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日本史上最大のミステリー魏志倭人伝の完全解読に挑む  作者: ひだまりのねこ


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第三十一話 魏倭共同戦線


 さて、前回からの続きです。


 たとえ卑弥呼の血統が尊いものであったとしても、それだけでは魏の対応は説明できません。もちろん尊い血統を守るというのは強い動機になり得ますが、倭国自体にそこまでしなければならない戦略的な価値があったと考えるべきでしょう。今回は、なぜ魏が倭国を重要なパートナー(身内に近い同盟国)として遇したのかという視点で歴史を紐解いてみようと思います。


 それでは卑弥呼が魏に使節を送ることになる少し前、230年頃からスタートです。



 気候変動による列島の危機をなんとか乗り越えた倭国連合ですが、英雄の持って生まれた天運のなせる業なのか、なんと気候変動が凪の時期に入ります。


 これによって百襲姫は天候すら操るのだと、その神格化は凄まじいものとなったことでしょう。共に危機を乗り越えた諸国連合の絆や一体感も一気に醸成されたことと思います。


 しかし、一難去ってまた一難、とうとう恐れていた事態が勃発します。


 230年、呉の皇帝・孫権は将軍の衛温えいおん諸葛直しょかつちょくに命じ、1万人の兵力を投じて「夷州いしゅう」と「亶州せんしゅう」へ大船団を出兵しました。


 夷州は台湾とされています。澶州は「徐福がたどり着いた地」とされ、日本のことだとされています。


「百襲姫さま、呉が我が国へ向け出兵しました」

「ふむ、兵力は?」

「およそ一万とのことです」

「くくっ、一万とは随分と舐められたものね」


 倭国は、南は交州(現在のベトナム北部・広東省周辺)から黄海沿岸に至る広範囲で交易を行っていました。博多湾岸、糸島にはアジア中からモノが集まり、交易の拠点、玄関口として栄えました。海路に張り巡らされた商人たちのネットワークを通じて派兵の情報は準備段階から百襲姫に届いていたでしょう。


「どうする百姉?」

「吉備津彦、日向に司令部を置くわ、各海人族の責任者と水軍を集めて」

「わかった、任せておけ」


 大陸の強国(呉)が直接海から攻めてくることは、気候変動とは別の「国家消滅」の危機でした。そのため、黒潮の玄関口であり、アタ・アワ系海人族の本拠地である日向(宮崎)に親政を敷き、海上防衛の総指揮を執ったと考えるのが極めて合理的です。かつてない危機的な状況、南西諸島の拠点は一旦九州に避難し、呉軍が補給出来ないようにしたでしょう。


「百襲姫さま、敵は一万の精兵です、本当に勝てるのでしょうか?」

「ふふ、海を知り尽くした海人の長とは思えぬ弱気な発言ね。相手は慣れない海域を長距離遠征してきているのよ、こちらの庭でなら互角以上に戦えるわよ、それに――――そもそも正面から戦う必要なんてないから」 

「それは……どういう?」



「将軍、前方に倭国軍です」

「よし、大陸最強海軍の力を見せてやれ!!」


 呉軍は最新鋭の大型船に最新の装備を揃えた精兵でしたが、機動力に優れた倭国軍に翻弄されます。追えば危険な海域に誘い込まれ座礁し、完璧に海流を読んで操船する相手に大苦戦を強いられます。海戦において地の利というのは陸戦とは比べ物にならないほど大きいのです。大陸では海の強者である呉軍ですが、本物の海の民である倭国の、しかもホームでの戦いでは本領は発揮できなかったでしょう。


「くそっ、ちょこまかと逃げ回りおって……どこか上陸出来そうな場所はないのか?」


 南九州は難所が多く、大型船が上陸できる場所は限られています。無理に上陸しようとすれば――――


「撃て!!」

「ま、待ち伏せだ、た、退却しろ!!」


 呉軍の動きは丸裸同然、追っても逃げても罠や待ち伏せされて次第に疲弊していきます。


「呉軍が撤退しますが……本当に追撃しなくて良いのですか?」

「ええ、上陸さえ阻止出来れば十分よ。ふふふ」


 百襲姫は「台風の来る時期」を正確に把握していた可能性があります。占いや予言ではなく、星の運行や雲の動き、あるいは生物の予兆から、台風の来襲時期を高い精度で予測する科学的な知識と経験に裏付けされたものであったでしょう。


 敵を無理に力でねじ伏せるのではなく、最も嵐が激しくなる時期に日向の複雑な海岸線へ誘い込み、自然の猛威(台風)に任せて壊滅させる。これこそが、人々から「神がかり(鬼道)」と恐れられた彼女の真の天才たる本領発揮であったかもしれません。


 呉の公式記録(『三国志』呉書)において、将軍の衛温と諸葛直、遠征軍の指揮官二人は帰還後に即座に処刑されています。


 表向きは一万の兵の9割近くを風土病で失い、日本へは遠くて辿り着けなかったということになっていますが、一年かけて辿り着けなかったとは考えにくく、孫権は皇帝としての威信を守るために「目的地に辿り着けず、疫病で自滅した」という物語に書き換え、真実を知る指揮官を口封じのために処刑した……という推測は、当時の独裁的な政治背景から見て十分にあり得ます。


