第二話 漢委奴国王
さあ、いよいよ出発!! と言いたいところですが、その前に当時の状況を整理しておくことがとても大切です。幸いなことに当時の状況はきちんと中国側に残っているのでまずはそこから見て行きましょう。
中国の史書に倭(日本)が正式に登場するのは一世紀です。
後漢書「東夷伝」に、
「建武中元二年(紀元五七年)倭奴国が貢物を献じ、朝賀してきた。使者は自分のことを大夫と称していた。倭の最南端である。光武帝は印綬を賜った」
倭国は古の倭奴国である。 「旧唐書」巻199下・列伝第149「日本国」条
とあるように、この倭奴国こそが倭国の原点ということになります。まあ、少なくとも存在を証明できるという意味ですが。
さて、皆さま倭奴国と聞いて、あれ? なんか聞き覚えある!! となりませんか?
そうです、この時の印綬こそが、志賀島(福岡県)で発見された「漢委奴国王」の金印というわけです。だからこそこの金印の発見はものすごいインパクトがあったわけですね。
ここで気付いた人もいるかもしれませんが、『委奴国』と『倭奴国』少しだけ漢字が違いますよね?
委と倭は古代中国においては同じ音だったとされますが、金印が発見されている以上、この場合は委が正しいとなります。では、なぜ後漢書「東夷伝」に「倭」と倭を使用しているかという疑問が出てきますが、後漢書「東夷伝」には紀元前1世紀から紀元2世紀頃の状況が書かれていますが、編纂されたのは、5世紀の中国(宋)の范曄によるものです。当時は「倭」という文字がすでに公式的に使われていたので、委は古い表記、范曄が当時の標準文字である倭の文字を使ったのは十分理解できます。
さて、この『委奴国』、志賀島で発見されたこと、魏志倭人伝に「奴国(志賀島はまさにこの国にあたる)」が丁度福岡にあることもあり、福岡県にあったとされることが多いです。
漢委奴国王教科書では一般的にこう読ませますが、印綬で日本人が考えるような倭、奴の国王という表記は例が無く、福岡の「奴国」であってほしい、いや、そうであるべきだ、という先入観と思い込みによる誤読です。
ちなみにこの金印が江戸時代に偽造された偽物であるという説が根強くありましたが、これも同じ構図で、そんなはずない、本物のはずがない、後漢書「東夷伝」の記事は後年に編纂されたものだから間違っているという人がたくさんいたんです。ですが、これも近年ほぼ100%本物であると確認されました。本エッセイの趣旨と離れるので詳しくは省きますけれど。
そもそもの話ですが、よく見てください。
『倭の最南端である。』
ってはっきり書いてあります。この時点で福岡はあり得ません。
つまり『委奴国』は日向国、今でいう鹿児島・宮崎にまたがる地域にあったわけです。そのまま発音すると「いなこく」となります。
ちなみに日向国ってなんて読むと思います?
「ひゅうが」じゃないです。「ひゅうが」「ひむか」という読み方は、卑弥呼の時代よりも後の景行天皇が名付けたもの。本来は「ひな」つまり「ひなこく」ですね。私の祖母が言っていたヒナのお姫さまは、たぶんこの日向のことだと思います。
そして、古代日本語では、語頭の h音(ハ行子音) は弱く、消失しやすい傾向がありました。
例:「火」→「い」/「人」→「いと」などの転訛。
「ひな」が「いな」と音写されてもおかしくないわけですね。
ついでに言ってしまうと、「日向の巫女(御子)」→「ひなのみこ」→「ひみこ」→「卑弥呼」
ひなのみこ、だと若干言いずらいですし、実際、日本語の古代音韻では「な+の」が「み」に転じる例があるので、「ひなのみこ」→「ひみこ」はそこまで無理な発想ではないと考えます。
音だけじゃなく他の証拠もあります。宮崎県最南端にある串間市「王之山」で発見された玉璧は、漢王朝の工房で紀元前2世紀に製作されたとされ、日本で発見された唯一の玉璧・国宝級となっています。これは王侯クラスに賜与されるレベルの品で、石棺に入っていたことから、埋葬されていたのは、日向国の王、つまり倭王と考えるのが自然です。後漢書「東夷伝」に書いてある通り、この場所に王国があったのは間違いないと考えられるのです。
あ、ちなみに完璧の語源になったのがこの「璧」ですよ。
ここまで証拠が揃っているので、異論はないと思いますが、九州を知らない人からすると、なんでこんな場所に王国が? って不思議に感じると思います。
実はこの場所、中国南部から黒潮に乗ると自然にこの辺りに到着する可能性が高いんです。
九州には大陸で滅亡した国から逃げてきた人々が住み着いて国を成したお話が山ほどあります。
九州は縄文期のカルデラ噴火で一度壊滅しているので、空白地帯が多かったため、渡来人たちが定着する余地があったのだと思います。
ただし、九州において日本語に影響を与えていないので、その人数は限定的で、王族などの一部に留まったものと思われます。
ところで使者は自分のことを大夫と言っていたと書いてありますが、「大夫」というのは周王朝において使われていた官位です。
最後まで倭国に抵抗し続けた熊襲は呉太伯の子孫と自称していたとされます。
「倭人は自ら太伯の後と言う」 「翰苑」巻30に収録された魏略逸文(魚豢撰、魏末〜晋初)
呉太伯は弟に周を継がせて自らは南方へ下り、呉の国を興した人物です。その後呉が滅亡した最後の王、夫差の子「忌」が、日本へ逃れてきたということですね。紀元前473年頃と伝わっています。
ともあれ、遠い日本の地からあえて中国へ使者を送るという発想はこれら大陸からの移住者の知識だと考えるのが自然です。一般庶民にはそんな知識は無いでしょうから、王族もしくはそれに近い高官レベルが居たことはほぼ間違いないと思います。
……あ、なるべくシンプルに説明しているつもりなんですが……付いてきてますか?
