第十九話 百襲姫 大和凱旋
時は流れ、大和は英雄吉備津彦と天才百襲姫によって極めて安定した時代となっていました。
そして中央の畿内を治めるのは、彼らの異母兄弟の根子です。彼は伯耆国を取り込むために婚姻したと思われる父孝霊天皇と細媛命の間に出来た皇子ですね。その辺りの事情は前回少しだけお話したと思います。
鉄の流通ネットワークを背景にした強力な政治基盤を持つ根子、そして圧倒的な武力で吉備に君臨し、中央を支える吉備津彦、四国と吉備、瀬戸内海の海上ネットワークを掌握する百襲姫、この三者のバランスは絶妙でした。適材適所に子どもたちを配置する父孝霊天皇の思惑は実際この時点においては理想的といえるものでした。政治的な地盤、武力、智慧、安定的な国家運営に必要な要素をこの三者が体現していたからです。
この時期の百襲姫についての足跡ははっきりしませんが、掌握した海運ネットワークを利用して国内外の情報をいち早く掴み、その卓越した先見性と天才的な頭脳で誰も想像がつかないほど数手先の未来すら見通していたでしょう。
そして、彼らの父孝霊天皇が崩御し、後継者となったのは根子でした。個人の実力を考えれば吉備津彦が適任だと思われますが、おそらく婚姻時の条件に生まれた皇子を次の倭国王 (日向王)にするというものがあったのでしょう。
すでに大和圏内のネットワークを掌握している細媛命の一族にとって、欲しいのは更なる販路です。根子が日向王となれば、今までまったく歯が立たなかった九州という牙城に食い込むことが出来る。そして、大和にとっても発展途上である大事な時期に吉備津彦という優秀な人材を持って行かれるのは困る、ということもあり、すんなり決まったものと思われます。
こうして根子は、孝元天皇として日向で即位することになったわけですが、大和で生まれ育ち、一族の思惑を背景に日向の地に乗り込んだ孝元天皇にとって、そこは異国と言えるほどに困難な場所だったはずです。
たしかに孝元天皇は孝霊天皇の皇子で血統的には問題ありません。しかし、一族のネットワーク基盤がある大和の地とは違って、九州の倭国内に彼の基盤は存在しません。しかも、彼の持つ大和の鉄ネットワークは、九州の鉄ネットワークにとってはライバルであり敵です。特に伽耶諸国産の鉄を基盤とする対馬、壱岐、北九州一帯の国々、豪族からの反発は相当なものだったと思われます。
大和における彼の強みは、こと九州においては最大の足枷となってしまったのです。なまじ百襲姫や吉備津彦という稀有な英雄が存在したために、孝元天皇はその実像以上に優秀な統治者という評価をされてしまった。これは誰にとっても不幸なことだったのかもしれません。
それまで皇子や皇女を各地に派遣、婚姻政策で融和と地ならしを進めながら優秀な者を皇太子に指名し、九州に大和の情報や技術、人材を還元するという構造が機能していました。
しかし、本来この壮大な事業は将来的な合併、統一国家のためのものなのです。皇子や皇女たちはその意義と使命を理解していましたが、地域の利権が絡んでくる各地の豪族や王族たちにとっては簡単に割り切れるものではありません。中心が日向から大和へ移れば、それまで中心だった九州各地は一地方に成り下がります。それでも日向国の持つ歴史と権威が彼らの不満を抑え込み、ギリギリのところでその形を維持していたのです。
大和の鉄ネットワークを背景にやってきた孝元天皇は、彼らにとって火種を抱えた外敵そのものだったでしょう。盤石に思えた倭国連合の綻びはこの時から始まっていたのです。
そして、孝元天皇の後、中央を治めていたのは孝元天皇の皇子稚根子 (後の開化天皇)です。当時の大和は疫病が流行り、災害が多発、不安定な状況でした。稚根子皇子は決して突出した人物ではありませんでしたが、自らの力量を良く知り、他人を頼ることを知る君主の器は持っていました。