 後世、元寇の際に同じ方法で神風を利用しましたが、その戦略の原型は、百襲姫にあったのかもしれませんね。呉軍が自然の猛威に敗れ去る姿を見た列島の人々は、「百襲姫は自然さえも操る」と確信し、そのカリスマ性は不動のものとなったことでしょう。


 

 首尾よく呉軍を撃退することに成功した倭国連合ですが、このことが王権の大和移行の決定的な駄目押しになったのではないでしょうか。九州は地政学的に北は半島から、南は大陸南方から直接攻め込まれてしまうのです。より安全な奥座敷である大和へ中枢を移すというのは、国家の生存戦略からみてごく自然なことであったと思います。



「はっはっはっ、我らの大勝利ですな!!」

「百襲姫さまがいる限り大船に乗っているようなものだ」


「今回は相手が私たちを舐めていたからよ、次も同じ手が通用すると思わないほう方がいいわ。まあ……そんなことはさせないけどね」

「なにか策がおありですか?」

「ええ、我が国に手を出したことを後悔させてあげるわよ、彦太忍信命を呼んで」

「ははっ」




「百姉、お呼びですか?」


 呼び出されたのは甥っ子の彦太忍信命。海のネットワークを駆使し、外交と諜報を司るエリートです。


「彦太忍信命、帰国したばかりで申し訳ないんだけど一仕事頼めるかしら?」

「もちろんです、今度はどのような?」

「ふふ、耳を貸しなさい――――」




 228年、叔父の公孫恭を脅迫して公孫淵が遼東太守となりました。元々後漢の地方長官に過ぎなかった公孫氏でしたが、後漢の滅亡と三国時代という乱世の混乱に乗じて徐々に独立色を強め、楽浪郡の南半分を帯方郡として朝鮮半島諸国・倭国や高句麗、鮮卑などとの交易拠点を支配し財を蓄えていました。


 勝手に世襲を繰り返し、魏という大国の威を背景に好き放題の公孫氏でしたが、当時の魏には余裕がなく、苦々しく思いながらも追認するしかありませんでした。


 その公孫淵に目を付けたのが呉の孫権です。遼東は魏の背後を守る要衝ですが、逆に言えば急所でもあります。もし呉と公孫淵が連携して挟み撃ちとなれば、魏は存亡の危機に陥ることになるわけです。

 

 孫権と公孫淵は、魏の目が届かない海上交易を繰り返し接近していきます。233年、呉の皇帝孫権は公孫淵を燕王に封じ、宝物と1万人の兵と使者を満載した大船団を遼東に派遣します。


 もはや蜜月関係ともいえる両者、魏にとっては大ピンチなのでしたが――――


「いやあ、情報提供感謝しますぞ彦太忍信命殿」

「ハハハ、田豫殿、我々にとっても利のあることゆえ気になさるな」


 魏の田豫は、精鋭を率いて海上で待ち伏せ(伏兵)を行っていました。これによって呉の船団に損害が出て、一部が捕縛されています。当時の魏にこれを察知する能力も首尾よく海上封鎖する能力もあったとは考えにくく、倭国からの情報提供および海上封鎖作戦において重要な役割を果たしたと考えます。


「な、なんだとっ!? 呉の船団が魏の田豫に?」

「は、はい……このままでは中央から追及されるのは必至かと……」

「くそ、これはマズいな……呉の連中、絶対にバレないって豪語していたのに役立たず共め……」


 魏の追求を恐れた公孫淵は、しっかり宝物はいただいた上で使節団の張弥・許晏・賀達らを殺害し、彼らの首を洛陽へ送り届けます。


 あらためて忠誠を示した公孫淵に対し、魏は大司馬・楽浪公の位を授けました。


「ふふふ、大国の魏、呉といえども結局我の掌で踊る駒にすぎん」


 公孫淵は気付いていませんでした。倭国からの情報提供によって魏の皇帝曹叡、そして実質的なトップである司馬懿は、完全に公孫淵が裏切り者であると確信していることに。大司馬・楽浪公の位を授けたのは、公孫淵を油断させ、準備する時間を稼ぐためでありました。


 237年、魏帝の曹叡は、疑わしい行動を繰り返す公孫淵を洛陽に連れてくるよう毌丘倹に命じます。のこのこ洛陽に出向けばどうなるかわかったものではありません。公孫淵はこれを拒否、反逆とみて攻め寄せた毌丘倹を撃退しました。


「ハハハ、魏など恐れるに足らず!!」

 

 地の利を生かした公孫淵は、ここに燕王を称し独立を宣言します。


 毌丘倹ほどの名将が敗れたのは、乾いた中原の平原での戦いに慣れた魏軍を、遼河周辺の湿地帯が足止めし、大雨によって補給が断たれてしまったからです。さらに遼河という天然の外堀に加え、本拠地の襄平じょうへいは、公孫氏が三代にわたって対魏用に築いた高い城壁と豊富な備蓄を持つ難攻不落の要塞でした。