もう少しだけ我慢してください。ここをしっかり押さえておかないと魏志倭人伝をミスリードすることになりますから。
最後に、金印というのは、中国の冊封体制の中では最上位にあたるものです。大国や重要な属国にしか与えられないものです。もしこの時の使節が初めてだったとした場合、遠い東の果ての良く知らない国にいきなり金印を与えるでしょうか? まずあり得ません。
この疑問の答えはある程度推測できます。『漢書』地理志には以下のような記事があります。
「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国をなし、時々来たりて献見す」
『漢書』は前漢の歴史をまとめた正史で、班固によって1世紀初頭に完成したものです。そして楽浪郡設置(紀元前108年)の時期を考えると、少なくとも紀元前1世紀にはすでにやってきていたわけで、この時いきなり来たわけではなさそうです。長年の実績あっての金印だと思いますが、それだけでは弱い。長く付き合えば金印もらえるなら、他の国は皆金印になってしまいます。
これはどういうことか?
考えられる可能性は、『委奴国』は元々中国において金印を受けた国の正当な後継国だと認められていたということです。例えば逃げた王族が証拠の印綬などを持っていたと考えれば辻褄が合います。
普通は逃亡する際に真っ先に王族が持ち出す品なので、自称ではなく本物なら当然持っていたでしょう。
つまり『委奴国』は、紀元57年の時点で、中国との長い交流の歴史を持っており、金印を授かるほどの大国の正当な後継国であったと考えるのです。
それでは、一体どの国の後継国だったでしょうか? 条件に当てはまりそうなのは、春秋時代の呉と越のどちらか。呉越同舟で有名な両国ですね。その両方の伝承が九州には残っています。呉の後継は熊襲なので、越が有力でしょうか。実は答えは魏志倭人伝に書いてあります。
夏后少康之子封於会稽断髪文身以避蛟龍之害 今倭水人好沈没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽(魏志倭人伝)
(意訳)夏王朝の少康の子が会稽に封じられたとき、蛟竜の害を避けるために髪を切り、身体に文身(入れ墨)を施した。 今の倭の水人(海に生きる人々)も、好んで水に潜り魚や貝を捕り、身体に入れ墨をして大魚や水鳥を退けようとしている。
夏王朝の少康の子、というのは越の始祖にあたります。魏志倭人伝を編纂した陳寿は、魏の前身である漢の資料も確認していたはずですから、その上であえてこの一文を使ったということは、彼が倭国は越の正統な後継国だと認識していた可能性が窺えます。
ちなみに呉を滅ぼした越の勾践は、あの「臥薪嘗胆」の故事で有名な人です。その越は、紀元前306年頃に楚に滅ぼされています。越の王族はこの時に黒潮に乗って倭国まで辿り着いたのでしょうね。
呉と越は人種も文化も同じ兄弟国だったといいます。激しく戦って、結局どちらも滅んだ後は日本に向かったわけで、最後まで仲良しだなあと思ってしまいますが、倭に来てからも仲が悪いのは変わらなかったのはさすがの因縁だと笑ってしまいます。
さらに蛇足ですが、紀元前210年ごろには秦の始皇帝の命を受けた徐福が数千人規模の大船団を率いて佐賀県(有明海沿岸)に上陸したという伝承が各地に残っています。吉野ケ里遺跡は彼の作った国だと考える研究者もいます。史記には「平原廣澤を得て王となり帰らず」とあります。そう考えると古代の九州はなんだか国際色豊かで楽しいですよね。
ここまで私の中では何の矛盾もなく、すっきり理解しているのですが……大丈夫ですか? わからないところあります?
次回、ようやく女王国へ出発――――出来るのか、は微妙ですが、魏志倭人伝に触れたいと思います。