当時、百襲姫の各地での活躍はもはや伝説となり、当然中央の大和においても轟いていました。稚根子皇子は、そんな頼りになる叔母を大和へ招聘したのです。
「モモ叔母――――」
「……姉さん」
「も、モモ姉さん、助けて大和がピンチなんだ!!」
「もう、しょうがないわね、私が助けてあげるわ」
可愛い甥っ子に呼ばれて久しぶりに故郷の大和へ戻った百襲姫でしたが、悠長に里帰りを楽しむ余裕などありませんでした。
「いい、良く聞きなさい、このままだと貴方は殺されるわ」
「えええっ!? そんな……どうすれば……」
「私の言う通りにすれば大丈夫」
百襲姫はまず、神託を通して大和の聖地である三輪山の神を大物主であると定めます。それまでも三輪山は聖地ではありましたが、神の在り方はかなり揺れ (幅)があったため、国家の中心として固定する必要があったのです。さらにその祭祀を行う祭主として、大物主の娘 (出雲の正統祭主)大田田根子を大和へ迎え入れました。
百襲姫の優れているのは、それまで各地でそれぞれ祀られていた神々を中央、つまり大和へ集結させ、祭祀を国家的に制度化したことです。一つの神、祭祀で一本化するのではなく、ちゃんと併存させつつ国家として束ねる構図ですね。
そして大和の地で他の神々を祀る許可を大物主から得ます。
長尾市を倭の大国魂神を祀る祭主としました。大国魂神は、畿内の土地神で大和の“地霊”つまり土着勢力の象徴です。これを祀る祭主を立てるというのは、畿内の土着勢力を大和王権の宗教体系に組み込むということになります。
さらに八十万の群神を祀りました。八十万の群神とは、各地の神、各地の豪族、外縁の勢力、地方の祭祀権、これらすべての象徴。つまり、大和王権のもとに、全国の神々=勢力が集結したということになります。
百襲姫は、これらの神々を大和で祀る形を神の名のもとに正式に制度化することで、出雲、大和、畿内、そして全国各地の勢力を統一国家という形に束ねました。これは現代にも続く八百万の神々の住まう国という精神性、文化の原点であり、そういう意味では、彼女こそ日本という国の国母なのかもしれません。
そして、これらは、祭祀という象徴的な側面だけでなく、物部氏などのニギハヤヒ系の勢力が持つ軍事力を中央三輪山の神意に従わせるという意味がありました。彼女が軍事力の結集を急いだ理由――――
それは、この後起こる記紀史上最も大規模な事件に対処するためだったのです。
――――武埴安彦の乱、記紀史上最大の山場において、百襲姫の情報網と智慧が存分に発揮されます。
(日本書紀)吾聞 武埴安彦之妻吾田媛 密來之取倭香山土 領巾頭 而祈曰 是倭國之物實 乃反之 〈物實 此云望能志呂〉是以知有事焉 非早圖必後之 於是更留諸將軍而議之
(意訳)私が聞いたところによると、武埴安彦の妻・吾田媛が、ひそかに倭の香山へ行き、その土を取って自分の領巾 (ひれ=巫女の布)の端に包み、祈りながら言ったという。『これは倭国の“物実 (ものしろ=象徴・証拠)”である』そう言って、その土を逆さまに返した。
これを聞いて、私は“何か事が起こる兆しだ”と悟った。早く手を打たなければ、必ず後れを取るだろう。そこで諸将軍を引き留めて、改めて対策を議論した。
これ、普通に読んでも意味わからないと思うんですけど「物実」=土地の支配権を象徴するものなんです。つまり、吾田媛が香山の土を取って「物実」と呼んだのは、倭の中心 (香山)を我がものとする呪術的宣言にあたります。
そして、土を「逆さに返す」というのは、王権の転覆、支配の逆転、呪術的な反乱の宣言を意味する行為なんですね。
ようするに、これは 反乱の予告儀礼ということです。
すでに黒歴史の中で書きましたが、このあまりに九州的な呪術スタイルと、吾田媛という完全に南九州系の名前のせいで、以前の私は九州で起きたことを大和に移植したと考えたのですが、事件単体だけならそれでも良いんですが、さすがにこれだけ大きな事件の移植となると整合性が取れなくなります。よって、この事件は大和で起こったのだと考えています。