 完全に本性を現した公孫淵が呉と本格的に同盟を組み、同時に挟撃して来れば魏にとって最悪の状況であり、まさに存亡の危機です。


 事態を深刻に受け止めた魏は、翌年238年、最強の武将司馬懿が、毌丘倹を副将に四万の精兵を率いて公孫淵討伐のため出兵します。もしこの戦いが泥沼化し、時間をかければ間違いなく呉が一斉に北上してきます。絶対に負けられないだけでなく、時間との勝負でもあったのです。


 そして――――この国命を左右する世紀の一戦で重要な役割を果たしたのが倭国であったと考えます。その役割を考察してみましょう。


 1. 呉の「横槍」を完全シャットアウト(海上封鎖)


 これが最大の貢献パートです。公孫淵は、司馬懿に包囲された際、必死に海路で呉へ救援を求めました。朝鮮半島沿岸を支配する倭国の船団が、東シナ海で「動く壁」となりました。呉の救援船が遼東に近づけないよう見張り、あるいは威圧する。司馬懿が「100日かけてじっくり包囲する」と断言できたのは、「背後の海から呉が来ることは100%ない」という確約を、倭国の海上ネットワーク(難升米ら)から得ていたからだと考えられます。


 2. 海路を使った「逆ルート」の兵站ロジスティクス


 遼東への陸路は、前回の毌丘倹の失敗にある通り、雨が降れば泥沼と化す最悪の道です。倭国の海人族が、帯方郡やその周辺の港へ、海路を使って魏軍のための食糧や物資をピストン輸送した可能性があります。司馬懿の軍が長雨の中でも包囲を解かず、餓死者も出さずに耐え抜けたのは、「海からの補給ライン」が生きていたからではないでしょうか。

 

 3. 公孫淵の「逃走経路」の事前封鎖インテリジェンス


 公孫淵は最後、城を捨てて海へ逃げようとしましたが、司馬懿はそれを完璧に予測して捉えました。遼東の海岸線のどこに船を隠せるか、どこが脱出ルートになるか。こうした「地元の海路情報」を司馬懿に提供したのは、長年公孫氏に苦しめられ、その内情・地理に詳しい倭国だったと考えます。


 4. 倭国による「情報攪乱」


 倭国のネットワークが「呉の時間を奪う」という決定的な役割を果たしたと考えられます。呉が「いつ攻めるか」を迷っている間に、倭国の船団が東シナ海で「魏の軍勢はすでに勝利した」「海上が大荒れだ」といった偽情報デマを流し、呉の出兵を数ヶ月単位で遅らせていた可能性もあります。実際、陸遜たちが反対し続けたわけで、その背景には、こうした情報攪乱による影響があったのかもしれません。



 司馬懿は呉の準備が整い、風向きが北上に向く前にすべてを終わらせる必要がありました。だからこその「100日包囲」という超短期決戦を実行、成功させなければならなかったのです。魏の陸軍という最強の「矛」は、背後から守り、支え続けた倭国の海軍・ネットワークという「鉄壁の盾」によってその威力を存分に発揮できたのではないでしょうか。


 司馬懿が公孫淵の首を斬り勝利を確定させたのが238年8月、難升米ら倭国の使節が帯方郡にやってきたのが238年6月です。つまりまだ戦っているけれども大勢が決した神がかりなタイミングです。これは偶然ではもちろんなく、倭国と魏が現場で連携していたからこそ可能だったその証であると考えます。


 1. 「まだ戦っている最中」であることの重要性


 司馬懿が公孫淵と死闘を繰り広げ、長雨に苦しんでいた238年6月から8月という時期に、倭国の使者が現れることには、戦後の「挨拶」とは比較にならない価値があります。公孫淵がまだ生き、呉の援軍を待ちわびている最中に、倭国が魏の拠点(帯方郡)に現れる。これは「我々は魏と運命を共にする」という究極の軍事同盟の宣言です。遼東の目と鼻の先で倭国の使者が魏と握手しているという情報は、城内の公孫淵を絶望させ、逆に司馬懿の将兵の士気を爆発させたはずです。

 

 2. 劉夏(太守)の異例の迅速さ


 238年6月に現れた難升米らを、帯方太守・劉夏がすぐさま洛陽へ送り出したのは、彼が「公孫氏滅亡後の新秩序を、勝利の瞬間に間に合わせる」というミッションを司馬懿から受けていたからでしょう。勝利(8月)の報告が洛陽に届くのとほぼ同時に、倭国の使者が「勝利のお祝い」を持って現れる。この演出されたスピード感こそが、司馬懿が皇帝に見せたかった「完全勝利」の形でしょう。


 この歴史の水面下で行われた共同戦線の功績こそが、異例中の異例という魏の対応の正体であったのだと考えるのです。


 余談ですが、司馬懿は降伏を申し出た公孫淵に対し楚と鄭の故事を引用して一蹴しています。この場面であえて楚の故事を引用したことに、私は司馬懿の倭国に対する敬意と信頼を感じるのですが、皆さまはどう思いますか?


 さて、次回も倭国と魏の連携を中心に魏志倭人伝の考察を深めたいと思います。どうぞお楽しみに!!

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