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日本史上最大のミステリー魏志倭人伝の完全解読に挑む  作者: ひだまりのねこ


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第三十三話 英雄 難升米

 

 魏志倭人伝において、とんでもなく重要な部分があります。


 (魏志倭人伝)其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授


 (現代意訳)(景初)六年(245年)、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮に授けた。


 上記の一文なのですが、私の知る限りこの部分の重要性に気付いている人はまずいません。この後の247年の記事で難升米に黄幢が授けられているため、その前段階として読み流されてしまっているのです。


 なぜこの記事が独立しているのか、そして黄幢の意味するところを理解すれば――――古代史がひっくり返るほどの状況が見えてきます。


 とはいえ、この文章だけでは意味がわからないと思うので、当時の帯方郡が置かれていた状況を一緒に確認していきましょう。



 さて、公孫氏が滅び帯方郡を含む東方地域が平和になったかというと、実際は緊迫した状況が続いていました。


 242年、高句麗が西安平(帯方郡の北側)を攻撃します。


 高句麗は、公孫淵討伐戦では魏に協力しましたが、それは見返りを期待してのことでした。公孫氏が居なくなった遼東の実権を代わりに自分たちが、と考えていましたが、思惑は外れ結果として遼東は魏の直轄地となったのです。


 高句麗からすれば、協力したのに旨味が無いどころか、むしろマイナスです。一方の魏からすれば、公孫淵が殺した呉の使者の生き残りを密かに保護して送り届け、呉から王位まで授かった高句麗を信用していませんでした。高句麗からすれば本気で呉と同盟を結ぶつもりというよりは、呉の影をちらつかせてより利益を得ようとするカードであったと思いますが、司馬懿はそういうやり方を非常に嫌います。むしろ逆効果であったでしょう。


 242年の西安平攻撃は、完全に魏を激怒させました。西安平が陥落すれば補給路が断たれ、魏の東方戦略は完全に機能不全になります。北方と東方を安定させ、蜀の攻略に注力したい司馬懿にとって高句麗は最優先で滅ぼすべき障害となったのです。


 ここで前回紹介した243年の倭国大夫団派遣が非常に重要な意味を持ってきます。これは単に権威付けのためにぞろぞろと官職と印綬を貰いに来たわけではありません。魏と倭国の同盟関係を強化する一環で、高句麗遠征を見据えてのことであったはずです。つまり少なくない倭国軍が帯方郡、もしくはその近くに駐屯していた可能性が非常に高いということです。派遣された八人は、外交使節であると同時に倭国連合の軍事司令官たちであったと考えるべきでしょう。


 244年~245年、魏は毋丘倹が大軍を率いて高句麗へ攻め込んだ一方で、244年の「興勢の役」で魏は蜀に敗れます。曹爽は司馬懿の反対を押し切り十万の大軍を率いて蜀へ侵攻しましたが、王平らの防衛に阻まれ、撤退を余儀なくされたのです。この結果、西方戦線は疲弊し曹爽の影響力は失墜、司馬懿の描いた計画は十年単位で狂ってしまいました。


 245年、主力軍が高句麗遠征で不在の中、魏の支配に反発した韓・濊などの勢力による大規模な反乱が同時多発的に発生します。これは、公孫氏から魏へと再編されたことによって不利益を受けた周辺豪族などに不満が高まっていたところに、公孫氏の残党や高句麗による扇動が重なった結果だと思われますが、帯方郡太守弓遵は、この反乱を鎮圧しに向かい戦死するという最悪の事態に陥ります。


 当時魏の主力は遠く高句麗遠征に出ており、中央は興勢の役大敗で援軍を送る余力はありません。仮に援軍を送ったところで間に合わなかったことでしょう。トップを失い帯方郡はまさに陥落の危機となります。


 そして、もし帯方郡を含む一帯が陥落すれば、高句麗遠征軍もまた退路を断たれ補給路を失い、全滅する可能性すらありました。


 その絶体絶命のピンチに登場したのが――――難升米だったのです。


 

 (魏志倭人伝)其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授


 (現代意訳)(景初)六年(245年)、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮に授けた。



 まず最初に知っておいて欲しいのは、黄幢が他国の人間に与えられたのは魏志倭人伝における難升米の例以外に無いということです。


 なぜか?


 それは、黄幢(皇帝直属軍の軍旗)が、


 ●皇帝の軍を動かす権限


 ●軍事指揮権の象徴


 ●軍事行動の正統性を保証する旗


 であるからです。現代であれば、たとえば米軍が同盟国の日本の国旗を掲げる、あるいはその逆というのもあり得ますが、大陸の上下関係ありきの冊方体制には対等な同盟という概念がそもそもありません。


 ですが、実際に難升米に黄幢が授けられています。これは一体どういうことでしょうか。ポイントは、付郡假授です。つまり皇帝の認可という行程をすっ飛ばして現場(帯方郡)の判断で軍事指揮権を授けたということ。つまりそうしなければならないほどの緊急事態であったということです。 


 もっとわかりやすく言いますね?


