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日本史上最大のミステリー魏志倭人伝の完全解読に挑む  作者: ひだまりのねこ


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第二十五話 楚と徐福伝説 


 さて、今回は日本における楚という国の影を少しだけ深掘りしてみたいと思います。本題に入る前に、もしかしたらこの時代に遠い大陸からやって来られるものなのか疑問に思ってらっしゃる方もいるかもしれませんね。


 結論から言えば、交易ルートを知っている国であれば条件次第で渡航は可能です。


 九州は7300年前の鬼界カルデラ大噴火で一度壊滅していますが、その以前から大陸との交易や移住は行われていました。噴火によって一度は中断した交易も再開し、南西諸島を介した貝の交易 (シェルロード)も、約7,000年前から始まり、弥生、古墳時代に全盛期を迎えています。


 北海道の最北部、礼文島の船泊遺跡(四、五千年前)からは、沖縄近海でしか獲れないイモガイで作られたペンダントが出土しているように、黒潮を利用した交易ははるか古代から行われていて、単純に知っているかどうか、来る気があるかどうかの問題でしかないわけです。


 そして、越や呉といった南方の国は交易を通じてそのことを知っていましたから、国が滅亡した時、迷わず東の海に出ることが出来たわけですね。


 彼らは楚よりも百年ほど先行して日本に移住した可能性があります。南西諸島には越や大陸からの影響がみられますので、黒潮に乗って南九州へ上陸したことでしょう。魏志倭人伝の中で生き生きと描かれる人々の風俗が呉・越人そのものであることからも推察出来ます。


 では、楚はどうでしょうか? 彼らの技術力ならば独力でも可能だと思いますが、興味深い史実があります。皆さまもご存知の徐福伝説です。


 中国の正史である史記から意訳してまとめますね。


 紀元前219年、始皇帝が山東半島の琅邪ろうやに巡幸した際、斉の国出身の方士であった徐福が始皇帝にまみえ、次のように申し出ました。

「遥か東方の海中に蓬莱・方丈・瀛洲えいしゅうという三神山があり、そこには仙人が住んでいます。願わくば、斎戒(心身を清めること)した童男童女と共に、これを探しに行かせてください」


 権力の絶頂にあり、死を極端に恐れていた始皇帝はこの申し出を非常に喜び、多額の資金と船団を与えて送り出しました。


 斉は秦に最後に滅ぼされた国です。楚と同盟を結び、最後まで秦を苦しめた当時の最先端国家でした。方士とは、薬草、天文、占術、錬金術など操る専門知識集団です。今で言えば、医師と化学者を足したような存在で、徐福はその中でも群を抜いて優秀な人間でした。


 斉の沿岸部は古くから海洋交易が盛んで、徐福は高度な航海術も持つ天才です。だからこそ国が滅びた時に殺されず取り立てられましたし、始皇帝も信じたわけですね。


 一度目の航海では、巨大な鮫や海獣が邪魔をして三神山に近づけないと報告、強力な弓や新たな物資や資金を始皇帝からさらに引き出します。


 もう説明する必要はないと思いますが、これは完全に亡命、移住するための策です。


 一度目の航海で事前に航路や日本側の受け入れ状況などを確認したと思われます。


 そして紀元前210年、二度目の出航では童男童女三千人、あらゆる技術者、五穀を携え二度と戻ることはありませんでした。


 寿福のこの船団に元同盟国の人々が含まれていたとしてもおかしくありませんし、むしろこれは長い準備をかけた一世一代の大作戦です、様々な人々や勢力の協力なしには不可能だったと思われます。


 奇しくも始皇帝はこの210年に亡くなりました。徐福に一杯食わされたこの事件、秦の圧政に苦しむ人々にとって、さぞや痛快だったことでしょうね。


 徐福伝説は日本全国、南は九州から東北まで全域に広がっていますが、上陸最有力地点は宮崎県串間です。串間といえば、以前にも触れましたが、王の山の玉壁が出土した場所であり、後漢から金印を受けた日向国があった場所です。


 完璧の語源となった和氏の璧は、楚のものです。秦王が十五の城と交換しようと持ち掛けるほどの逸品、楚は他を圧倒する玉壁の盟主であったのです。


 串間で見つかった玉壁は紀元前二世紀頃の漢代初期に作られたものではないかと推定されていますが、単にその頃作られていたものと似ているからという理由です。そもそも、漢を作った劉邦は楚人ですし、漢は楚の文化を保護し中央の文化へと昇華させました。玉壁に関しても、楚の職人集団にそのまま作らせたものです。つまり、串間の玉壁は楚において作られたものである可能性は十分にあります。そして――――出土した玉壁は王クラスでなければ持てない特大サイズでした。徐福と共にやってきた楚の王族が持っていたものと考えるのが一番スッキリしませんか?


