第十八話 倭迹迹日百襲姫命
邪馬壹国論争がなぜいつまでも終わらないのか?
それは、魏志倭人伝の記述に従えば九州、考古学的には畿内が優勢だからです。
そして魏志倭人伝は終始九州について語っていますし、日本書紀は大和以外の要素を排除しているため、接点は無いように思えますが、幸運にも二つの正史を繋ぐ糸は残っています。
ご存じの通り大和は九州の日向から出発した神武天皇の東遷から始まります。そして、日本書紀はその皇統を一本の物語に繋ぐための正史であるがゆえに、その系譜や神代の物語を残しています。
畿内にヤマトはあった、しかし同時に九州の日向にもヤマトはあった。矛盾する状況に思えますけど、両方正しい。日本書紀には書けないけれど、確実に同時に王権が並立した時期がありました。
卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命、台与=豊鍬入姫命という接点から見えてくる古代日本の姿。正直なところ邪馬台国論争なんて私はわりとどうでも良いんです。ただ、懸命に生きた英雄たちがたしかに居て、その人たちのおかげで今の日本がある。歴史に埋もれている微かな温度と輝きを拾ってあげたいんですよね。
というわけで、歴史エッセイ再スタートです。やはり最初はこの人しかいないですよね、ほとんど情報が無いのに二千年近く人々を魅了してやまないカリスマ女王卑弥呼、つまり倭迹迹日百襲姫命です。
ではさっそく参りましょうか、彼女が生まれた時代、二世紀の黒田廬戸宮へ。
倭迹迹日百襲姫命は、孝霊天皇と倭国香媛の間に生まれた皇女です。
彼女は、父孝霊天皇が宮(古代における拠点)としていた黒田廬戸宮(現在の奈良県磯城郡田原本町黒田付近)で誕生しましたが、7歳の頃、ここを去って讃岐(香川県)へ向かうことになります。
一体何があったのか? 香川県かがわ市の水主神社の伝承や、各地に残っている古記録によると、当時大きな乱が起こっており、不安定になっていたため避難させたということになっています。また、この時、孝霊天皇が伯耆国(鳥取県)へ遠征し、黒田宮に人が居なくなってしまったので讃岐へ移ったという説もあります。
弟の吉備津彦は吉備へ送られたので、百襲姫はたった一人で生まれ育った場所を離れることになったのです。母は一切伝承には登場しないので、おそらく孝霊天皇と行動を共にしていると思われます。理由は後述しますね。
というわけで、後の卑弥呼となる百襲姫のお話が始まるんですが、まずは当時の状況を一緒に把握していきましょう。
この時代の大和ですが、神武東遷から始まる数世代にわたる「地ならし」が続いています。父である孝霊天皇は、大和の王であると同時に派遣された本家日向の皇太子候補の一人であり、日向の王が亡くなれば本家の王として即位することになっていたはずです。つまり大和の王とは、派遣先の長官、都督のようなものであったというのが実態に近いと考えます。
皇子や皇女たちの使命は、とにかく現地の人たちと仲良くして、各地の有力者との間に子を作ることです。そうやって少しずつ何百年もかけて融合していくわけですね。実際に、百襲姫や弟の吉備津彦は現地で生まれた世代です。将来的には大和の地で活躍し、統合大和国の礎となることが期待されていたわけです。
そして孝霊天皇が向かったとされる伯耆国ですが、当時はまだ大和・出雲どちらの勢力圏にも属していない辺境勢力です。鉄資源の産地でもあり、山陰海上ルートの要衝でもあるこの地域を大和連合に引き入れる(加盟させる)ことは当時の至上命題、最優先事項だったと思います。したがって、武力での遠征ではなく、あくまで話し合い、交渉を前提に向かったとみるべきでしょう。
血の繋がりを重視する古代日本において、婚姻は一番合理的で平和的な方法です。孝霊天皇の遠征目的は、おそらく当地において影響力のある相手との婚姻だったはずです。
その視点で見ると、興味深い人物がいます。細媛命、孝霊天皇の妃の一人ですが、彼女の一族は、吉備、伯耆、備前、出雲という鉄器と鉄の生産に関わっている地域の流通ネットワークを握っているのです。孝霊天皇は彼女との婚姻を突破口に伯耆国を連合に加盟させていったのかもしれません。
そして、吉備津彦が送られた吉備もまたその一つ、これは単なる一時的な避難ではなく、将来的な布石として送り込まれたのだと考えるのが自然です。実際そうなっていますので。一方の百襲姫が送られた讃岐は、日向と大和、吉備などを繋ぐ海上ネットワークの要衝でもあり、古代から交流の深い場所です。そして何より巫女文化が非常に栄えた地域でもあります。母倭国香媛は最高位の巫女、娘である百襲姫がこの地に送られたのは、安全性だけでなく、巫女としての修行という側面もあったのでしょう。
それにしてもわずか7歳、弟の吉備津彦はもっと幼いわけで、せめて母親が側に居てあげたら良いのに、と思ってしまうのですが、それは出来なかったと思います。
当時の支配構造というのは、王と巫女がワンセットなのです。武力だけでは駄目で、土地神を鎮める巫女の霊的な力が、支配を完全なものとするために不可欠でした。文化的な違いで魏の人間には理解出来なかったようですが、卑弥呼(姫巫女もしくは日向巫女)というのは、王の上に立つ者ではなく、王と対等で補完し合うパートナーというわけですね。だから姫巫女として常に孝霊天皇と行動を共にする必要があったわけです。
