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日本史上最大のミステリー魏志倭人伝の完全解読に挑む  作者: ひだまりのねこ


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第三話 魏志倭人伝


 なかなか出発できず申し訳ないです。もう少しだけお付き合いくださいね。


 さて前話で登場した『委奴国』は、一世紀の国です。卑弥呼が治める女王国は三世紀の国、ざっと二百年弱後の時代となりますが、中国とは変わらず良い関係を保っていたと思われます。


 ですが、その間に大陸では王朝交代しています。


  後漢が滅亡(220年) し、曹操の子・曹丕が帝位を簒奪し、後漢から魏へと王朝が交替しました。形式的には「禅譲」という形で、後漢の献帝が曹丕に帝位を譲ったため、魏は「後漢の正統な継承者」と自称しましたが、ご存じの通り、実際は蜀と呉の三国時代に突入します。


 紀元237年(景初元年)七月、公孫淵は呉の孫権に呼応し て魏に反旗を翻して独立を宣言します。遼東の襄平城で燕王を自称し、年号を紹漢と定め、本格的に支配体制を確立。近隣部族に印璽を与えるなどしています。日本と中国の窓口でもある帯方郡もそのまま燕に属すことになってしまいました。結構ピンチな状況です。


 しかし紀元238年(景初2年 )正月、魏の司馬懿が四万の軍勢を率いて出撃、その九月になんとか公孫淵を討ち滅ぼすことに成功。


 そして――――この最中に卑弥呼は魏に朝献を願い出たんですね。帯方郡の太守・劉夏にとっては心強く、ありがたい申し出だったことでしょう。魏としても不安定な東夷に倭のような信頼のおける味方がいるというのは大変安心できる材料となります。



 (魏志倭人伝)景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻

  太守劉夏遣吏将送詣京都 其年十二月 詔書報倭女王曰


 (意訳)景初二年(238年)の六月、倭の女王は大夫の難升米らを帯方郡に派遣し、天子(魏の皇帝)に朝献したいと願い出た。 帯方郡の太守・劉夏は役人を付けて彼らを都(洛陽)へ送り届けた。 その年の十二月、皇帝は詔書をもって倭の女王に返答した。


 当然喜んだであろう帯方郡の太守・劉夏は、わざわざ役人を付けて使者を都まで送り届けました。このタイミングは偶然ではなく、情勢を見極めた上での狙ったタイミングと思われます。卑弥呼の外交手腕が光っていますよね。


 そして当然魏の皇帝もおおいに喜びます。「後漢の正統な継承者」というのはあくまでも自称であり、国内ですら認められていないのです。その魏に朝献を願い出るということは、倭国は魏を「後漢の正統な継承者」と認めるという宣言なのですから。



 (魏志倭人伝)制詔 親魏倭王卑彌呼 帶方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米 次使都市牛利

  奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到

  汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝

  今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人 勉為孝順(魏志倭人伝)


 (意訳)詔を下す。親魏倭王・卑弥呼よ。帯方郡太守の劉夏が使者を派遣し、そなたの大夫・難升米と副使・都市牛利を都へ送り届けた。そなたが献上した生口(奴隷)男子四人、女子六人、班布二匹二丈は確かに受け取った。

 そなたの国は遥か遠方にあるのに、わざわざ使者を遣わして貢献するとは、まことに忠義と孝心の表れである。私は深く哀れみ(=感心し、労わり)を覚える。

 よって今、そなたを『親魏倭王』とし、金印と紫綬を授ける。これを帯方郡太守に託して封じ、そなたに渡す。そなたは人民をよく安んじ、撫育し、孝順を励むよう努めよ。



 魏の朝廷では紫が最高位の色とされ、綬はリボンです。「金印」は、王号に相当する最高位の冊封を意味し、紫綬はその権威を象徴するものです。


 もちろん魏皇帝は嬉しかったとは思いますが、倭国はこれまで説明した通り、漢代から金印を与えられている大切な国です。卑弥呼がわざわざこのタイミングで使節を送ったのは、決してご機嫌取りだけが目的ではなく、後漢から魏へと王朝が交代したことで、これまでの関係がそのまま有効なのか? その確認と印綬の更新が目的と考えられます。後漢の正統な継承者とはいえ、国名が変わっていますからね。そして、その目的は卑弥呼の狙い通り、最高の形で承認、更新されることになりました。この関係は魏が滅びるまで基本的に有効です。


 親魏〇王というのは、他の王よりも格が上です。倭国以外だと「親魏大月氏王」の例しかありません。大月氏王というのは、クシャーナ朝のヴァースデーヴァのことです。


 (魏志倭人伝)汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞

  今 以難升米為率善中郎将 牛利為率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還

  今 以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 倩絳五十匹 紺青五十匹 荅汝所獻貢直

  又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口

  銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利

  還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也


 (意訳)そなたが遣わした使者、難升米と牛利は、遠路をはるばる来て大いに労を尽くした。 よって難升米を率善中郎将に、牛利を率善校尉に任じ、銀印青綬を仮授する。彼らを引見し、労をねぎらって賜物を与え、帰国させる。


 そなたが献上した貢物に応えるため、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、倩絳五十匹、紺青五十匹を与える。 さらに特別に、紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠と丹砂(硫化水銀)をそれぞれ五十斤ずつ賜る。