ただし、日本書紀では崇神期に起きたとされていますが、実際に起きたのは一代前の開化天皇期です。年代の整合性、崇神が百襲姫を叔母と呼んでいる点 (実際は開化天皇の叔母です)など、開化期だと仮定するとすべての矛盾やズレが綺麗に繋がるのです。
そして最大の理由は反乱の動機です。開化天皇は武埴安彦の腹違いの弟ですから、直接皇位争いは成立しますが、崇神天皇は武埴安彦の叔父なので、反乱起こしても皇位には就けないし、年齢的にも無理がある。動機が弱いというかほとんど意味がないんですね。
日本書記がこの反乱を崇神期に持ってきた理由は明確です。
開化天皇 VS 武埴安彦としてしまうと兄弟の皇位争いになってしまい、皇統の正統性が揺れてしまう。でも、崇神 VS 武埴安彦なら、そそのかされた勘違い叔父が血迷って反乱を起こし、英雄である崇神天皇がそれを見事打ち破ったということに出来ます。兄弟同士の殺し合いを薄め、英雄性にフォーカスが当てられるというわけです。
さらに崇神天皇は実質的な初代大和王です。
彼が持つ称号、御肇國天皇 (はつくにしらすすめらみこと)というのは、“初めて国を治めた天皇”という意味です。
この称号を持っているのは、始馭天下之天皇 (はつくにしらすすめらみこと)つまり、初代神武天皇だけ、これは、神武天皇が象徴的、神話的な意味での初代、崇神天皇が実質的な初代であることを意味しています。
開化天皇は異常なほど記述が無く、一方で崇神天皇は異常なほど記述が分厚い。これは、初代王を華々しく演出するために、開化天皇期の業績をまとめて移植したからでしょう。そして――――国母である百襲姫と崇神天皇を強く結びつける必要があったからと考えます。
そして、反乱の背後にあるものですが、当時倭国 (九州連合)は、父孝元天皇が大和の鉄のネットワークを日向に持ち込んだために不満や反発が高まり、魏志倭人伝が記した倭国の乱に突入していました。倭国というのは、共通の利益の元にまとまっている国々の連合体です。そのトップが特定の勢力のために動けばそれはおかしくなるのも当然です。それでも孝元天皇自身にそれを抑え込めるだけのカリスマ性や指導力があればまだ何とかなったのでしょうけれど、彼は一族の政治的基盤のみで支えられてきたお飾りです。残念ながらそんな力はありませんでした。
吾田媛を使って武埴安彦をそそのかし、後ろ盾になったのはそういった大和勢力に不満や危機感を持つ勢力でしょう。あまりにも大和寄りに偏り過ぎた王統を再び九州系に戻そうとする意味もあったはずです。そして何より、武埴安彦自身が弟が王位を継ぐことに納得していなかったことが決定的でした。
古代九州においては、兄が軍事を司り、弟が政治的、祭祀的な部分を担当するのが慣例でした。しかし武埴安彦は大和育ちです。兄である自分の方が王に相応しいと感じていたのでしょう。
そして兄として山背(京都)一帯を支配し、軍事権をもって中央の弟を守る立場、逆に言えばその気になればいつでも弟を殺し、中央を占拠することは出来る立場にいたことも大きいと思います。
本能寺における明智光秀の立場だと考えてもらえば近いかもしれません。
動機はある、後ろ盾もある、成功する可能性は限りなく高い。武埴安彦はそう思っていたでしょう。
さらに念には念を入れて、中央の将軍たちが各地へ派遣されたタイミングを見計らって自らは北から、妻の吾田媛には東から同時に中央へ攻め入りました。普通ならほぼ確実にクーデター成功です。
武埴安彦に過ちがあったとすれば、それは百襲姫の力量を見誤っていたことでしょう。
将軍派遣も事前に反乱を察知し、彼らが動き出すのを誘った彼女の策です。
吾田媛は待ち伏せた吉備津彦に討たれ、武埴安彦も討ち死にします。
「さすがね弟」
「はは……モモ姉だけは敵に回したくないな」
というわけで、大和でも大活躍の百襲姫でした。次回はいよいよ卑弥呼爆誕です。