 魏はこの危機的な状況において倭国の難升米に軍事指揮権を託したのです。つまり、一時的に帯方郡は難升米の指揮下に入ったということになります。もっとシンプルに言うなら――――難升米は帯方郡の臨時司令官に任命されたのです。

 

 主力ははるか東方にあり、中央からの援軍は期待できない絶体絶命の状況、難升米が率いる魏・倭国連合は、結果として帯方郡を守り抜きました。さらに言えば、反乱を治めたのも彼でしょう。


 難升米は魏と反乱勢力の両方の事情をよく知る人間です。元々倭国は帯方郡と百年以上の付き合いですから魏よりもはるかに事情に明るく、反乱を起こした韓・濊などの勢力とも交易を通じて良い関係を保っていました。


 反乱勢力は魏に対して反発したのであって、倭国に不満があるわけではありません。難升米は反乱軍のリーダー、首長たちに伝えたはずです。


 ――――魏に逆らえばどうなるかを。


 魏に敵対した公孫淵は殺され、公孫氏が治めていた遼東の十五歳以上の男子は皆殺しにされました。魏に攻撃をした高句麗は、王都、王宮を徹底的に破壊され、主要都市では四桁を超える人々が斬首されました。王こそ身一つで辛うじて逃げのびましたが、それでも数千キロ地の果てまで追いかける執拗さです。反乱を起こした人々に待っている結末は間違いなく悲惨です。


 そして難升米は高句麗軍が魏軍によって追い込まれているという情報を知っていました。公孫氏や高句麗にそそのかされた人々に助けは来ないと伝え、今なら交渉の余地がある、不満は責任をもって魏に伝え、交渉すると約束したのではないでしょうか。


 結果、反乱は終息し、帯方郡は危機を脱しました。


 その証拠に、新しい帯方郡太守が着任したのは247年、つまり二年後です。高句麗遠征の戦後処理もあったとは思いますが、それでも急ぐ必要がなかったのは、難升米によって帯方郡およびその周辺が完全に安定を取り戻していたからに他なりません。


 そして――――新しい太守に着任したのは、高句麗王を徹底的に追い詰めた王頎です。彼は魏の将軍、毌丘倹の右腕にして懐刀、後の蜀攻略の際にも活躍する冷徹な仕事人です。


 そんな彼は控えめに言っても甘い男ではありません。むしろ司馬懿と同じタイプの人間です。そんな彼が、


 ――――反乱側に温情を示した。


 反乱側の首長たちに「邑君」や「長」といった魏の印綬を与え、形式的に魏の家臣としての立場を認めました。これは極めて異例の対応です。


 魏のやり方はシンプルです。反乱を起こした人間は全員殺し、住民は殺すか強制移住させて根こそぎにします。ましてや反乱軍は帯方郡太守を殺しています。通常なら公孫氏や高句麗と同じ目に遭っていたことでしょう。


 でもそうならなかった。なぜか?


 それは王頎が着任した時点で帯方郡は完全に安定し機能していたから。もちろん事前に倭国との交渉もあったでしょう。


 つまり、王頎は難升米が創り上げた秩序を追認したと考えるのです。何よりも実利を重んじる魏にとって、せっかく安定しているものを壊すメリットはないですし、倭国との関係維持は最優先事項だったからです。


 繰り返しますが245年の黄幢と247年の黄幢はあくまで別件です。黄幢は印綬ではありません、軍事作戦の任務ごとに授けられる軍事指揮権です。その性格上基本的に外国人に授けられることはありませんが、難升米は少なくとも二回授けられています。この事実は、彼がいかに魏から信頼され、頼りにされていたのかという証そのものです。


 

 もし難升米が帯方郡に居なかったら?


 東アジアの歴史と地図は大きく変わっていたことでしょう。難升米が救ったのは、帯方郡だけではありません。東アジアの安定と秩序そのものだったのです。


 具体的なエピソードはなく魏志倭人伝にその名が残るだけですが、古代史の闇に沈んだ彼の輪郭を照らし出せば――――浮かび上がるのは紛れもない英雄としての雄々しい姿です。


 現代的な視点で難升米を単なる外交官と考えると本質を見誤ります。中国もそうですが、古代の外交官は軍事指揮官も兼ねることが多くありました。彼もまた、軍事外交を兼ねた優秀な指揮官であったのです。


 そうなると気になる難升米の正体ですが、私は百襲姫の甥っ子彦太忍信命ではないかと考えています。武内宿禰、葛城襲津彦へ繋がる超エリート家系の祖なのに系譜のみでほぼ記紀に登場しない、ほとんど国外で活動していたのですから逆に条件に合致するわけです。


 そして子孫である葛城襲津彦は、神功皇后の右腕として、外交と軍事遠征の将軍として、あるいは外国との調停までこなしており、完全に難升米と同じ役割を担っています。古代において職能は血族が引き継ぎますので、子孫を見れば祖先がわかるのです。おし難升なしの音の近さや活躍年代の合致も比定を補強していますしね。


 さて、次回はいよいよ大詰めの247年です。


 外交記事に初めて狗奴国が登場、再び難升米に黄幢が授けられ、張政らが派遣されます。どうぞお楽しみに。

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