 これらはすべて難升米と牛利に封じて渡す。帰国したら受け取りを記録し、国内の人々に示すがよい。国家がそなたを労わり、特別に良き品を賜ったことを知らせるためである。


 使者に官位まで与え、最上級の品を贈っています。


 ここで押さえておいて欲しいのは、倭国と中国(魏)の関係は良好であったということです。


(魏志倭人伝)正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王

  并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 荅謝詔恩


(意訳)正始元年(240年)、帯方郡太守の弓遵は、建中校尉の梯儁らを派遣し、詔書と印綬を奉じて倭国に赴かせ、倭王を拝し認めた。 あわせて詔書を伝え、金や絹、錦や毛織物、刀や鏡、染織品などを賜った。 倭王はこれに応じて使者を送り、詔恩に感謝する上表文を奉った。


 ちゃんと約束の品を用意して届けさせています。建中校尉というのは、外交使節の護衛を担当する特殊将校ですので、難升米・牛利はこの時に一緒に帰国したのではないかと思います。


 そして、ここからがめちゃめちゃ大事なポイントです。ここを押さえておかないと女王国がとんでもないところへ行ってしまうので、しっかり確認しましょう。


(魏志倭人伝)其八年太守王頎到官

  倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状

  遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之


(意訳)景初八年(247年)、帯方郡太守の王頎が着任した。 倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と以前から不和であった。 そこで倭国は載斯・烏越らを郡に派遣し、互いに攻撃し合っている状況を訴えた。 王頎は塞曹掾史の張政らを遣わし、詔書と黄幢(皇帝の軍旗)を持たせ、難升米を仮に任命して檄文を告げ知らせ、両国を諭した。


 簡単に言えば、狗奴国の男王卑弥弓呼と喧嘩しているから仲裁して!! ってことです。


 そこで張政らが派遣されたわけですが、倭国は属国というわけではありませんから、魏の役人が直接前に出るわけにはいきません。だから難升米に詔書と黄幢(皇帝の軍旗)を持たせて臨時に魏の権威を託したわけですね。張政は外交と軍事のエキスパートですので、護衛や助言、さらには情報収集の任務を受けていたと思われます。


 つまり――――魏志倭人伝の記述というのは、この時の外交記録がメインなんです。


 張政らは何をしに倭国へ来たのか?


 答え  狗奴国との喧嘩の仲裁のため


 今はそれだけ覚えておいてくださいね。




 さて、散々引用しておいて今更なんですが、ここで少し整理しておきましょう。まず魏志倭人伝は独立した書物ではありません。中国の正史『三国志』の中の一章、魏書東夷伝の一節なのです。


『三国志』は西晋の時代、3世紀末に陳寿(233–297)によって編纂されました。陳寿は蜀の出身で、後に晋に仕えた歴史家です。彼は魏・蜀・呉の三国の歴史をまとめ、全65巻に整理しました。その中で魏書の「東夷伝」に、倭人についての記録が残されています。


 つまり魏志倭人伝は、魏(晋)の朝廷が保有する膨大な史書、外交報告や使節の記録などをもとに、陳寿が整理したもの。勘違いされがちですが、過去の一次資料を元に情報を取捨し、まとめて整理するのが編纂であり、彼が物語を書いたわけではありません。それをやったら歴史小説になってしまいます。


 よって、様々な資料の組み合わせとなる性質上、表記が異なるなど信用できないとする研究者もいますが、逆です。勝手に統一したり、ここはこうだったに違いない、もし陳寿がそう考えて実行していたら、それは一見矛盾のない内容になるかもしれませんが、歴史の真実は永遠に失われてしまいます。


 日本書記や古事記にも同じことが言えますが、一見矛盾しているように思えたり、間違っていると思っても、そのまま記録することが誠実な姿勢だということです。


 陳寿の三国志が正史として高く評価されているのはそういった一貫した誠実な姿勢からです。もちろん編纂者の個性は出ますけれども。


 ちなみに皆さまがイメージする三国志は『三国志演義』で、明の時代(14世紀末〜15世紀初頭)に成立した歴史小説です。作者は羅貫中。もちろんベースになっているのは、陳寿の三国志ですが、まったくの別物です。


 そして――――私たちにとって幸いなことに、魏志倭人伝は当時の最新情報を元に書かれているということです。陳寿はまさにリアルタイムの同時代、歴史上最高レベルの編纂者によって、奇跡的にリアルタイムの最新情報を元に書かれたのが魏志倭人伝なのです。つまり、どんな資料よりも信頼のおける一次資料というわけですね。


 魏志倭人伝の文字数は、おおよそ1,984〜1,985字です。これは異例ともいえる長文、いかに当時の魏が倭国に関心を持っていたか、当時の使節派遣が大きな意味を持っていたのかわかります。


 前話でも触れましたけど、こうであって欲しい、こうであるべきだ、という姿勢で臨めばミスリードの罠にかかります。出発点を誤れば、迷子になってしまいます。魏志倭人伝は後世の人々を惑わせようとしたわけでも、謎解きのために書かれたわけでもないんですけどね。


 なんでこうなった!? 今の状況を見たらきっと陳寿さんも困惑することでしょう。

 

 これまでの長い前置きは出発点を誤らないようにするために必要なことでした。


 次回こそ、女王国へ出発しましょうね。

 

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― 新着の感想 ―
まだ付いていけてる……はず(笑。 続き楽しみにしてますね〜。
矛盾があるから信用できない、ではなく、矛盾がある⇒つまり作為がない⇒だから信用できる、という指摘は目から鱗でした。 ところで、本筋とは関係ないのですが……。 クシャーナ朝ってインド? あれ、でも「月…
「真珠鈆丹各五十斤」は辰砂と鉛丹11キロずつ、という解釈が今は主流ぽいです。 真珠、あまり粉末にしないので重さで計らないから…ということと。 逆に「魏が特産品の真珠を貰ったよ〜」という記述があるからの…
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