 さて、到着した一行が乗っていたのは秦の始皇帝がその絶大な権力にものを言わせて建造した最新の大型船です。単なる輸送船ではなく、仙人が住む理想郷へ向かうための神聖な船としてデザインされていたはずです。


 船体には、仙人が住むとされる「蓬莱山ほうらいさん」や、想像上の霊獣、雲気文(うんきもん、天上の気を表す)といった、道教的なモチーフが描かれ、始皇帝の権威を示しつつ仙人に敬意を表すため、船には色鮮やかな五色の旗が掲げられ、豪華な織物や金属装飾が施されていた可能性が高いです。楚の文化で重視された鳳凰や龍といった神秘的な鳥獣の意匠が、船首や船尾に象徴的に配置されていたかもしれません。


 こうした豪華絢爛な船が数百隻規模で突然現れたのです。当時の人々の興奮と衝撃は私たちの想像を絶する程だったのではないでしょうか。


 当然噂はあっという間に日本中に広がり、各地で熱望・歓迎されたことでしょう。その興奮の記憶は神話や伝承となり異常な濃度で各地に残り、祇園祭や船祭りなどの源流となったと考えられます。


 移民団は上陸した日向の地に定着し、農業生産のために平野を求めて宮崎平野へと中心を移したと考えます。


 一方の徐福は、日本各地を巡り視察をしていたと考えます。


 主な理由は、いつかやってくるであろう敵対的な勢力に対する備えです。自分たちがやって来ている以上、またやってきてもおかしくありません。当時の日本は小さな国がバラバラに存在している状態です。平和ですが大規模な外敵に対して備えるならば、富国強兵が必要になります。そのためには食料生産能力を上げ、金属加工技術や生産能力をさらに向上させなければなりませんし、何よりも国内での意志の統一、危機感の共有が必要でした。


 そのために徐福は各地を巡って各地の有力者たちと会い、技術を伝え強大な王を中心とした連合国家の必要性を説いたものと思われます。


 紀元前200年頃に建国した日向国は、その後紀元前70年ごろに神武東遷によって東の拠点大和に進出し、西暦57年には後漢の光武帝から金印を受けるまでになります。


 そして、その日向王の初代こそが徐福の連れてきた楚の王族であったのだと考えるのです。


 ようやく本題に入れそうですね。


 さて、楚と日本の共通点、数え切れないくらいあるのですが、皇統に関連ある部分に絞っていくつか挙げると――――


 ●男系継承(万世一系) 楚は古代から連なる大陸における最後の王統でした。伝説の神代まで遡れる血の連なりは彼らの誇りであり、アイデンティティそのものでした。


 ●鼎ではなく、剣、玉、鏡を神器とする文化(三種の神器)


 ●太陽に住む三本足の烏(太陽の化身八咫烏)


 ●楚の国史「梼杌」の「王の所在」「祭祀」「婚姻」「死」淡々と記すスタイルが、日本書紀における初期天皇の記述と共通している。ちなみに「梼杌」は神話に登場する四凶の怪物でその荒ぶる霊力を封じている王族のみが継承を許された秘儀であったとされます。 


 ●シャーマニズムと神秘主義 魏志倭人伝の中で描かれる卑弥呼の姿そのものです。


 ●楚の巫女舞(アメノウズメ舞や神楽)


 ●赤と白の美学(巫女の衣装など)


 ●漆器(赤と黒)


 ●男女の歌の掛け合い(九歌)スタイル(万葉集、歌垣)


 ●依り代としての植物 楚は杜若など 日本は榊を祭祀に用います。 

 

 ●「真床追衾まとこおふすま」と楚の寝室儀礼

 大嘗祭の核心とされる、新天皇が神と共寝をするとされる「真床追衾」の儀式。 楚の王権はシャーマニズムと一体であり、王が精霊(神)を自身の体に迎え入れることで統治能力を得ると信じられていました。この「神との合体」という発想は、中原の儒教的儀礼にはない、楚を中心とした南方系の神秘主義そのものです。


 キリが無いのでこの辺でやめておきますが、特に王統や皇統に関する部分で文化的な影響を強く感じられます。職能に応じた氏姓制度なども楚と同じ構造です。


 考古学的な観点で言えば、この時代、楚のあった長江流域原産の青銅器が多く発掘されていますし、遺伝的・言語学的な最新の知見では、長江流域から東シナ海を横断して九州に至る「南方ルート」が再評価されています。


 

 古代日本に突然現れた天孫と万世一系の皇統の背景に徐福や楚の王族がいたと考えると、いくつものミッシングリンクが埋まるんですよね。


 楚の王統は大陸最後の輝きでした。彼らはそれを守るためならばどんなことでもしたでしょう。大陸の歴史は過酷です、父から息子にしか受け継がれないY染色体、大陸では何度もそれが断絶しています。これの意味するところは文字通り……男は殺されるか子を成すことを許されなかったという冷徹な事実です。


 日本は文明が最後に行きつく最果て――――そして最後の砦でした。


 もし日本人が好戦的な民族であったら――――彼らの旅はそこで終わっていたでしょう。でも――――数万年以上争うことなく平和に暮らしてきた縄文文化は彼らを温かく迎え入れました。


 楚の王族たちの想いを受け止め、排除するのではなく皆で支え守る道を選びました。徐福や亡命者たちは心から感謝し、ともにこの国を守るのだと誓ったでしょう。


 日本の王権とは、神代から続く男系の血という一滴のインクを、縄文の母系と温かな海が薄めながらも、決して消さずに大切に守り続けてきた器なのです。


 なぜ神道が、女性の神(天照大神)」が最高神として君臨し、その子孫である「男系」が代々受け継ぐという不思議な構造をしているのかの答えがこれです。


 日本最初の王権は、縄文という横糸に男系という縦糸を通し、長江文明の技術によって紡ぎあげた奇跡のようなものであったと私は思うのです。



 さて、次回はちょっと小休止、古代史の解像度が上がる「私的三種の神器」についてお話したいと思います。お楽しみに! 

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― 新着の感想 ―
このあたり、すごく解説もわかりやすいし、興味深い内容なんです。めっちゃおもしろいです! 中学校の時にこのページを読んでいたら、もっと日本史に興味を持っていたかもしれません……。 学校の歴史の授業だと、…
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