拡大:内陸・高地への進出


 馬という機動力があれば、川沿いの低湿地に固まる必要がなくなります。背負い籠で運んでいた物資を、馬の背や牛車で運べるようになります。これにより、山間部の資源(木材・鉄鉱石)を大量に里へ下ろし、逆に食糧を山間部の居住区へ運ぶことが可能になりました。全国の拠点網が、点から線、そして面へと広がり、日本列島全体が「居住可能な空間」へと変貌します。


 3. 交易の拡大:富の集積と情報の高速化


 馬は「情報の運び手」です。全国各地の情報や大陸の情勢が、数日で中枢へ届くようになります。鉄器や絹、そして薬といった高付加価値の商品が、馬の背に乗って広域に流通しました。経済が活性化すれば、必然的にそれを支える労働力としての人口が必要とされ、増えていきます。


 4. 人口増加の考古学的証拠


 統計学的な推計においても、3世紀から4世紀にかけて日本列島の推定人口は急激な右肩上がりを示しています。4世紀に箸墓をはじめとする巨大前方後円墳が突如現れるのは、それを造るだけの「余剰人員」が数万人規模で存在した証拠です。各地で「巨大集落」の跡が見つかるのもこの時期です。



 百襲姫は、導入した技術や牛馬の管理・運用システムをまずは九州で熟成させ、日本独自の技術として変容させました。魏志倭人伝に九州以外の地域が出てこないのは、機密保持、安全保障の観点から魏や高句麗の人々を九州に留め置き、九州が倭国の全てなのだと思わせる必要があったからです。


 つまり南九州とは最先端技術の実験場であったわけですね。


 生目古墳群の周辺や宮崎・鹿児島県境には、定説では「説明がつかない」あるいは「変な形」として片付けられてきた実験的遺構がいくつか浮かび上がります。


 高句麗の本来の墓制は「積石塚(方形)」です。いきなり前方後円墳を造るのではなく、その前段階の技術確認が行われた形跡があります。西都原には前方後円墳が並ぶ中で、非常に古い形式の方墳(あるいは方形周溝墓の巨大化したもの)が混在しています。これは、高句麗の「方形」の設計思想を、日本の「土盛り」の技術で再現しようとした、最初の構造計算の実験だった可能性があります。


 前方後円墳の最大の特徴である「曲線(円部)」と「直線(方部)」の組み合わせ。これは土木的に非常に難易度が高いものです。生目古墳群の周辺には、墳丘に付随するような奇妙な突起やスロープ状の遺構が見られることがあります。これは「馬に重い土砂を背負わせ、一定の角度で登らせる」ための登坂ルートの実験ではないでしょうか。南九州の古いまきの近くには、円形の土手状遺構が残っていることがあります。これらは単なる馬囲いではなく、馬を一定の方向に走らせて地盤を均一に踏み固める「円形転圧実験場」だったと考えると、前方後円墳の「円」の精度がなぜあそこまで高いのか、という謎が解けます。


 南九州には「前方後円墳の原型」と言える構造物が存在します。


 ●生目古墳群(宮崎市)


 前方後円墳に“極めて近い”形状の墳丘が複数


 版築技術(高句麗・中国北方系の土木技術)が使用された形跡


 墳丘の構造が畿内より古い可能性があり、畿内より先に“前方後円墳的な構造”が出現しています。


 前方後円墳の原型とされるのが、円墳、方墳、そしてそれらの複合形態ですが、南九州にはこれが非常に多いんです。


 特に宮崎・鹿児島には、円形の主墳、方形の付属施設、祭祀用の突出部など、前方後円墳の“パーツ”が揃っている古墳が複数存在します。


 従来の定説ではこれらすべての存在が、謎、あるいは例外とされてしまいますが、これは謎でもなんでもなく、あるべきものが自然にあるだけの話です。


 三世紀に九州で実験が繰り返され、完成した土木技術の成果が前方後円墳です。同時に牛馬の育成管理、鉄器や農耕技術、鏡などの神器の国産化、それらの成果を携えて大和へ向かったのが崇神・垂仁期に行われた第二の神武東遷の正体ではないでしょうか。


 266年に張政らが帰国したことで大和を隠す必要もなくなりました。


 その台与の遣使を最後に、倭国は約150年大陸の表舞台から消える空白の四世紀に突入します。


 別に鎖国をしていたわけではなく、単純に大陸側が大混乱で交易する相手がいなかっただけなんですが、その時期、倭国は統一国家が完成し、国力が飛躍的に増大する「持続可能な成長期」に突入しました。


 これこそ百襲姫の描いた国家百年の計――――


 いえ、国家永遠の計なのではないでしょうか。

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