ちなみに巫女なのに結婚出来るの? って思うかもしれませんが、普通に出来ます。後に卑弥呼がなる神の妻(神妻)は神が夫なので駄目ですけれど。
そして伝承が示唆する「黒田宮に人が居なくなる」という意味。これは、孝霊天皇が日向に戻り即位したことを意味していると考えます。宮というのは拠点のことですが、基本的に一代で終わりです。次に派遣された皇子は、また別の場所に宮(拠点)を構えますので。
つまり、百襲姫と吉備津彦は、まだ幼いにもかかわらず、親だけでなく姉弟同士も離れ離れになり、生まれ育った黒田宮という帰る場所すら失ってしまったのです。残酷なようですが、それが皇族として生まれたということなのですね。
百襲姫は、黒田宮に居た頃から、占いや知能に極めて優れたお方、と称されていました。今風に言えば、並外れた知能指数を持った天才であり、常人では理解できない感性を持っていたということですね。
7歳で大和を出発し、その後8歳の時、東讃(香川県東部)の「安戸の浦(引田)」に辿り着きますが、当時、讃岐は深刻な水不足に悩まされていました。
驚くべきことに、そこで彼女は、降水量の少ない讃岐の風土に合わせるため、各地を巡りため池の築造や灌漑整備を指導したのです。さらに水源を見つけ出してその管理を徹底させました。現在の香川県が「ため池王国」であるルーツは、この時の百襲姫による天才的なアイデアに遡るとされています。
人々は「水の主」として百襲姫を崇めました。香川には彼女の伝承がたくさん残っています。舟を掛けた場所が艪懸明神、袖を掛けた場所が袖掛神社というように、神社や地名にもその足跡は残っていて、讃岐国一宮である田村神社では、農業殖産の祖伸として弟の吉備津彦命と共に祀られています。
ところで皆さん、気付きましたか?
そうです――――百襲姫は人生二回目、もしくは転生者の主人公だったのです!!
という冗談はさておき、そう思ってしまうくらいの天才だった百襲姫ですが、その才能と活躍は農業分野だけに留まりませんでした。
当時の瀬戸内海は、良民を苦しめる海賊が横行していました。讃岐の対岸にある吉備でもその被害は深刻で、弟の吉備津彦は、対応に困って姉のいる讃岐まで相談にやって来たのです。
すると百襲姫、「ちょうど良いところに来たわね、一緒に海賊退治するわよ!!」と、なんと姉弟で海賊を退治することに。
以前から情報ネットワークを構築し、海賊の動向を調べていた彼女にとって、足りなかったのは武力を持った実働部隊だけでした。まさに渡りに船であったことでしょう。あるいは、それすら計算に入れていたかもしれません。
百襲姫の天才的な策略と情報によって丸裸にされてしまった海賊は、吉備津彦の軍によって次々に駆逐され、瀬戸内海の平和と治安が回復しました。
高松港の沖にある女木島は別名「鬼ヶ島」と呼ばれ、ここを根城にしていた海賊たちを姉弟が倒したという伝説が残っています。さらに高松市には「鬼無」という珍しい地名があり、姉弟が鬼を退治したことで鬼がいなくなったことに由来するそうです。
さらに興味深いのは、この周辺には、雉ヶ谷を始めとして、猿や犬の名が付く地名が集まっています。完全に桃太郎の世界ですね。
さらに面白いのは、吉備津彦命は百襲姫の弟だから「ももたろう」と呼ばれたとの説もあったりします。さすが元祖桃太郎のモデルだけのことはあります。余談ですが、彼女がかぐや姫のモデルになったという説まであったりするのですが……どれだけ人気があったのかわかりますよね。
そして、圧巻なのは吉備における活躍です。吉備に居た吉備津彦は、十年以上吉備の残党勢力(大和に帰順しない抵抗勢力)に苦しめられていました。
困った吉備津彦は、「モモ姉、助けて!!」と姉に泣きつきます。
当然、百襲姫は、「私に任せなさい!!」と可愛い弟のために吉備へ向かい――――
その驚異的な先見性と洞察力や智慧、圧倒的な交渉力そしてカリスマ性であっさり解決してしまったんです。
幼くして故郷を離れ、避難生活を余儀なくされた百襲姫でしたが、めげることなくその卓越した能力によって、内政、軍事の指揮能力を存分に発揮し、讃岐、吉備という当時の二大拠点を掌握し平定するという偉業を成し遂げました。
ですが、前話でもチラッと書きましたが、これらのことは日本書紀には一切出て来ません。理由は、大和じゃないから。これが大和に宮を構えた皇子の遠征ということだったら記述されますが、四国へ移住している人間がどれだけ現地や吉備で活躍しようが関係ないのです。
あくまで初代神武天皇から代々の大和王の足跡を一本の物語として繋ぎ、整理するのが日本書紀の役割であり編纂コンセプト。悪意があるとか隠そうとかそういう話ではなく、王のいる場所で起こっていることでなければ書く意味がないというだけの話です。
実際、百襲姫が大和に戻り、崇神天皇の元で活躍する場面はバッチリ収録されていますからね。
というわけで、幼少期から成人するまでの若き日の卑弥呼、百襲姫のお話でした。次回は大和へ戻ることになった彼女の足跡を追うことにしましょう。




