第三十五話 百襲姫はいつ死んだのか?
245年に臨時指揮官となった難升米が守り抜いた帯方郡に、247年、ようやく正式な太守が着任します。前回も登場した王頎ですね。普通に考えたら、王頎が着任するまでは難升米が帯方郡を指揮していたことになりますが。
(魏志倭人伝)其八年太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之
(現代語意訳)景初八年(247年)に、帯方郡の太守・王頎が着任した。
倭の女王・卑弥呼は、狗奴国の男王・卑弥弓呼と、もとから不仲であった。
そこで卑弥呼は、倭国の使者・載斯烏越らを帯方郡に派遣し、互いに攻撃し合っている状況を説明した。これを受けて、塞曹掾史の張政らを派遣し、詔書と黄幢(軍事権限の象徴)を持たせ、難升米に授けて、これをもって狗奴国側へ警告・説得させた。
魏志倭人伝の中でも有名な部分ですが、この記事ってものすごく違和感がある部分なんですよ。あえて言語化すれば“説明臭い”んです。
●理由付けが異様に丁寧
素不和(もとより不和)
「昔から仲が悪かった」とわざわざ強調している。
普通なら「争っている」で十分なのに、背景説明を入れてくるのは不自然。
●状況説明の語彙が抽象的すぎる
説相攻撃状
「攻撃し合っている状況を説明した」これ、外交文書としては異様に曖昧。
どこで? どれくらい? 何が原因? どんな被害? 一切書かない。
“説明したことにしている” ように見える。
●卑彌弓呼という名前が語呂合わせ的
卑弥呼
卑弥弓呼
語呂が似すぎていて、取ってつけたような印象を与える。
●魏の対応が過剰に丁寧
複数の高官(張政ら)を派遣
詔書を持たせる
黄幢(軍事権限)まで授ける
「地方の小競り合い」にしては対応が重すぎる。
この異様な説明臭さは、これが魏が倭国に介入するための大義名分用の口実として用意されたものだと考えればすっきりします。
つまり、本当の目的は他にあったということ。その目的については後述するとして、まずは表向きの狗奴国問題から見て行きましょう。
狗奴国が脅威ではなかった、とまでは言いません。ですが、三十を超える連合国家である倭国と狗奴国では規模も地力も違いすぎます。その気になれば魏に頼らず軍事力で潰すことも出来たでしょう。
ですが、百襲姫はそうしなかった。軍事力ではなく魏の権威を利用して政治的な解決を目指したわけです。
ちなみに「相攻撃」は現代日本語の「攻撃」「戦争」とはニュアンスが違います。内部対立、政治的緊張、外交的衝突、権威争い、勢力圏の摩擦といった 武力を伴わない対立を指すことが非常に多い、というかむしろ政治的対立の意味で使われることが多いです。
おそらくですが、狗奴国は呉の支援を背景に卑弥呼共立に賛成しなかった勢力、もっと言えば卑弥呼に近い王統の血族であったのではないでしょうか。同じ血族内の泥沼の争いを避けるために、外部の力(魏)を利用したのだと考えます。
さすがの狗奴国王も、魏の正規軍の証である黄幢を持った英雄難升米と張政ら魏の高官たちが直接乗り込んできたのでは勝負あったでしょう。この時点で倭国と狗奴国との問題は政治的に決着したと考えて良いと思います。武力衝突や戦争を匂わせることは一切書かれていませんので。
その証拠に、その後一度も狗奴国の名前は登場しませんし、もし狗奴国が敵対していれば卑弥呼が死んだ時、千載一遇のチャンスであったはずですが、その気配すらありません。混乱したのはあくまでも後継者に不満が出ただけであって、狗奴国が原因ではありませんでした。
そして――――この狗奴国問題を考えた時、従来の定説を覆す仮説を立てることが可能になるんですよね。
これまでの定説では、卑弥呼が亡くなったのは247年、もしくは248年とされていますが、その場合狗奴国問題が解決しないという矛盾が発生します。
狗奴国問題が解決したのは、あくまで魏が正式に卑弥呼を承認したからです。その卑弥呼が247年に亡くなったとしたら?
その正統性は彼女の死と共に失われてしまうのです。そうなれば狗奴国が黙ってはいないでしょう。対立と混乱に拍車がかかるはずですが――――247年以降狗奴国は一切登場しません。つまり卑弥呼はこの時点、つまり247~248年には生きていた可能性が高い。
その仮説を補強するのが、直径百余歩(約150メートル)の巨大墳墓の造営です。この巨大建造物を作るには膨大なリソースが必要となります。国内に不安があったり混乱している状況では不可能です。
卑弥呼の墓が、国内初の前方後円墳のプロトタイプである生目一号墳だとすれば、設計、試作、材料調達、人員確保など準備だけでも数年単位で必要なプロジェクトになります。完成までに十年程度は必要でしょう。
そして、巨大墳墓は世界共通生前から造営を始めます。計画したのも実行指揮したのも彼女でしょうから当然関わっていたと考えられるのです。
そして台与による266年の使節派遣は人数も献上品も異常に規模が大きいです。つまり彼女の女王就任報告を兼ねていた可能性が高い。だとしたら――――卑弥呼が亡くなったのは260年代の可能性すらありえるということになるわけです。
年齢的な面も、230年の即位時に30代であれば、260年の時点でもまだ60代ですから一般的な即位期間に十分収まります。
さらに言えば、魏の使節団を招聘した卑弥呼が260年代に亡くなり、墓の完成を見届け、後継者問題が台与で落ち着いたので266年に張政が任務完了の報告と、新女王即位の報せを持って帰国した、という非常に自然な流れで説明できるのです。
もっと決定的な根拠を提示しますね。
今、読んでいるのは魏志倭人伝の最後の部分、外交記事が時系列で書かれている部分です。
景初二年六月(238年)から始まり、
正始元年(240年)
正始四年(243年)
正始六年(245年)
正始八年(247年)
と各記事にはきちんと年号が記載されているんです。
でも、今読んでいる247年の記事以降の記事には一切年号が入っていません。特に最後の台与の使節派遣(張政帰国)の年代は大陸側にもはっきり記録されているにも関わらず、です。
では、なぜ陳寿はこれらの記事に年号を書かなかったのか?
答えは簡単です。
一連の出来事がすべて265~266年に起きたこと、つまり――――すでに魏が無くなっていたからです。
魏志倭人伝は魏書なので、晋の年号は使えません。でも書かなければ魏志倭人伝としての物語は完成しない。だから陳寿は年号を書かずに出来事だけを書いたのです。
つまり、卑弥呼が死んだのも、墓が出来たのも、男王が立って千人死んだのも、台与が十三歳で女王になったのも魏が滅んだ265年以降の出来事であると考えられるのです。
(魏志倭人伝)卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
(現代語意訳)卑弥呼が亡くなった。そこで大きな墓を造り、その直径は百余歩(約150メートル)にも及んだ。殉葬として、奴隷の男女あわせて百人以上が生きたまま埋められた。
最後に悪名高い生き埋め説ですが、それを証明する考古学的な例は一つも存在していません。つまり徇葬者が百人以上いると聞いた魏の人間が、大陸の徇葬と同じ(奴婢の生き埋め)だと思い込んだだけであると私は考えています。
さて、247年に死んでいなかった百襲姫。
彼女の真の目的は一体何だったのか? 次回はそのお話です。お楽しみに!!




